1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。
夜空をみあげるたびに、他の星たちはどこへいってしまったのかと目をこらす。たったひとつ、一番明るい金星だけがひかっているきりなのだ。遠い星近い星の入り交じわる満艦色の星空を見続けてきた眼に、この東京の夜空は怪しすぎ、ただごとではないと映る。無風の昼間、白い月をかすかに確認する。
ピンポンパンとチャイムが空になりひびき、光化学スモッグ注意報発令、外遊びにはご注意をと、やけにのんびりとしたウグイス声が繰返し聞こえてくる。子供達の歓声が、ドアのなかに吸い込まれコツンとした奇妙な東京の夏の午後だ。
そして、眠れぬ熱い夜であった。あかるい気配に眼をあげると、すぐそこに月がいた。灯を消し、カーテンを開け月光のなかに座った。
コトリカタリと暮らしの物音にまじって、ケッ、ケッ、ケッ、と、何処からともなく聞こえてくる音に気がついた。それは、間をおいては繰返し聞こえてくる。老人の咳のようでもあり、なにかを打ちつけているようでもあり、機械が回っているようでもあり、得体のしれない奇妙な音だ。なんだろうと、あれこれ考えあぐねているうち音が止まった。ほっとして、月と自分にもどったのもつかのま、またきこえてくる。そういえば、こんな月夜の晩に、奇妙な音にひやりとした田舎暮らしの夜を思い出す。それは、ある夜おそく、物置小屋のような建物の前を通りかかった時だ。真っ暗なその小屋の内から、カラッ、カラッ、カラッ、ヒュツと奇妙にこもったような音が繰り返し聞こえてきた。小屋のずっと奥の母屋に灯はなく、すでに寝静まっている。街燈のない田舎道を月あかりをたよりに歩いてきた私は、ひやりとして、まっしぐらに家に向かって走った。しばらくしたある日、そこのおばあちゃんに出会ったので、それとなく聞いてみた。「ぐんてをつくっている」という。「えっ、ぐんてって、あの軍手ですか」「ほうさね、機械がね」ふーん、ひと晩中、機械は軍手を編み続けているのか。わけがわかればどうという事もないかもしれないけれども、わずかに月光さしこむくらがりの内で、自動編み機は遠慮がちに力ラカラと回転しながら、月光に似た細い糸を括り、つぎつぎと、透明が詰まった翼のような白いてぶくろを、編みあげ積み上げていく、なんとシュールな光景だろう。
さて、その繰返し聞こえてくるケッ、ケッ、の音の正体がわかったのは次の夜の事だった。音が動いてくる。近ずいてくるのだった。音の外をのぞくと。街燈の下に影のように犬がいた。犬は顔をうつむかせケッ、ケッ、と咳をしている。犬の咳…だったのか。それにしても地の底から吐きだすような咳をし続ける犬は、どこからやってきたのだろう。路地裏をゆく犬は、まるで機械仕掛けの人形のように、ゆっくりと歩きはじめては、咳こんでいる。私の眼は犬の後ろ姿を追うだけだった。犬は暗がりに溶けて行くように、角を曲がった。曲がる時、ふいっとふりむいたようにみえたのは気のせいではない。その顔がふくろうに似ていると瞬間、思えたからだ。犬は私の目のまえから消えたが、私の耳の奥にはケッ、ケッ、という奇妙な音と、ふくろうの顔が消えないまま、曲がり角からしばらく眼を離せないでいた。
曲がり角はすでに昨日とは、異う曲がり角だ。
夜空をみあげるたびに、他の星たちはどこへいってしまったのかと目をこらす。たったひとつ、一番明るい金星だけがひかっているきりなのだ。遠い星近い星の入り交じわる満艦色の星空を見続けてきた眼に、この東京の夜空は怪しすぎ、ただごとではないと映る。無風の昼間、白い月をかすかに確認する。
ピンポンパンとチャイムが空になりひびき、光化学スモッグ注意報発令、外遊びにはご注意をと、やけにのんびりとしたウグイス声が繰返し聞こえてくる。子供達の歓声が、ドアのなかに吸い込まれコツンとした奇妙な東京の夏の午後だ。
そして、眠れぬ熱い夜であった。あかるい気配に眼をあげると、すぐそこに月がいた。灯を消し、カーテンを開け月光のなかに座った。
コトリカタリと暮らしの物音にまじって、ケッ、ケッ、ケッ、と、何処からともなく聞こえてくる音に気がついた。それは、間をおいては繰返し聞こえてくる。老人の咳のようでもあり、なにかを打ちつけているようでもあり、機械が回っているようでもあり、得体のしれない奇妙な音だ。なんだろうと、あれこれ考えあぐねているうち音が止まった。ほっとして、月と自分にもどったのもつかのま、またきこえてくる。そういえば、こんな月夜の晩に、奇妙な音にひやりとした田舎暮らしの夜を思い出す。それは、ある夜おそく、物置小屋のような建物の前を通りかかった時だ。真っ暗なその小屋の内から、カラッ、カラッ、カラッ、ヒュツと奇妙にこもったような音が繰り返し聞こえてきた。小屋のずっと奥の母屋に灯はなく、すでに寝静まっている。街燈のない田舎道を月あかりをたよりに歩いてきた私は、ひやりとして、まっしぐらに家に向かって走った。しばらくしたある日、そこのおばあちゃんに出会ったので、それとなく聞いてみた。「ぐんてをつくっている」という。「えっ、ぐんてって、あの軍手ですか」「ほうさね、機械がね」ふーん、ひと晩中、機械は軍手を編み続けているのか。わけがわかればどうという事もないかもしれないけれども、わずかに月光さしこむくらがりの内で、自動編み機は遠慮がちに力ラカラと回転しながら、月光に似た細い糸を括り、つぎつぎと、透明が詰まった翼のような白いてぶくろを、編みあげ積み上げていく、なんとシュールな光景だろう。
さて、その繰返し聞こえてくるケッ、ケッ、の音の正体がわかったのは次の夜の事だった。音が動いてくる。近ずいてくるのだった。音の外をのぞくと。街燈の下に影のように犬がいた。犬は顔をうつむかせケッ、ケッ、と咳をしている。犬の咳…だったのか。それにしても地の底から吐きだすような咳をし続ける犬は、どこからやってきたのだろう。路地裏をゆく犬は、まるで機械仕掛けの人形のように、ゆっくりと歩きはじめては、咳こんでいる。私の眼は犬の後ろ姿を追うだけだった。犬は暗がりに溶けて行くように、角を曲がった。曲がる時、ふいっとふりむいたようにみえたのは気のせいではない。その顔がふくろうに似ていると瞬間、思えたからだ。犬は私の目のまえから消えたが、私の耳の奥にはケッ、ケッ、という奇妙な音と、ふくろうの顔が消えないまま、曲がり角からしばらく眼を離せないでいた。
曲がり角はすでに昨日とは、異う曲がり角だ。