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「素材に関する私的私論」林辺正子

2016-02-01 09:43:42 | 林辺正子
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。

 素材に関して様々な立場からの考察と論の構築が可能であり、しかもこの問いは既に少なからず様々な場で論じられてきた。したがってここでは、主としてファイバーを素材とする一介の制作者として論を試みたものであることをお断りしておきたい。

1.作品とは
 素材論に入る前に、多様な素材により具現される作品とは、制作に関わる私にとってどのようなものであるかを簡単に述べておこう。作品とは目に見えないもの、例えば思索、愛、喜び、苦悩、痛みなどが、制作者の精神と身体的行為により、周囲の物体を巻き込みながら、何らかの方法で視覚化されたものだということができる。このようにして成立した作品は、見る者、すなわち他者の身体により受け止められ、更に精神へと働きかけ、再びあらゆる物の果てにある不可視の世界を出現させるのである。

2.物体から素材ヘ
 このような作品を構成する素材について考えてみると、作品制作上欠くことのできない素材には、次元を異にするふたつの素材、すなわち物質としての素材と非物質としての素材が関わっていることが推測される。具体的に物質的な素材とは絹や真鍮、鉄、パラフィンなどが考えられ、非物質的な素材としては観念や感情、言語などが挙げられよう。
 では、制作者の周囲にある有象無象の物体がどのような過程を経て、特定の作品制作のための素材という特別な存在となるのだろうか。<非物質的素材>の場合には、直接および間接的経験により、制作者の中に概念や記憶、情報などとして予備的な選択肢として蓄積される。一方、<物質的素材>の場合には、周囲の物体の中から好みの色や音、匂い、質感をもつものが制作者にとって特定の素材群として貯えられる。つまり、物体自体も、情報として暖かさや冷たさ、匂い、音などその物体固有の顕在並びに潜在的情報を外部にむけて発信しており、それを制作者の身体が五感を通して観念や記憶などと重ねあわせながら受信するのである。

3.素材と制作者の関係
 そして実際に作品を案出する段階になって、蓄積された<非物質的素材>の選択肢のなかから、その時はじめて、制作者にとって最も強度を持つものが取り出される。その後、<物質的素材>のなかからは、<非物質的素材>に呼応するものだけが素材として再定義されて提供される。換言するなら、<物質的素材>は、<非物質的素材>と何らかの結合を見てはじめて、特定の作品の真の素材へと移行することになる。逆に、強度を持つ<非物質的素材>でさえも、それに対応する<物質的素材>を見出さないなら、それは真に素材とはなりえない。
 この両者、すなわち<非物質的素材>と<物質的素材>との結合を可能にするものが、制作者の精神・身体的存在と制作者の素材に対する働きかけである。図式化するなら、制作者は右手に<非物質的素材>を持ち、左手に<物質的素材>を持つ。ここで現場での実際の制作行為が発生するのである。
 制作行為という状態においては、制作者は自らを逸脱するかのごとく素材に働きかけ、素材の側も、この働きかけに対して何らかの反応を示してくる。この逸脱と反応の結果生じるのがいわば中間領域的な場で、両者による造成地帯である。すなわちそれぞれの秩序が半ば崩れたところが制作の場といえよう。
 このような場では素材と制作者の境界線はもはや明確なものではなく、両者のこれまでの関係性は曖味化されてほとんど消失したものとなる。だからここでは、主観と客観、主体と客体の区別が不可能となり両者が相互に浸透しあい、補完関係を結び混成地帯となる。
 ここで更に付け加えるべきことは、当初は明らかに異なる次元に属し、分離していた<非物質的素材>と<物質的素材>は、永遠、かつ不変に固定された存在ではなく、ある時間的な流れの中で絶えず変化し続ける存在である。したがって結合の場である混成領域でさえも、絶えず変化を繰り返しているのである。

4.具体的事例による素材と制作者の関係
 織物制作の場における素材と、制作者である私の関係を述べて見よう。布という平面的で非自立的なものを立体的で自立したものにするべく、緯糸として真鍮の針金を使用したのは、1980年代のことであった。これは本来的で一般的だとされている布の可能性、あるいは潜在性にたいして、更に新たな可能性を布に付与することでもあった。
 布を自立させるということは、いわば制作者の観念を布に投影することであるが、それは制作者側からの一方的な働きかけだけで成立したのではない。制作者の意図に基づく物理的な働きかけと素材の側の反発と協力という力関係のもとに成立する。だから自立した布とは、布の持つ潜在性と制作者の意図が互いに攻めぎあいつつ譲り合い、融合して中間領域に成立したものといえよう。言い換えるなら、平面的な布を自立した立体として制作することは、それぞれが持つ可能性の中間領域を出現させることでもあったのである。
 そして更に自立性を高めるために、布自体とは異なる特性を持つ素材を、布の支持体として取り込む必要性が生じた。その時点では自立させることを目的として使用された支持体、すなわち新たに取り込まれて作品の一部を構成するに至った素材は、それ自体の可能性と力があることを次第に顕にしてきた。
 したがって、自立した一連の作品は布と制作者の観念という二項関係だけではなく、既に作品の一部となった新しい素材をも含めた多項関係において成立したものである。付け加えるなら、以前は支持体を必要としていた布が、二層のパラフィン間に挟まれることにより、逆にパラフィンの支持体として存在を新たにした。いずれの場合でも作品は、素材同士が互いの可能域を尽くした造成地帯に成立したものである。そしてこの造成地帯とは、時代性と空間性を自ずと含むものであることは言うまでもない。
 更に、この自立した布は、制作者の可能性と素材の可能性との接触の痕跡をとどめるものでもある。逆に言えば、制作者がそこに介在したというその痕跡を残すためには、制作者の身体の圧力による刻印を受容して留めるだけの強度を持つ布の出現が必要とされていたのであった。
 そしてまた布地に自立性を与えることがプラスの行為だとしたら、その対極には、布の既成の存立を危ういものとする行為が考えられる。その行為のひとつに織の秩序ともいうべき織組織を崩していく方法が考えられる。そのために極度に不揃いの糸や強撚糸を導入し、最も安定性があり平滑な面を持つとされる平織構造をさえ崩していく。すると平織構造は、平織組織を保ちながらも異なるもの、すなわち「そうであって、そうでないもの」へと変成し、平織自体のアイデンティティからの脱却、踏み越えが試みられる。

5.作品の転成
 翻って、素材を必要とする製織行為は、制作者にとって作業あるいは労働である。素材は努力を誘い、努力を可能にする。それは身体と密接に連動する行為であり、心地よさ、苦痛、息遣い、リズムを伴うものといえる。時には格闘的な側面を持つこの行為は、織構造という調和のもとに繰り広げられることになる。つまりこの織り作業は、調和と不調和の同時共存状態といえるのではなかろうか。
 こうして調和と不調和の往復運動のもとに<物質的素材>と<非物質的素材>の融合が図られる。この過程の産物として制作者の精神・身体両面での痕跡を留めた物体、すなわち作品が生じるのである。しかしこの作品とは完成した形としてのいわゆる終着点のごときものは持たず、絶えざる多様な変容の可能性の瞬時を内在化したものといえる。矛盾した表現を使えば、制作者と物体の相互侵犯の結果生じた“暫定的完成形"として提示したものが作品と呼ばれるものである。そしてひとたび制作者の手を離れた作品は、その潜在的変容の可能性の主たる部分を、時代・空間・鑑賞者へと委ねていくことになる。

6.結びにかえて
 だが、ここでの<非物質的素材>も<物質的素材>も可能性の一部にしかすぎないのである。埴谷雄高流の言い方をすれば、あらゆる意味での素材は広大な未出現宇宙に平行するほんの僅かな存在でとかないのである。<非物質的素材>と<物質的素材>、それらのく中間領域的融合物としての作品>。このような図式化された物語が、些細なものと化してしまうような巨大な存在としての不可視の世界、植谷雄高の言葉を借りるなら『虚体』は、常に我々とともに、そして同時に、我々を超えてあり続けるであろう。