さて、続けます
先程、コメントで「やりがいと待遇(仕事)」に関しての話がありました。
参照: http://blog.goo.ne.jp/amphetamin/e/a177fb6b29709c630a2d8b10ce2c562f
「”日本的雇用システムの問題が難しいのは、それが欧米型の雇用システムのようにやりがいの薄い仕事をやらせる代償として高い労働条件を保障するという社会的交換ではなく、やりがいのある仕事をやらせる分、労働条件にあまり文句が言えないという社会的交換になっている面があるからです。”(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/posse-d9eb.html)」
僕は日本の雇用システムがおかしいと思っている人間です。ついでに言うのであれば効率性があまりにも悪いのではないかという思いがあります。
何故多くの人が「残業しないといけない」ような仕組みになっているのだろうか…と不思議に思っています。それでは、本当に仕事のために生きているようなもので…何のために生きているのだか・・・・と思ったりします。
理由として・・・確かに「仕事量が多い」というのはあるのだと思います。一部ですが・・・。
僕はまず・・・やりがいのある仕事に就けずに・・逆を言うと個人の能力を発揮させずに「管理する」日本的な考え方が問題ではないかと考えています
日本人の義務教育の良いところは「全のための歯車の一部として機能できるように教育を行っていること」だと思います。表現が回りくどいのですが、他の人間と同じことができること…を要求している点だと思います。自主性を重んじていないと言えばそれまでですが・・・。
これはテストで「○+▽=7」と書かれる欧米のものと「3+8=□」と書かれる日本のものでは違うだろうと思うのです。
応用力を要求するのではなく「同じ答え」を要求する。それは「全の中の個」として「管理」されていくことには良い方に向かうと思います。
しかし、部品の性能は「同じこと」をやらせれば「部品ごと」に違います 人を「部品」というのは抵抗がありますが、もし「国」「会社」などに対しての「部品」としての教育であれば、これは管理されていると思わない「日本の教育」の素晴らしい面かもしれません。
逆にこの面を持ちながら「応用力」を発揮できるような教育がほしい・・・そう思っています。
モーターとしての才能を持ちながら、自分の才能の分野ではなくみんなと同じ「仕事」をする。それはおかしいのではないか・・・そう思います。
モーターとして「超一級」の才能はモーターとして使われますが、他は「その才能」に気がつかずに、才能を腐らせて終わらせてしまう。今の日本の教育からはそんな要素を感じます。
どの部品にでもなれる「他を補える能力」はあった方が良いと思いますが、それぞれの「才能」をうまく発揮できるようなそんな社会になってほしい。そう僕は思っています。
僕は自分の能力は医療や教育という分野にあると思っていますし、そう言う意味では天職についていると信じています。
全ての人が「天職」と思われる「やりがいのある職業」につき、その力を発揮できれば・・・。 もしくは「天職」と思われる「趣味」などを持ち、その為に生きて…その転職を行うために「目を輝かせて」補職を行うことができれば、日本という国が輝いてくるのではないかと思ったりします。
相変わらず青臭いことを言うな~と自分でも思いますが、そんな夢に向かって進み続けるような人間が多ければ多いほど、子供たちも輝いていくと思いませんか?
やりがいのある職業…と何の関係があるのか…と言われると困るのですが、僕はやりがいのある職業というのは誰にでもあると思います。
責任ある仕事だからやりがいがある…ではなくて、楽しいから・・自分の夢だからやりがいがあるのだと思います。
そういう「夢」のある職業に就けるような社会。そう言う仕事に携わっていく国民。もしくは夢に向かっての資金を集めるための仕事・・・。これであれば「仕事」の向こうに「夢」が見えます。やりがいがでてくると思います。
その「やりがい」を見つけだすことも「教育」の意味だと思います。ただ、管理されて「会社の一員」「社会の一員」になるための教育ではなく、「やりがい」を「生きる意味」を見出すこと・・・それが教育の意味だと思います
http://blog.with2.net/link.php?602868
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だんだん、眠くなってきました。1時間くらい寝ようかと思います・・・。
気がついたら数時間たってたりするんだよな・・・・。
では~