銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

最初の通信簿に、2が、あった私。・・・・・それを、母が、大いにはやした。△

2013-06-08 22:38:47 | 政治
 この一文は、6000字という短さで、いったん終わりと、させていただきます。推敲を終えましたので、タイトルの右横に、△印を付けておきます。

副題1、『最初の通信簿で、労働を尊ぶという項目が、2だった私』
副題2、『しかし、母が、面白がって、はやすので、労働が嫌いでもいいんだ、と思い込んだ私』
副題3、『学芸会の、主役は、常に地域の有力者の子供です』
副題4、『転校の際、母を呼んで、ご注意を下さった担任』
副題5、『やがて、日吉の街のスターになって行った私』
副題6、『私には、引き立て線が、一本、8センチの長さで、立っている』
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副題1、『最初の通信簿で、労働を尊ぶという項目が、2だった私』

 今の通信簿の書式がどうなっているかを、私は知りません。だが、戦前は、優、良、可(または、優、秀、良、可、不可)という段階で、評価された形式が、戦後は、五段階評価になっていると思います。ただ、私が、1950年に小学校の一年生として初めて貰った通信簿は、五段階評価が数字ではなくて、言葉で、表記されていました。1が、「劣る」であって、2が、「やや劣る」であり、3が「普通」だったと思います。最初に貰った通信簿を見た母が、びっくり仰天して、「うわ、この子、<労働を尊ぶ>が、やや劣るですって」と、父に話し掛けました。

 通信簿には、学業成績の部分と、行動のさまざまを観察し、先生が評価を下す、道徳や、心理的な発達を記載する別の欄があって、そちらの方で、2がついたのです。つまり、お掃除が始まると、極端に木偶の坊になる私を、先生は、そう評価したのでした。私は、自宅ではお掃除など、やらせられた事がなくて、本を読むことぐらいしかしたことがなかったので、もたもたしていたのです。

 当時の船橋市立、塚田小学校って、生徒の90%が農家の子供でした。そして、当時の船橋市の農家って、当たるべからざる勢いのある時代でした。まだ、土地を宅地として売るという事は活発ではなかったと思われますが、野菜が、高く売れる時代でした。戦後の食糧難の時期に、農家から、オート三輪で、直接東京の市場へ、入荷することのできる船橋市の農家など、現金と言う意味では、高収入の時代で、サラリーマン家庭などとは、比較にならない豊かさがある時期だったのです。オート三輪だって、庭に数台は停めてありましたし。

 ある日、お庭で、ゆでた貝を、ごちそうになった事があるのですが、食器がたらいなのです。たらいとは、直径が、90センチぐらいの桶で、そこに、つぶ貝とか、にしと言うアサリやハマグリ以外の貝が、てんこ盛りで、入れてあったのでした。アサリや、ハマグリは、台所で、鍋でゆでたと思われます。だが、にしや、つぶ貝は、お料理に使う貝ではなくて、雑多ものですから、たらいに入れてあったのでしょう。ところで、お若い方は、たらいを何に使うのか、ご存じないと思いますが、昔、自宅のお風呂が一般的でなかった時代に、行水と言って、夏に一種のシャワーを浴びる道具だったし、夏以外は、洗濯をする道具だったのです。
 だから、私にとっては、たらいが食器になっているというだけで、びっくり仰天ですが、それほど、何もかも大量に、提供され、食されていたのが、当時の船橋の農家でした。

 今、がっつり食べるという言葉があります。今の私はその傾向が強くて、一日、四回食だし、一回の食事も量が多くて、茶道などをたしなむ友達から、「見かけ(事実上は、やせている)によらず、ずいぶん、食べるのね」と、あきれられていますが、1950年当時の私は、食が細くて、腺病質で、大量の貝も、それが、たらいに入っているというだけで、食欲を無くしていたものです。いまだったら、7個ぐらいが、ひとパックに入っていて、500円はするもので、珍しいものなのに、もったいない事でした。(笑)

 で、当時の船橋市、塚田の友達は、みんな、エネルギーが満々で、しかも、お手伝いもさせられていたから、体を動かすという意味では、敏捷だったのです。それに比べれば、ひときわトロイ子が私でした。
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副題2、『しかし、母が、面白がって、はやすので、労働が嫌いでもいいんだ、と思い込んだ私』

 母や父にとって、級長である事など当たり前のことで、したがって、自分の子が、学業優秀である事など、疑いようもない事なので、この2がついたというのが、大変な珍事であり、面白がって、後々まで、語り草にしました。親戚の人が来るたびに話題にしたりして。

 エーリッヒ・ケストナーの「私が子どもだったころ」という作品の中で、<子供も、チャンと、ものを、考えるのだ>という事が書かれてありますが、それは、あたりで、私は、こどもごころに、『ああ、私は、労働は苦手でもいいんだわ。学業成績さえ良ければ』と、思い込んだ事でした。だって、母の言い草って、心配している人のそれではありませんでした。ただ、ただ、面白がっているというそれでしたから。

 私が労働の喜びに目覚めるのは、50歳過ぎてからです。取り組んで、好きになったヘイター方式という版画は、重労働を伴います。30キログラムぐらいの重さのローラーという道具を、一日に500回程度手で、回転をさせるのです。それに、片付けも厄介で、版画を、5枚程度摺ろうと思ったら、10時間ほど、連続して、立って動かないとだめです。だが、予想外の色彩効果が生まれることが面白くて、そこに熱中しているうちに、いつの間にか、労働を嫌いではなくなっている私なのでした。しかし、劇的な創作の喜びを、味わう事の出来ない家事労働、特に掃除や片付けには相変わらず、魅力を感じず、つい後回しになるのでした。
 それらが、『面白いし、いいなあ』と、感じ始めたのは、ごく、ごく、最近の事です。

 大いなる矛盾でもありますが、頭脳労働の頂点にある、このブログを書くことのしんどさが、肉体労働の楽しさを教えてくれたのでした。単純に美しくなる行為。これは、しんどくて、汚い事を書き続けているからこそ、その美を、味わう事のできる、正反対の行動様式なのです。
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副題3、『学芸会の、主役は、常に地域の有力者の子供です』

 ところで、上の章で、子供は、結構物を考えているのだと、書いていますが、私が当時、不思議に思ったのは、学芸会の主役が、毎年決まっている事です。顔のきれいなお嬢さんに充てられるのですが、その子は、おっとりしているお嬢様なのですが、劇の才能は無いと、見えました。だから、今一種の瓜ティークになっている私から見ると、劇がつまらないものになってしまいます。2年の時も、その子が主役だったので、『おかしい。変だ』と感じました。しかし、その子は、塚田からひと駅程、離れた馬込沢という地域に住んでいるので、自宅へ遊びに行った事がなくて、どうしてそういう事になるのかの本当の理由を知りませんでした。

 が、どうしてか、一回だけ、お招きを受けた事があって、クラス全員で訪問したのですが、私が以前から、豊かだなと思っていた、ご近所の農家より、格上の感じがしました。騒がしくないし、エネルギーも少ないのですが、立派な木の門柱が建っていて、もしかしたら、江戸時代から代官様とかいうクラスで、生きてきた家ではないかと思います。又は、大地主という身分の家庭。

 当時の私の担任の先生は、お若い戦争未亡人であって、民主主義教育を実践なさろうとしていました。先生が千葉大の付属小学校を見学に行った感想は、理想的な教育が行われている千葉大付属小学校への賛美だったと、記憶をしています。

 それなのに、学芸会の主役は、地域の有力者の娘と決まっています。矛盾です。だが、大人になったあるとき、昔の、記念・集合・写真を見ていて、『ああ、あれは、校長先生の発案だったのだろう』と思い至りました。担任の先生は、吉永さゆり風の、清潔で、穏和な顔をされていますが、校長先生は如才のない策士と言った風情ですので、たぶん、そうだったのです。

 こういう事をここで、書くのは、地域によって、住民のカラーや民度に差があるという事を言いたいのです。民度の高い所に住めば、自動的に幸せになるというものでもありません。だが、就職先がブラック企業と名高い、ワタミみたいなところよりも、社員食堂が充実しているタニタみたいな会社に就職した方が、幸せそうですよね。そういう意味でも、誰にとっても大切な事だと思いますが、自分が今住んでいる、鎌倉雪の下の近辺が、驚くほど、古い発想で、支配され、運営をされている事が、私の被害を拡大していますので、その土地の持つカラーとは、大切なものなのだと、考える次第です。

 なお、船橋市の塚田駅近辺を離れて、ほぼ、60年がたちます。グーグルマップの写真で見ると、私が住んでいたあたりに、大マンションが数棟建っていますので、町のカラーも激変していると思います。今では、学芸会の主役が、地域の有力者のこどもだと決まっているという事もないでしょう。
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副題4、『転校の際、母を呼んで、ご注意を下さった担任の先生』

 塚田小学校での私の担任は、一年から三年まで同じ人で、石綿先生という方だったと記憶しています。私が、横浜市立日吉台小学校へ、転校することになったときに、先生は、母を呼んで、こういう風にご注意をくださいました。

 「お宅のお嬢さんは、ここでは、何でも一番です。だけど、ちょっと慢心している気味があります。で、手抜きが多いし、雑に暮らしています。だけど、今度の小学校では、お宅のお嬢さんクラスの子供がうじゃうじゃいるでしょう。で、油断をしていると、すぐ、成績も下落するでしょう。それが、挫折感につながると、まずいですよ。
 ぜひ、教え諭してあげてください。慢心を戒め、謙虚になり、努力をする様にと」

 母は、ひどく感銘を受けたらしくて、帰宅してから、私をまじめに教え諭しました。「良くできる友達が、今度は多数いるのよ。増長して、なんでも簡単にできるわと、油断していたらだめよ」と。その50年後、日吉台小学校時代の友達が、「ねえ、読売新聞に出ていたけれど、日吉台小学校って、日本一私学進学率が高いんですって」と、教えてくれました。そういうわけで、日吉とは、民度として、レベルの高い地域では、ある模様です。
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副題5、『やがて、日吉の街のスターになって行った私』

 転校とは、ひとつの転機です。そして、それを、得難い好機として、私は一回、羽化をします。だらしなく、自分を肯定していた、慢心していた自分から、謙虚に自己観察をする子へと、変化して行きます。それは、他の子よりも、大人の自覚を持っているという事になったのかな? やがて、日吉の街で、どの家にも歓迎をされる子となって行きます。誕生会パーティや、クリスマスパーティには必ず、招かれる子となって行きます。それは、友達自身よりも、友達のお母さんに、好まれたからです。『きちんとしつけができていて、しかも自発的に、よく勉強する子だから、あの子の影響を自然に受けてほしい』と願われる子へと、変化して行きます。

 実はそれは、友達にとっては、はた迷惑な子供だという事になった可能性はありますが(苦笑)

 今の日吉の街は、人口が増えてしまいました。そして、昔一軒だった家を、三分割にして、三階建てを建てたりしているので、一種の荒れた状態を招いています。が、当時は、5000人ぐらいの人口で、小学校の行事とか、PTAを中心として、「ちょっとした家同士は、知り合いです」と言うような関係を持っていました。その中で、街の小さなスターとしての人生を、20歳ごろまで送る事が出来ました。特にサラリーマン家庭が多いので、ブランド名の高い学校に進学するのは、勝利とみなされていて、私も兄弟も、そういう学校に進学している我が家は、信用の高い家庭の一つとなって行きました。あれが、私の人生で、花の時期でしたね。(笑)

 誰にも、総量としては等量の幸せと、不幸せがあるのだという説を見聞した事がありますが、あのころ、幸せだったので、今、苦労をするのも、仕方がないのかもしれません。(笑)
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副題6、『私には、引き立て線が、一本、8センチの長さで、立っている』

 私の手相は線がすべて、細いのです。だが、2重線が多くて、かつ、意味のあるしるしが多数あるので、芸術家を目指すのには、ぴったりだと言われた事があります。しかし、6回は訪問した、そちらからも解説がなく、
 どんな手相の本にも出ていない、とても目立つ線が、手のひらの外側にあります。

 それは、財運線であろうと誤解され、25歳のときに、「あなたは、一生、お金には苦労をしない」と言われたこともあります。また、多くの本には健康線という名前で出ていて、体にどこか、不調を抱えていると解説してあります。確かに、体に不調はあります。バリバリと仕事をする事はできません。でも、主人に言わせると、「低空飛行ながらも、70歳になるまで、体にメスを入れた事もなく、ガンを身体の中に抱えてもいないで、かつ、下血も吐血も経験したことがなく、かつ、連れ合いも、健康だという家庭なんて、他に、ないよ」と言いますので、たぶん、健康運はいい方ですから、不調を示すという健康線ではありません。

 長らく、いったいこれは何を意味するのだろうと、不思議でしたが、ある一冊の本にだけは、引き立て線という言葉があって、なるほどと、納得をしました。学校時代の先生や、社会に出てからの年長者たちに、取り立て、引き立ててもらい、援護されたり、ほめてもらたりした事が、今の自分を作っていると思います。

 しかし、ランクの差がある人だとそれが、うまく機能するのですが、ランクが同レベルの人とか、年が同じとなると、嫉妬を招き易いという弊害につながります。
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副題7、『この山のスターは、変化して行く』

 皆様、上に書いた事は、この章の導入だったのですが、肝心のところで、睡魔に襲われています。で、パソコンから、いったん、離れます。
 のちほど、加筆をしますと、約束をしていましたが、加筆部分は、恐れ入りますが、別章建てをいたします。
なお、このブログの2010年より数え始めた伸べ訪問回数は1658054です。
  2013年6月8日の深夜書き始め、9日の深夜に推敲を終える。
              雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
コメント
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