ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

滲んでみえる 榛葉莟子

2015-12-01 13:25:16 | 榛葉莟子
1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 私は強度の近視だ。その上、老眼も加わった。老眼とは広辞苑によると、老人の眼。年をとって近距離の物が見えにくくなること。水晶体の弾力の欠乏により眼の調整ができなくなるために起こる。等とあった。老人というには、まだほど遠い気はするが、老という響きはリアルだ。眼はすでに老なのだ。
 細かい類の手仕事好きは、相当に眼を酷使してきたようだ。生活の便宜上でいえばめがねは、一時もはなすことはできない。めがねに助けられて、ひとつひとつの外の物のかたちに触れることができる。
 めがねをはずした瞬間、世界は一変する。
 裸眼でみる外界のすべては、ふちどりのない惨みの世界だ。自分の身体も惨んで膨らんでいくような感覚に襲われる。ゆらゆらと振動しているようでもあり、浮上していくようでもあり、固定されていないあいまいもことした感覚だ。裸眼で見る惨みの世界では、ひかるものがクロウズアップされ神秘の気配がちりばめはじめる。
 原色の街のネオンサインの混合色、車のヘッドライト、街燈、硝子瓶に反射する光の粒、ゼムクリップ、壁にとりのこされた鋲、壁上にまぎれこんでいる金銀のちらばり具合はプラネタリュウムだ。砕けた硝子のかけらは星かと手がのびる。ひかりに反射しているものすべてが惨んでふくらみ輝きをちりばめている。それらは自らのひかりを放出する発光体に変身したかのようだ。
 どうしてもそうせずにはいられない夢中さは、一層、眼を酷使し不安を増長させていく。制作にのめりこんだ後に襲われる激しい頭痛と嘔吐の日々がながいこと続いたことがある。一滴の水すらも身体は拒否した。床に臥せる日が度々となり、すっかり病弱の人となったころがある。薄明かりの床のなかで、激しい頭痛と嘔吐と苦悩はよせては返す波のごとくにやってくる。つかのまのすきまにうつらうつらとする。なにかの気配に壁に眼をやると、奇妙な生き物達が笑ったり、とんだり、はねたりしていた。
 壁のしみや凸凹が奇妙な生き物を生んだのだろうが、めがねをはずした眼にそれら奇妙な生き物たちの、うごめきを、裸眼の眼は見た。それから、眼の下の、敷布の織めの穴を数えた。数え切れないほどの穴を数えていた。そのうちに毛ばだちや、しわや、ぼつぼつがたちあがり、広大な白い草原が眼のしたに広がりはじめた。俯瞰図だ。河や山や道もある。白い草原に私の眼は降りていき自由に走りあそんだ。眼は延びる。
 そんなある朝、囲いが開いて床から離れられた。もう、数年前の出来事であった。
 最近、銅版画を大量に刷った。刷る紙には湿り気が必要で、前の晩に紙に水をくぐらせておき、びしょびしょの紙の束はビニールにくるみ一晩寝かせておく。重なりあった濡れている紙は、お互いの水分を吸い取りあい、惨みあいながら芯まで湿っていくのだ。すると、一枚一枚が内側からふっくらとふくらみ、ほどよい湿り気の刷り紙になる。
 ふと、思う。あたりまえの事だが湿って惨むとふくらむのだ。空間がひろがる。
 惨みはふちどりの定かではないあいまいもこの世界であり、郷愁のにおいを漂わせている。その言葉尻だけをとらえられてしまえば、排除されやすい。
 最前線では多弁な合理思考が、せっせと言葉を鋲どめしている。こちらとあちらの分別作業に忙しそうだ。時計の針の廻りが速いから追い付くのに大変だ。速ければ速いほど水分は蒸発する。ひたすら乾燥に近づいていく。
 乾燥していくと、なんでも平板になる。おせんべい状態か。おせんべいは乾燥しきってこその、あのパリッである。が先日、店先に濡れせんと書かれたおせんべいの袋を発見した。濡れているおせんべい。ヌレをわざわざ漢字にしているあたりに柔らかな力を感じる。湿気た瓦せんべいの神秘的な口当たりの触覚感をご存じであったら、濡れせんは納得だと思う。こういうおせんべいを焼いている職人さんは、あいまいもこの惨みの世界の住人に、ちがいない。

自分の染め色(1) 高橋新子

2015-12-01 13:10:57 | 高橋新子
1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 たしか去年の今頃だったと思うが、散歩がてら近くの古本屋を覗いた時、中央公論社版谷崎潤一郎訳源氏物語の初版本全二十六巻が、五千円で店頭にあるのを見てしまった。当然のことながら何のためらいもなく買おうと決めた。これを本棚のどの位置に納めるか、いや多分はみだ出して床の上に積むことになるか、さもなくばあの本とあの本を追い出して、と頭の中は目まぐるしく回転したが何が何でも欲しい本であったので、とにかく支払いを済ませて配達してもらうことにした。
 この本は凝り性の谷崎氏が「全然助手を使はずに自分一人だけで此の仕事に没頭し殆ど文字通り源氏に起き源氏に寝るという生活」を三年近くも続けて為し遂げた仕事だそうである。第一巻が昭和十四年一月。続いて順次刊行されたが最後の第二十六巻は、印刷用紙は不自由、恋愛小説もご法度という緊迫した社会情勢の最中、開戦間近の昭和十六年七月となっていた。校閲、装訂と用紙の地模様、各巻の扉の彩色紙と題字等々、いずれも当時の最高水準のメンバーによる仕事を揃えた美しい本である。
 かって受験勉強から逃れたい一心で読みふけった図書館の谷崎源氏は、古典ものの中でもひときわ立派な装訂で、原文対訳の学習向けのものであった。今回の初版本源氏は、氏が序文で書いているように「文学的飜譯であって講義ではない」つまり原文の持つ品格や含蓄、芸術的境地や餘情等を充分に尊重し、大きくはなれないようにしながらも『谷崎の書いた源氏物語である』と強く主張している。
 古代からの染めの技法書の第一は云うまでもなく延喜式であり、その染め色が姿かたちを整えて華麗に動き廻るのは何と云っても源氏物語の中である。正倉院宝物のように保存されることのできないこれ等の観念的産物は、学者や文化人、染色家や影像関係者、呉服商達によってさらに増幅された。
 染色を志す者は誰しもこの幻の正体を確かめたいと思うのは当然である。王朝の色を再現するとか復元するということではなく、現在の自分の染め色として表現してみたいという思いが、だんだん膨らんで来ていた。そんな折、ちょうどこの本と出逢ったのである。
 一人でコッコッと読み初めていると、知人から在住の作家安西篤子氏が源氏の購読会を持たれているという情報を得た。途中からでも良いということで六月度から参加させて頂けることになった。テキストは岩波文庫の山岸徳平校注のもので、安西氏の朗読を聴きながら、原文に沿った講義を受けるということになる。作者の解読する物語の空間と受講生のイメージがどのように結び付くのだろうか。勿論私の目的は色彩と素材、それ等の質感とたたずまいを探り出すことにある。何はともあれ待ち遠しい数週間である。

絣の宝庫-ヌサ・トゥンガラの旅 (5) 富田和子

2015-12-01 08:37:57 | 富田和子
1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 スンバ島には、他の島では見られない「カバキル」を織り加えた布がある。この島では男性用のヒンギ(絣文様の腰巻き)は、織り上がった布を二枚縫い合わせて一枚のヒンギとするが、カバキルとは、この二枚縫い合わせた布の両端の房の部分に織り込んだ幅5~6センチ程のベルト状の飾りのことである。このカバキルの制作工程も、今回の旅でぜひ見ておきたいことの一つであった。だが、前日訪れた三つの村では見ることができなかった。旅の帰路であるバリ島へ発たなければならないその日の朝に、ワインガプー近郊の村でカバキルを織っている女性と出会えた。家の人口に竹の棒を渡し、カバキル用の経糸が取り付けてある。織り上がっている布をその右側に置き、房を4~5本ずつ器用に拾い上げ、カバキルの緯糸として織り込んでいく。幅が120センチもある布に対してバランス良くカバキルを織り付けるために、前に伸ばした足の指で布端を挟み、布をピンと張った状態にしていた。このカバキルもまた縞模様や絣や紋織など、かなり手の込んだものも見られて面白い。経糸が経糸のままで終わるのではなく、緯糸にも成り得るという自由な発想がカバキリにはあり、経糸さえあれば、どこにでも綜絖を取り付けて織ることができるという地機の特性をよく表している。
 家の中では男性が三人、絣括りをしていた。糸束には赤と青で色分けされた下絵が描いてある。絣括りを行う時には下絵は描かず経験と勘によるというのが、もっぱら伝えられるところである。何だ…下絵を描くこともあるのだとその時は思ったが、後々になってその理由が判明した。本来布を織るのは女性の仕事である。しかし、観光客にイカット等の布が売れるので、最近では男性も制作に加わるようになったという。子供の頃から母親の傍らで習い覚えた女性達と違って、新参者の彼らには下絵が必要なのだった。ビジネスとして成り立つのであれば、男性も参入してくるのだ。確かに日本の伝統織物産業には、当然のことながら多くの男性が携わっている。果してスンバ島の「イカット産業」は、今後どのようになっていくのだろうか。開け放された窓からの土埃にまみれ、バスの中で飛び上がる程揺られたデコボコ道も、一年後には舗装されクーラーの効いた快適なバスの旅となった。その道路に並行して電線が走り、遠く離れたカリウダ村にも電気が引かれた。村の入口には巨大なパラボラアンテナが陣取っている。田畑の灌漑設備の充実によって、織物をする筈の農閑期が減少する。ライフサイクルの変化が村人にとって本当に必要であれば良いけれど…。ただ素晴らしい織物が作り続けられていくことを、願うばかりである。
 多くの収穫を与えてくれたこのヌサ・トゥンガラの旅は、私にとってインドネシアの染織を訪ねて通う旅の序章となって終わった。    (終わり)