1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。
私は強度の近視だ。その上、老眼も加わった。老眼とは広辞苑によると、老人の眼。年をとって近距離の物が見えにくくなること。水晶体の弾力の欠乏により眼の調整ができなくなるために起こる。等とあった。老人というには、まだほど遠い気はするが、老という響きはリアルだ。眼はすでに老なのだ。
細かい類の手仕事好きは、相当に眼を酷使してきたようだ。生活の便宜上でいえばめがねは、一時もはなすことはできない。めがねに助けられて、ひとつひとつの外の物のかたちに触れることができる。
めがねをはずした瞬間、世界は一変する。
裸眼でみる外界のすべては、ふちどりのない惨みの世界だ。自分の身体も惨んで膨らんでいくような感覚に襲われる。ゆらゆらと振動しているようでもあり、浮上していくようでもあり、固定されていないあいまいもことした感覚だ。裸眼で見る惨みの世界では、ひかるものがクロウズアップされ神秘の気配がちりばめはじめる。
原色の街のネオンサインの混合色、車のヘッドライト、街燈、硝子瓶に反射する光の粒、ゼムクリップ、壁にとりのこされた鋲、壁上にまぎれこんでいる金銀のちらばり具合はプラネタリュウムだ。砕けた硝子のかけらは星かと手がのびる。ひかりに反射しているものすべてが惨んでふくらみ輝きをちりばめている。それらは自らのひかりを放出する発光体に変身したかのようだ。
どうしてもそうせずにはいられない夢中さは、一層、眼を酷使し不安を増長させていく。制作にのめりこんだ後に襲われる激しい頭痛と嘔吐の日々がながいこと続いたことがある。一滴の水すらも身体は拒否した。床に臥せる日が度々となり、すっかり病弱の人となったころがある。薄明かりの床のなかで、激しい頭痛と嘔吐と苦悩はよせては返す波のごとくにやってくる。つかのまのすきまにうつらうつらとする。なにかの気配に壁に眼をやると、奇妙な生き物達が笑ったり、とんだり、はねたりしていた。
壁のしみや凸凹が奇妙な生き物を生んだのだろうが、めがねをはずした眼にそれら奇妙な生き物たちの、うごめきを、裸眼の眼は見た。それから、眼の下の、敷布の織めの穴を数えた。数え切れないほどの穴を数えていた。そのうちに毛ばだちや、しわや、ぼつぼつがたちあがり、広大な白い草原が眼のしたに広がりはじめた。俯瞰図だ。河や山や道もある。白い草原に私の眼は降りていき自由に走りあそんだ。眼は延びる。
そんなある朝、囲いが開いて床から離れられた。もう、数年前の出来事であった。
最近、銅版画を大量に刷った。刷る紙には湿り気が必要で、前の晩に紙に水をくぐらせておき、びしょびしょの紙の束はビニールにくるみ一晩寝かせておく。重なりあった濡れている紙は、お互いの水分を吸い取りあい、惨みあいながら芯まで湿っていくのだ。すると、一枚一枚が内側からふっくらとふくらみ、ほどよい湿り気の刷り紙になる。
ふと、思う。あたりまえの事だが湿って惨むとふくらむのだ。空間がひろがる。
惨みはふちどりの定かではないあいまいもこの世界であり、郷愁のにおいを漂わせている。その言葉尻だけをとらえられてしまえば、排除されやすい。
最前線では多弁な合理思考が、せっせと言葉を鋲どめしている。こちらとあちらの分別作業に忙しそうだ。時計の針の廻りが速いから追い付くのに大変だ。速ければ速いほど水分は蒸発する。ひたすら乾燥に近づいていく。
乾燥していくと、なんでも平板になる。おせんべい状態か。おせんべいは乾燥しきってこその、あのパリッである。が先日、店先に濡れせんと書かれたおせんべいの袋を発見した。濡れているおせんべい。ヌレをわざわざ漢字にしているあたりに柔らかな力を感じる。湿気た瓦せんべいの神秘的な口当たりの触覚感をご存じであったら、濡れせんは納得だと思う。こういうおせんべいを焼いている職人さんは、あいまいもこの惨みの世界の住人に、ちがいない。
私は強度の近視だ。その上、老眼も加わった。老眼とは広辞苑によると、老人の眼。年をとって近距離の物が見えにくくなること。水晶体の弾力の欠乏により眼の調整ができなくなるために起こる。等とあった。老人というには、まだほど遠い気はするが、老という響きはリアルだ。眼はすでに老なのだ。
細かい類の手仕事好きは、相当に眼を酷使してきたようだ。生活の便宜上でいえばめがねは、一時もはなすことはできない。めがねに助けられて、ひとつひとつの外の物のかたちに触れることができる。
めがねをはずした瞬間、世界は一変する。
裸眼でみる外界のすべては、ふちどりのない惨みの世界だ。自分の身体も惨んで膨らんでいくような感覚に襲われる。ゆらゆらと振動しているようでもあり、浮上していくようでもあり、固定されていないあいまいもことした感覚だ。裸眼で見る惨みの世界では、ひかるものがクロウズアップされ神秘の気配がちりばめはじめる。
原色の街のネオンサインの混合色、車のヘッドライト、街燈、硝子瓶に反射する光の粒、ゼムクリップ、壁にとりのこされた鋲、壁上にまぎれこんでいる金銀のちらばり具合はプラネタリュウムだ。砕けた硝子のかけらは星かと手がのびる。ひかりに反射しているものすべてが惨んでふくらみ輝きをちりばめている。それらは自らのひかりを放出する発光体に変身したかのようだ。
どうしてもそうせずにはいられない夢中さは、一層、眼を酷使し不安を増長させていく。制作にのめりこんだ後に襲われる激しい頭痛と嘔吐の日々がながいこと続いたことがある。一滴の水すらも身体は拒否した。床に臥せる日が度々となり、すっかり病弱の人となったころがある。薄明かりの床のなかで、激しい頭痛と嘔吐と苦悩はよせては返す波のごとくにやってくる。つかのまのすきまにうつらうつらとする。なにかの気配に壁に眼をやると、奇妙な生き物達が笑ったり、とんだり、はねたりしていた。
壁のしみや凸凹が奇妙な生き物を生んだのだろうが、めがねをはずした眼にそれら奇妙な生き物たちの、うごめきを、裸眼の眼は見た。それから、眼の下の、敷布の織めの穴を数えた。数え切れないほどの穴を数えていた。そのうちに毛ばだちや、しわや、ぼつぼつがたちあがり、広大な白い草原が眼のしたに広がりはじめた。俯瞰図だ。河や山や道もある。白い草原に私の眼は降りていき自由に走りあそんだ。眼は延びる。
そんなある朝、囲いが開いて床から離れられた。もう、数年前の出来事であった。
最近、銅版画を大量に刷った。刷る紙には湿り気が必要で、前の晩に紙に水をくぐらせておき、びしょびしょの紙の束はビニールにくるみ一晩寝かせておく。重なりあった濡れている紙は、お互いの水分を吸い取りあい、惨みあいながら芯まで湿っていくのだ。すると、一枚一枚が内側からふっくらとふくらみ、ほどよい湿り気の刷り紙になる。
ふと、思う。あたりまえの事だが湿って惨むとふくらむのだ。空間がひろがる。
惨みはふちどりの定かではないあいまいもこの世界であり、郷愁のにおいを漂わせている。その言葉尻だけをとらえられてしまえば、排除されやすい。
最前線では多弁な合理思考が、せっせと言葉を鋲どめしている。こちらとあちらの分別作業に忙しそうだ。時計の針の廻りが速いから追い付くのに大変だ。速ければ速いほど水分は蒸発する。ひたすら乾燥に近づいていく。
乾燥していくと、なんでも平板になる。おせんべい状態か。おせんべいは乾燥しきってこその、あのパリッである。が先日、店先に濡れせんと書かれたおせんべいの袋を発見した。濡れているおせんべい。ヌレをわざわざ漢字にしているあたりに柔らかな力を感じる。湿気た瓦せんべいの神秘的な口当たりの触覚感をご存じであったら、濡れせんは納得だと思う。こういうおせんべいを焼いている職人さんは、あいまいもこの惨みの世界の住人に、ちがいない。