今は、11日の夜の10時半ですが、これから、四度目の補筆を、$$$$$$$$罫線以下に、行います。
2019年10月10日の午後1時から、偶然に、見た、吉野彰氏の記者会見に感銘を受けたので、テーマを一時的に、移動をさせたいと、思っています。ライヴで、記者会見をなさるとは聞いていましたが、BS1と言うチャンネルで、放映するという事は、知りませんでした。で、感銘を受ける様な、番組をみることとなったのは、天に感謝しています。
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副題1、『吉野彰さんの、話が、分かりやすい事を、まず挙げたい。最近の日本人受賞者の中では、もっとも、お話が、分かりやすかった。特に記者会見(10日に東京のホテルで行われたと聞くもの。帝国ホテルですか?)の冒頭のあいさつの、短い事、短い事、それは、賢いスピーチというものの典型だった』
で、冒頭のあいさつが済んで、取り仕切る人(女性)が、これから、「質疑応答に入ります」といったのです。一番最初に手を挙げた、最前列の人が、日経BP社の、誰のだれがしと、名乗りました。この人の質問がまた、素晴らしかったのです。したがって、私は、そのやり取りに、思わず、引き込まれました。
その記者は、14年前に、一度、吉野さんを取材して記事を書いているそうです。だから、ほかの記者に比較すると、一頭地を抜けて、的を得た、質問をして、吉野さんに、お話をしやすいように、もっていきました。NHKは、18分だけ、ライブ中継をして、その後、科学系記者の解説と、言う方向へ入ってしまったのですが、・・・・・私は、最初の日経BP社の記者の質問と、それへの答えを、聞いただけで、大満足をしました。
:::::::::::ここで、挿入に入ります。
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副題2、『その記者の質問のどこが、よかったかという事を説明するにあたって、・・・・・私も、とても似ている人間であって、・・・・・良い質問を目上の人に向けて、放っていたので、目上の人から、かわいがられていたことを思い出した。自分でも、自分は、いわゆる、老人キラーなのではないかと、思って居た時期もあった。それほどに、私は、質問が、上手な人間なのだ。
ここで、前報(後注1)に置いた、ブログの副題3の、しかも、其の第三節に置いた、学習院大学の教授にして、サントリー学芸賞を受賞している女性との、エピソードに、戻りたい。まさしく、このハイレベルな質問を出すと、言う行動が、関与しているので、そこに戻って、しばし、文章を展開したい。
画廊【るたん】に、同時刻の訪問者として、彼女が現れた時には、私は、彼女の名前をおぼえていた。画廊のオーナーの中島三枝子さんが、横で、目を吊り上げながら、しかも、虎視眈々と、二人を見つめているので、瞬時に委細が、わかった。つまり、彼女は、中島三枝子さんから、宝物のごとく扱われ、そして、私の方は、三枝子さんから、虫けらのごとく扱われる。それによって、サントリー学芸賞受賞者の方からも、軽蔑されるであろう私が、二重の足蹴(軽蔑)を受けて、ぎゃふんとなるのを、見たいと、思って、待っていたのだった。そして、佐野ぬいさんに報告をするのかな? または、赤津侃さんに(なお、赤津侃さんは、美術9条の会の委員である。なるほど)
ところが、当該のお客さんは、威張らない。丁重な態度である。それには、私の方も驚いた。というのも、そのお客さん=高橋裕子さんは、小関利雄セミナー時代(1986~7)には、彼女の方が、年若いのにもかかわらず、私を、軽蔑気味だったからだ。どういうことかというと、彼女は、上智大学を卒業していて、私は、ICUを卒業している。二つの大学はカラーが似ている。そして、私が卒業した1966年ごろには、ICUの方が人気も高く、評価も高かった。しかし、逗子のセミナーで、一緒になったころは、上智がICUを人気の上で、抜いて居たかな? それもあって、裕子さんは、セミナー時代は、けんもほろろだった。卒業大学の上下関係を気にすると、いう事と、もう一つ、そのセミナーで、質問を小関先生に、投げかける人の双璧だったからだ。それで、当時は、彼女の方が、ライバル視していたかもしれない。
私は彼女が、美術評論を専門としているとは、全く知らなかった。が、彼女が、学術用語を駆使する質問を、小関先生に投げかけているのは、横目でみていた。一方の、私はというと、間を十分に開けた、ゆっくりしたスピードとタイミングで、質問を投げかける。それに対して、小関先生は、愛弟子を見る眼で、答えてくださった。どうしてかというと、私が、前回教えて貰ったことを、マスターした実作(4号から、6号の油絵抽象画)を、次の会に、持参するからだった。ほかのメンバーで、持参する人も多かった。しかし、それらは、公募団体展に、応募する前の、100号とか、150号を木枠から、外して、巻いて、持ってくるのだった。私も神奈川女流展から始まって、国展まで、15年ぐらい、公募団体展生活をつづけたので、自分の作品も含めて言うのだが、100号以上になると、絵が、浅くなる。又は、言い方を変えると、水っぽくなる。しかし、3号から、6号程度で、描くと、完成度や、緊密度の高いものができる。で、べた褒めに褒められた。で、私は、すぐ『これは、まずいよ。ほかのメンバーの嫉妬を招くよ』と、思って、一時間早く行って、誰もほかの人がいない時間帯に、批評をしてもらう事にした。△
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副題3、『ここで、色彩感覚の良しあしについて、述べないといけない。しかし、このポイントは、サントリー学芸賞受賞者にして、学習院大学教授の女性とは、競り合うポイントではない。彼女は、絵をかく人ではないからだ。むしろ、今、俎上に上っている増田清美さんと、関係がある。』
上の△印の所へ戻ります。では、なぜ、小関先生に、ほめられたか、そのポイントを言いましょう。それは、色彩感覚がよいからでした。増田清美さんも、きわめて色彩感覚がよい人間です。私が出入りしているのは、貸し画廊が主ですが、そのオーナーたちの中でも、群を抜いて、色彩感覚がよくて、かつ、画廊内展示に、其の嗜好を反映しています。
ここですが、画廊のオーナー本人は、好みがはっきりしていても、それを、貫くことは、難しいのです。だから、たいていの貸し画廊では、作品傾向に、特に、色彩感覚としての特徴は見られません。ところが、増田きよみさんは、そこに妥協がないのです。そういう姿勢を貫くことはなかなかの事です。だから、ほぼ、20年、彼女の画廊に出入りをしていても、揺るぎがない彼女を、相当に尊敬してきましたよ。
しかし、私が、高い評価を与えているからこそ、彼女は、敵陣に取り込まれてしまっていて、攻撃をしてくるようになったわけです。ただし、相当に、隠した形式で、お砂糖をまぶした様な形式です。というのも、非常に深く、かつ、大きく取り込まれているので、伊藤玄二郎風の手法が、徹底的に、そこに、応用をされているからです。でも、ほとんどのケースで、裏がわかっています。ただ、私が、今までは、それについて、詳細には、語ってこなかっただけです。
2019年10月5日のケースでは、「川崎さん、もう、突っ込まないで」と、言ったのでした。彼女は、その言葉が、何も問題がないと、思って居ます。
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副題4、『今、画家の剽窃をテーマにものを書いている私に向かって、突っ込まないでと、言う言葉はない。私は、大激怒したのだった。なぜ、そういう事になるのかを、これから、説明をしたい』
今、画家の剽窃シリーズを書いている最中です。そのシリーズは、無論政治的問題です。つまり、伊藤玄二郎+酒井忠康氏は、院展審査員の、中島千波さんを取り込んで、大原光孝という人物が、これから、応募する作品を、必ず、春季院展に入選させてくださいと、頼んでいた、・・・・・はずです。その後の中島千波さんの行動、特にあえて、私の目の前に3メートルの至近距離に、意味ありげに、現れるという行動、数回に、よって、それを、私は、確信をしているのです。
大原光孝という人物が描く予定の作品は、彼と、創形美術学校の同窓であり、彼よりは、年若い本田和博という画家の作品です。本田君の絵とは、都会の小学校・・・(例えば、アルマーニの制服で、突然、大騒ぎを起こした、泰明小学校を思い浮かべてください。校舎も、校庭もコンクリート打ちです。そ)・・・の三階、もしくは、屋上から、下を眺めてごらんなさい。遊んでいる子供たちが、とても小さく見えます。その三十人ぐらいの子供を、テーマにした絵なのです。最近では、違うテーマの絵を描いているかもしれません。しかし、ここで、問題にしている、15年前は、本田君は、そういう絵をかいていて、大変に特色がありました。
私は、彼の作品にはひどく驚かさせられました。テーマにも特徴があるが、マチエールがすごいのです。マチエールとは絵の表面の質感の事です。私は画廊の室内で、10分程度、いろいろ、対話をしました。しかし、さして、重要な、美術評論分を書いた覚えはないのです。自分では彼について、美術評論分を書いた覚えはみじんもないのです。
私は、自分の文章を感想文とか、エッセイの一種だと、思って居ますから、ほかの美術評論家みたいに、それを、プリントアウトして、作家にあげて、そして、10万円から、30万円の謝礼をもらうという発想はみじんもありません。この人に関しても、いい作家だなあと、は、思いましたが、メルマガで、ちらっとほめたぐらいで、本当に、自分のことを、美術評論家などとは、思っても居ませんでした。しかし、実は画家たちの間では、大評判をとっていて、「銀座で、川崎千恵子を知らない人は、潜りだ」と、言われていたそうです。したがって、かえって、既成の美術評論家は、危機感を抱いたらしいのです。
特に勤務先を持っていない美術評論家が、危機感を抱いたのです。彼等は、お金を稼ぐために、自分の、純粋さを失って居る向きもありました。まあ、こういう事は言ってはいけない類の事でしょうが、雑誌の連載を絶った、一年で辞めさせられたり、この章では画廊るたんと、K's ギャラリーと、ギャルリーユマニテしか、言及しませんが、すさまじいまでの、いじめを数多い先から受けてきたので、ここまで、はっきり言う資格が、私には、生成してきたのです。
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美術館のスタッフをしているとか、大学のスタッフをしているとか、新聞社に勤務していると、言う種類の、美術評論家は、私ごときには、影響を受けるはずもないのですが、独立して、どこからもサラリーをもらって居ない、美術評論家が、危機感を持ったのです。そのムードを利用したのが、例の、美術9条の会を裏から支配している井上ひさしです。その二人羽織としての、伊藤玄二郎は、その対立を、利用することを思いつきました。どうしてかというと、彼の愛人、石川和子さんは、その友人、安野智紗夫人と、一緒になって、・・・・・結果として、私の土地が理不尽にも盗まれることとなった、アジサイ畑欺罔事件を起こしているので、・・・・・それの真相を書いている、私を、いじめ殺そうと、思っているわけです。
ここですが、今度の朝ドラの主人公は、女性陶芸家です。朝ドラが、いかに、鎌倉エージェントに支配をされているかがわかります。石川和子さんは、私の一軒間を置いた隣で、陶芸教室、かまくら春秋窯を開いていた、陶芸家でした。
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副題5、『なぜ、この10月5日に書き始めた章の総タイトルに、一時的に、・・・・・ユマニテの佃さんが、挨拶をしてこなかったので・・・・・という文言を入れて、それを数時間で、削除したのかの理由を、ここで、語りたい。ついでに、瀬木慎一さんが、告訴をすると、脅かしてきたエピソードも語りたい』
私は、CIAの日本人エージェントに、激しい弾圧を受けております。その理由や、原因については、何度も語ってきていますので、ここでは、繰り返しません。ただ、この章では、
独立系の、美術評論家が、私の行動様式や、文章に対して、おおきな危機感を抱き、激しい憎しみを抱き始めたことに、鎌倉エージェントが便乗した・・・・という事に焦点を絞って、語りたいと、思います。それが、5日前に、それほどに、重要な人物でもない、単なる画廊のスタッフ・佃さん・の個人名を総タイトルに、いれたかの説明にあたるからです。なお、ここで、挿入的に語りますが、佃さんは、家族に美術系で、既に、名を成した、親戚がいると、思います。親とか兄弟や、いとこに。だから、いいとこ、お嬢様と言って、いいのですが、そういう一般人を、現状では、とても怖いことを、書き続けているこのブログの総タイトルに、何故、いれたかというと、
それも、この美術評論家が、私と憎んでいることを、鎌倉エージェントが、誇張しながら利用したことに在ります。
私は、瀬木慎一さんから、「告訴する」と、言うお手紙をもらって居ます。それに関しては、私が公衆電話から、氏と、直接話をしただけで、収まりました。雲散霧消をしました。あとで、exibit Live and Morisのオーナー森さんと絡めて、詳細に語りますが、瀬木さんが、「あなたは、僕の事を知っているの?」とおっしゃったから「ええ、知っています。頤(オトガイ)の、小さな方です」と答えたら、「あなたは、おとがいという言葉を知っているのですか?」と、おっしゃって、ひどく驚いた声を出し、それっきり訴訟の件は、消えました。瀬木さんは、中央大学法学部卒ですから、伊藤玄二郎とは、同窓です。それで、あれこれ、教唆命令をされていたのでしょうが、【おとがい】という語彙一つで、私が、・・・・・言い聞かされていたほどに、馬鹿ではない、すこぶる、頭がいいのだ・・・・・という事は、お分かりになって、急にシーンとなっちゃったのです。
瀬木さんと、私の間には、告訴にあたる様なもん着は一切ないのです。ただ、ただ、伊藤玄二郎+井上ひさしが、おっちょこちょいの単細胞であり、自分たちの姿は、絶対にばれないのだから、こういう脅かしをやってやろうぜと、発案して、瀬木さんに、命令したわけでしょう。これが、2010年の事でしたが、2007年には、針生一郎さんが使われました。
:::::::ここで、挿入ですが、伊藤玄二郎一派の単細胞さという意味では、昨日、2019年10月10日に我が家の北東の、枝の伐採が、やっと、一か月後として、行われたのですが、それを利用して動いた安野忠彦、前田清子、小野寺夫人の三者、ぷらす、もしかしたら、富沢氏の、四人の行動を見ていると、またもや、わかるのですね。何がというと、伊藤玄二郎の単細胞さです。又は、今では、CIAエージェントの命令通り動く、警察の単細胞さです。まあ、今、書いている美術評論の問題、特に、画家大原光孝さんの、剽窃問題が、彼等にとっては、書かれては困る問題だから、テーマを移動をさせようとして、起きてきた子どとだろうから、簡単に、触れるだけで、論評しないで、先へ進みます。私が、今、言って居ることが図星らしくて、パソコンが異様なシステムは気を起こしていますが????? 全くもって、単純ですねエ。:::::::挿入から元へ戻ります。
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副題6、『ここで、保坂涼子と、秋山祐徳太子と、山口みつ子さんが、登場する』
私は、自分が感想文だと、思っている類の文章を、ギャラリー山口で、初個展を開いた、保坂涼子さんについて、書きました。例のごとく、美術系学術用語は、使って居ません。でも、保坂涼子の、美質については、120%のレベルで、とらえていると、思います。相当にいい文章だったと、言う自負はあります。で、メルマガで、展開をしました。日本の、非常にハイレベルな人物たち、500人に送っていたものです。それを、受け取った、オーナーの山口みつ子さんは、むろん、保坂涼子さんに、転送してくれたと、思うのですが、何の反応もありませんでした。それは、かまわないのです。
ところが、私は、相手から何の反応もないので、それを、彼女が怒るとは思わず、紙の雑誌でも使いました。当時、その連載は、大変人気が高くて、保坂涼子さんにも、多方面から「よかったね」という言葉がかかったと、思うのです。で、彼女は、武蔵野美大卒ですから、美術評論には、お金を払うべきだと、言うルールも知っていたのです。でも、私は、【宣伝会議】が、発行している紳士録【マスコミ何とか】にも、名前が載っていません。武蔵野美大の、図書館には、ほかにも数種類の紳士録が置いてあると、推察しますが、そのどれにも、美術評論家としての、雨宮舜は、載っていないのです。しかし、文章の宣伝効果は、非常に高かったでしょう。大勢の人から、「保坂さん、よかったわね」というメールが来たり、電話がかかってきたと、思います。そこで、彼女は、判断に苦しんだのです。
・・・・・・無名の人だから、三万円ぐらいで、いいはずね。でも、大きな効果が上がったのだから、一般的な謝礼金だとされている、10万円ぐらい支払うべきかしら。でも、私、沖縄に行ったのだから、今度は、北海道に行きたいわ。だから、10万円も出したくない。でも、自分一人の判断で、雨宮舜を怒らせるのも悪いし・・・・・とか、考えたことでしょう。
で、彼女が、もし、ギャラリー山口のオーナー、山口みつ子さんに、相談をしてくれたらよかったのです。彼女なら、私のことをよく知っていますので、「あら、雨宮舜って、お金なんか取らないわよ」と、伝えてくれたと、思います。しかし、新人にとって、有名画廊のオーナーって、雲の上の人なのです。この謝礼金をいくらにするのかと、言う微妙な問題を、質問する相手ではないのでしょう。
で、彼女は、自分の個展に来てくれて、同じく、作品をほめてくれた、先輩である、秋山祐徳太子に電話をかけて相談をしたのだと、思います。武蔵野美大の、図書館か、自部室には、卒業生名簿があるはずなので、彼が恵比寿に住んでいることも電話番号もすぐ手に入るでしょう。で。秋山祐徳太子は、「これは、チャンスだ」と考えたはずです。何のチャンスかというと美術評論家としての、私の活動を絶つチャンスです。そういう事です。それで、保坂涼子さんに向かって、そういう微妙な事は電話では話せないんだ。今度、ギャラリー山口で会いましょう」と、提案をしたと、思います。彼には、このチャンスを利用して、山口みつ子さんが、私を高く評価している状態を逆転しようという目的もありました。で、単純に、金額を答える事は、やらなかったのでした。
そして、二人は、ギャラリー山口で、会いました。後で、保坂さんが、恐ろしいメールを送ってきたので、みつ子さんに其れを言うと、その時に、「秋山さんが、保坂さんの前で、・・・・・雨宮舜、何するものぞ・・・・・と力んでいたわよ」と、教えてくれました。
これが、山口みつ子さんが、他殺で、亡くなった、真実の原因です。秋山祐徳太子は、CIAエージェントなので、特権を持っています。その彼が、山口みつ子さんにとっては、雨宮舜(=川崎千恵子)より、低い位置に置かれていたのです。で、怒りまくったのでしょう。しかし、それだけではありません。画廊が盗聴されていたことと、
保坂涼子さんが、すさまじい量の罵りメールをよこしたことも関係しています。そして、それが、遠因をたどれば、秋山祐徳太子に在るわけですから、山口みつ子さんが殺されました。
私が山口みつ子さんに、「保坂さんは、36行もの、罵りと、軽蔑に満ちた文章をメールとして、私に送ってきたのよ」と、告げました。個々ですが、厳密にいうと、101行の、罵りに満ちたメールを、36回繰り返したのかもしれません。保坂涼子の、罵りに満ちた、文章という証拠を消すために、パソコンが壊れましたので、文章の実際を、ここにコピペすることができませんが、36と、101と、言う数値は、鮮明に覚えております。ただね、その重複行為は、CIAエージェント例えば、古村浩三君などが、裏から行ったことなのかもしれません。しかし、トップに置いてある、文章は保坂さんのものだと、思います。
それを聞いた山口みつ子さんが、「あら、きちがいね」とおっしゃったのです。それも、山口さんが、殺された一因だと、思うので、私はつらくてたまりません。ただね、合いかぎを持っていて、部屋の中で、待ち伏せをして、黒るフォルムなどをかがせたのちに、窓から、突き落とした、人間が、 秋山祐徳太子と、保坂涼子さんだと、言って居るわけではないのですよ。実行者は、プロの殺人集団です。
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副題7、『ここで、やっと、2019年10月5日、増田清美さんの、態度と、発言に激怒したわけを語ることができる』
ここから先は、明日、12日に書くとさせてくださいませ。非常に疲れました。ただメモ書きとしては、置いておきます。
画廊が盗聴をされていることに気が付いているので、画廊では、何もしゃべらなくなった。しかし、絵を見ると、感じることは多々ある。したがって、絵の制作過程だけを、質問すると、言う限定した、行動をとっている。
其れなのに、「もう、突っ込まないで」というのは、その最小限の、権利施行を奪うという事だ。なんという傲慢であろう。彼女は、野見山さんのサポートを受けている間に、すっかり、商売人になり下がってしまい、画壇におけるヒエラキーに、したがって、偉い人は大事にして、偉くない人は虫けらのごとく扱っていいという、野蛮さを、身につけてしまった。
彼女の放った一言は、・・・・・純正にして、正しい形での、美術評論をするな・・・・・という事と同義だ。人の脳みその中に侵入して、あなた、もっと、馬鹿になりなさいと、言ったのと同義だから、私は、激怒した。私は、今は、文章で表すという形の美術評論をしていないというのは、上の方で、繰り返し語っている。
しかし、頭の中に自然発生的に浮かんだ思考は、電子の移動が、光の速さで、移動をしていく。そこを、日本語の、13シラブル(=か・わ・さ・き・さん、も・う、つっ・こ・ま・な・い・で)で、断ち切ろうとするのは、21世紀の、教養の世界で、突然、原始時代の、人間として入ってきて、なたをふるうのと同じだ。
まあ、貴方に対しては、寅さんのセリフをお借りして、結構、毛だらけ、猫はいだらけと、言って、起きましょう。そして、将来の、政治評論に使わせていただきます。だって、三井不動産レジデンシャルが、その画廊に、私と、同じ時間帯に現れたとなると、そこが、ものすごく大きな政治的陣営となっているからです。
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ここから先は、12日に書きます。佃さんと、すれ違った際に、彼女が、無視しきってきたあのドアが、特別な事であることは、すでに書いたかしら。他を書いたのちに、高橋裕子さんに戻ります。そのあとで、日経BPの記者に戻ります。
ここが、第二の書きかけ中の最先端です。
僥倖、という事への、質問が出た。
白川秀樹博士のポリアセチレンの研究、
2000年にノーベル賞化学賞を受けた方。1936年生まれ、東工大卒
博士課程修了後、資源化学研究所(現・化学生命科学研究所)の池田朔次の講座の助手となった[16]。ここで 14C を用いて、チーグラー・ナッタ触媒によるポリアセチレンの重合の仕組みについて研究を始めた[17]。
一方、韓国原子力研究所から研究員として池田研に来ていた邊衡直がポリアセチレンの重合を経験したいと希望したためレシピを渡したところ、触媒の濃度を「m」の文字に気づかず1000倍にするという失敗をしたため粉末がうまくできずにビーカーの溶液表面に膨潤したボロボロの膜が出来ていた[17]。調べるとポリアセチレンの薄膜である可能性が高いと分かり、触媒の濃度を間違えた可能性があると考えた白川は濃度をどんどん濃くして合成を行った[18]。その結果、一定以上の濃度できれいな薄膜が得られ、特にガラスの表面で重合させると良いということが数日で判明した[18]。溶媒濃度を大幅に高めたため、触媒溶液の表面でアセチレンの重合反応が急速に進み、薄膜ができるという機構だった[19]。得られた薄膜を赤外分光法により分析したところ、ジュリオ・ナッタが以前に報告していたトランス型の構造よりも吸収帯の数が多いという結果が得られた[18]。
マクダイアミッド&ヒーガーとの共同研究
1975年にアラン・マクダイアミッドが資源研を訪れた際、SXNX の金色の結晶を持参していたことから、白川の合成していた銀色のポリアセチレン薄膜との相関性を感じた山本明夫に紹介を受けた[17]。マカダイアミッドはこの薄膜に非常に興味を示し、その場で共同研究を提案してきたという[17]。
ここの三行も重要だと、思います。山本明夫さんと言う方の紹介こそ、白川さんの、大きな成功を招き、それが、吉野彰さんの、ノーベル賞にもつながったのですから。
1976年にペンシルベニア大学のマカダイアミッドの研究室の博士研究員となり、同年9月のレイバー・デー明けから当地での研
究を始めた[14]。ポリアセチレンの電気伝導性を高めるためにハロゲンへのドープを行うことにした。同年11月23日に,測定用の端子を付けたポリアセチレンをアルゴンガスを満たした三角フラスコ内に入れ、ハロゲンの一種である臭素を注射器で滴下したところ、わずか1滴で4-5桁も試料の電気抵抗が下がり、最終的に電気抵抗は1,000万分の1まで減少してマカダイアミッドやヒーガーも交えて大騒ぎとなった[24][14]。数日間の追試により、金属-絶縁体転移が起きるこの現象の再現性が確認され、さらに二重結合に付加反応を起こさないヨウ素の方がさらに効果的であることが分かった[25]。
この発見に関する第一報を『Chemical Communications』に出し、さらに化学系のマカダイアミッドが『Journal of the American Chemical Society』、物理系のヒーガーが『Physical Review Letters』にそれぞれ論文を投稿することを協議により決めた[26]。しかしChemical Communications以外の投稿は査読の段階で現象自体に疑問を持たれ、すぐには受諾されなかったという[26]。
このため、1977年6月にニューヨークで開催される低次元物質の合成と物性に関する国際学会において、デモンストレーションの実験を行うことをマカダイアミッドが提案した[26]。日本の学会ではやらないような子供じみた取り組みだと感じられ、また実験面でもテフロン製のストップコックから空気が漏れてハロゲンの拡散を阻害してドープが進みにくくなるという懸念もあって、白川は当初これに反対した[26]。結局、蒸気圧を高めるために臭化ヨウ素のようなハロゲン間化合物を用い、さらにドーパントの容器を温めるために湯を準備するなどの対策を行って公開実験を行い、ポリアセチレンの電気抵抗が低下した際に豆電球が点灯させることに成功した[26]。聴衆の化学者らに大きな驚きを与えたという[26]。
ヒーガーの論文は同年10月にPhysical Review Letters[27]、マカダイアミッドの論文は1978年2月にJournal of American Chemical Societyに[28]それぞれ掲載されている。
この時の共同研究者である三人が、白川、カイアミッド、ヒーガーが同時に、2000年のノーベル賞を受けています。1976年1月末に、研究が完成し、ニューヨークで、1977年に、公開実験をして、、ちょうしゅうをおどろかせたのにも、かかわらず、実際にノーベル賞が三人に、授与されたのは、2000年でした。成功とは、かくもじみなんですねえ。
1980年 グッドイナフ教授の研究発表、
1980年、オックスフォード大学のジョン・グッドイナフ(2019年ノーベル化学賞)と水島公一らはリチウムと酸化コバルトの化合物であるコバルト酸リチウム (LiCoO2) などのリチウム遷移金属酸化物を正極材料として提案した[20][21]。これがリチウムイオン二次電池の正極の起源である。
後注1