未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




騎士団長殺し』を読み終えた。

前作(色彩を持たない~)がピンと来なかったので、今回は元の作風に戻したのかと、嬉しかったのも束の間、読み進むにつれ擬かしさが募った。

私は捻くれ者なので、世の中で騒がれているものは、斜に構えて否定することにしている。
そんな、一般に広く支持を得ているものなど、面白いはずがない。と。

私が最初に読んだ村上春樹は『1973年のピンボール』だ。

30年ほど前にハルキストであった後輩に薦められた。
ドンピシャであった。
「僕」の心境にどっぷりとハマって沈み込み、読後しばらくは「身動きが出来ない」状態であった。

その後、他の作品も読み、村上春樹に傾倒して行った。

ただ、デビュー作には全く何も感じなかった。もし、最初に『風の歌を聴け』を読んでいたなら、「誰があんなもん読むんだよ」と、全く相手にしていなかったと思う。

『1973年のピンボール』を選択してくれたその後輩の慧眼に、感謝するばかりである。

「いつも通りの春樹作品」に喜んでいたのも束の間、読み進むにつれて、違和感を覚え始めた。

良くも悪くも、いつもの村上春樹の小説だ。それ以上でも、それ以下でもない。

登場人物すら、いつものメンバーである。「少女がいないな」と思っていると、ちゃんと出て来る。

ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』の時のように、先が楽しみでしょうがない。明日、会社を休むことになっても良いから、このままいつまでも読んでいたい。

そう、思わせるようなワクワク感が、感じられない。

最近常に感じている「何をやっても面白くない。」という鬱状態なのか、それとも老化によって感性が鈍ってしまったのか。

恐らくは残りの人生、もう、良いことなど何も残っていないであろう。という絶望感に、また一つの具体的な判例を追加してしまった。

そう、思っていた。

だが、「施設」から脱出したあたりから、様相が顕著になって来た。

これはもしかすると、作品にも問題があるのではないか?

神をも冒涜する思いで辿り着いた懸念は、決して自己擁護のためのセーフティネットではなく、ひとつの真実として定着していった。

記述が冗長だ。私の体験もまりえの体験も、このシーンにこれだけのページ数が必要なのか。水増ししている感が否めない。

決定的だったのは、ストーリーの矛盾点についての弁解が、唐突に織り込まれていたことだ。

嘗て、このようなことは決してなかった。

村上作品に、あってはならないことだ。

しかもご丁寧に太字で書かれている。

ひょとすると、その太字の部分こそが、今回の作品の要なのかもしれない。

年老いた私には、そんなことも解らなくなっているのか。そして、そのような春樹初心者に対して、精一杯のヒントを提示してくれているのか。

いや、違うことを承知で皮肉なことを書いたのは、それで全てが台無しになるようなことが、平然と行われていることに、絶望を感じたからだ。

後日談的な記述も冗長だ。

感情の頂点で、スパっと切り離され、その解決は読者に委ねられるような、そんな読後の絶対的な何かが、欠如している。


しばらく、商業的な作品からは、手を引くべきではないのか。

もっと肩の力の抜けた短編や中編の新作を、また、読んでみたい。

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