ART&CRAFT forum

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「関井一夫の手-再び素材論に向けて-」 橋本真之

2016-06-01 14:57:39 | 橋本真之
◆FINGER SHEET -関井一夫作-

◆「板人間」 1999  再生  -関井一夫作-
◆「NIGHT MARE」 -関井一夫作-

1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

 関井一夫の手-再び素材論に向けて-    橋本真之(鍛金作家)

 関井一夫という鍛金作家について論評する人がもっと現われても良いと思えるのに、仲々語られ難いのは、技術的問題の言表が困難なところがあるからに違いない。他の工芸技術の世界にも言えることだが、鍛金が客観的な俎上に乗せにくい状態であることは好ましいことではない。現状では、私のような者が筆を取らねばならないのも、止むを得ないのかも知れない。関井一夫は私に近い場処にいて、学生時代の仕事から見ていた。その一貫して人体をモチーフとした仕事ぶりに、私は心動かされるところがあった。関井が困難な展開の道筋をたどっている姿は、同業の者として他人事ではなくて、私の仕事と別に何が鍛金に可能かを考えると、関井の仕事の展開がいつも頭に浮んで来る。そして、彼の仕事ぶりなしには、鍛金の世界は装飾性のくびきを離れにくかったに違いないと思えるのである。この事が人々にどれ程認識されているのだろうか?

 金属を金槌でたたいて形作る鍛金の方法で、人体を作り続ける困難を想像して見れば、その薄い金属板の内部に空洞をかかえこむ仕事が、塑造における道筋や、石や木を彫り刻む道筋とは、別の経路を取らざるを得ないことを納得できるに違いない。関井の方法は鍛金技術における「変形しぼり」と呼ばれる方法である。明治期に加飾技術である彫金の、その下職に甘んじていた打ち物師達が、そのコンプレックスから抜け出るために技術上の誇示が必要だった時代には、この変形しぼりによる鍛金が精緻を極めて、金属を接合せずに一枚の金属板をたたいて置き物を作っていた。そうした小世界を誇示した明治期の技巧主義を抜け出たところに、金属の接合そのものを積極的に装飾的構造とした三井安蘇夫が居る。この積極的接合が私を含めた後進を陰に陽に刺激して、様々な可能性を開いたのである。この三井安蘇夫の功績は記憶されねばならない。(注1)関井一夫はそうした鍛金が現代性を得ようとしていたさなかに自己発見していったために、鍛金の原理に目を向けて自らを構築する姿勢を取らざるを得なかったのに違いない。一方で関井が鍛金史に関心を深めて行ったのも、自身の姿勢の客観的な裏付けを必要としたものだろう。関井の朔行の姿勢は「変形しぼり」のもつと先に目を向けたが、「湯床ぶき」(注2)という方法で銅塊を吹き、それを鍛造して銅板を得るという、あえて迂遠な道を行こうとするのである。

 関井一夫が伝統的に彫刻家達がモチーフにして来た人体に固執するのも、彫刻の様々な方法でなくて、あえて工芸の鍛金に根拠を置く上での、その造形の差異を明確にする立脚点のひとつでもあるのに違いない。造形作家にとって、方法はその自由度によって優劣が生じる訳のものではないことを示す上で、関井一夫の姿勢は示唆に富んでいる。おそらく生半可な力で関井の後を追えば、その馬脚をあらわすこと必定の道である。要は作家の力の問題なのである。近年の欧米の工芸評論の退脚姿勢の基にあるのも、自由度にはかりの基準を置くことを優劣の問題と取り違えているために他ならない。問題はそれぞれの方法の「困難」を、自らの造形思考の根拠とし得るかどうかにかかっているのであって、結果のために最短距離を走る簡便な合理性にある訳ではないのである。

 関井には人体を何故作るのかを表明した公のものがあるのだろうか?関井は青年期の早い時期、アルバイトに形成外科の医学用シェーマ(術式図)を描いていた強い印象が彼をとらえたと語るのだが、人間を解剖学的に図示する仕事の中で、その手術を見続けた関井の視線に、私は興味を覚える。

 関井一夫の受験時代の油土による自らの左手の模刻を見たことがある。ほぼ実物大に作られた油土による手は、ひとつひとつのしわまで刻明につくられたものだったが、彫刻における造形的省略と誇張の素養よりも、見ることと造ることの密着に固執した、その粘着質の造形を見た私に、関井のモダニズムの中に居ようとしない異質な神経を思わせたのである。私はその手を見た瞬間、幼年期によく通院した女医の診察室を思い出した。気品のある豪奢な顔立ちをした女医だった。その診察室のガラス戸棚にあったホルマリンづけの少年の手首を思いださせられたのである。黄色くなった小さな手首はすでに崩壊が始まっていた。うわの空で診察されながら、注射器を見ても、その断たれた手首の存在が私をおびやかして、痛みも小さなものに感じるのだった。関井の手首は私の記憶を瞬間に思い出させたが、その異様に真正直な再現が私を刺激した時、その形の質が関井本人の照れたような若い素朴な顔と似つかわしくなくて、私は言葉を失なった。

 関井一夫は芸大生時代から助手を経て、身辺が忙しくなるまでの間、シェーマを描くアルバイトを続けた。関井の仕事の形質が若い時代のアルバイトに刺激されていたということが、現在の私の感覚的観照を左右しているのだろうか?けれども受験時代の油土の模刻作品に現われていた形質が私を刺激する様は、後にたずさわることになるアルバイトの影響とは無関係であろう。むしろ関井自身がそのアルバイトを引き寄せたというのが正しいのである。関井がそのアルバイトを得る時、他に二人の候補者がいて、手術の様子を見せられた後、昼食に鮪寿司が出されたが、他の二人は寿司に手をつけることが出来なかった。形成外科の医師が関井をシェーマ(術式図)を描く画家として選択する時、すでにその仕事に耐える客観的視線を持つ神経に恵まれていたということだろう。

 関井一夫の資質が、後の鍛金技術や素材との関わりの中で形成されていったものが、相乗効果となって、初期の一種異様な関井作品の形質を現成させたに違いない。けれども、その後の展開を見ていると、細部への神経によつて形成して来たものが、次第に様式化して行くのが見えるだろう。繰り返される形を、自らの手中に入れたと思える時期が来た時、方法と視線は熟練と共に上すべりを始める。関井一夫が危険な曲がり角で、板状の金属と人体形との連続する在り方、「板に帰る」と前後して、塊から板にたたき出し人体形を作ろうとする、両極の困難な方角に向かったことは、彼の大転換だったに違いない。関井が困難な隘路に向かって何を見い出すことになるかは、まだ未知の問題だが、それが一見して原初に向かっているように見えながら、その実、鍛金の未来にあるものを照射しているように思える。すなわち、そこに見えるのは金属板と金属塊の間に人体形があえかに存在するという「鍛金質」の形の成り立ちの顕在化であり、おそらく関井がその往還を繰り返す中で見い出すべき形質が、空ろな様式化に落ち入らずに、何処に向かうことが出来得るかが、彼の最重要な課題なのである。

 そしてもうひとつは、様々な後進を触発することになるに違いない「湯床吹き」から引き出されて来るべき、素材の創出の問題である。実のところ、素材論の根本はそこになければならないと私は考える。おそらく、今日の造形家に欠けている最大の問題がそこに横たわっていて、素材そのものを自らのために創出するという考えが、とうの昔に忘れ去られていて、素材は他の研究者か、あるいは企業が創ってくれるのを待っている始末なのである。これが今日の造形を安易に向けて突き落としたことを理解している者は少ない、というより皆無に近いのではなかろうか?しかし、この道には特許染みた落とし穴も用意されていて、下手をすると再び旧弊の工芸世界に舞い戻る息苦しいことになるのである。関井一夫はそうした落とし穴をさけて通るに違いないが、あとを行く者の資質がいかなるものかは、図り知れないことである。

(注1)「三井安蘇夫」(1910~1999)東京芸大の鍛金科において繰り広げた鍛金の指導における革新はACF誌上における関井一夫と田中千絵の研究にくわしい。
三井安蘇夫は今年3月25日永眠した。(享年88歳)
(注2)「湯床吹き」お湯の中に帆布(はんぷ)もしくは足袋裏(たびうら)を張った床を沈め、その中に溶解した銅合金を流し込む事でガス抜きを行い、気泡を含まない打ち延べに適した純度の高い銅合金塊を得る為に、古来から伝承されてきた精錬技法。(関井一夫による定義)

「無為の風」 三宅哲雄

2016-06-01 09:38:45 | 三宅哲雄
◆桜井玲子個展-かすり99-

1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

 無為の風                三宅哲雄

 六月は何故か展覧会に足を運ぶ機会が多かった。練馬美術館で開催された「和紙のかたち」展は、いつもの強引な企画と作品群に失望したが千疋屋ギャラリーで開催された「榛葉莟子展-転写-」「桜井玲子個展-かすり99-」そして、きもの美術館での「SHIFU(紙布)桜井貞子展」、横浜美術館「世界を編む展」は21世紀を見据えた展覧会であった。こうした展覧会が開催されることは昨今の方向性を見失った美術界にとって意味ある月であったように思う。

◆「転写」 榛葉莟子

◆「転写(部分)」 榛葉莟子
                   
榛葉莟子展-転写-

 車を駐車場に止め喧騒の銀座通りから階段を上り画廊に一歩足を踏み入れると、そこは別世界であった。壁には版画や小品のオブジェがかかり、会場の中央には錘に巻かれた大きな糸玉のようなオブジエがエアコンの風で静かに回っている。「なんと心地良い空間なのか」私は傍らの小椅子に腰掛け煙草を吸いながら何と二時間近く画廊に居座っていた。

 榛葉莟子は山梨県大泉村に住み作家活動を続けている。雪が積もることはあまりないが四季を肌身で感じることができるごくありふれた日本の田舎の佇まいを今でも残す地で自然の営みに溶けこんで生きている。雨が降り、風が吹き、暖かい日差しを感じるようになると草木の芽吹きにあふれ、鳥のさえずりや木の葉のざわめきを聞きながら紅葉を迎える。都会生活に慣れ親しんだ人々にとって忘れてしまった耽々としているが変化に富んだ自然に身を委ねることにより見え聞こえてくる世界を榛葉は「転写」として捉え作品に顕すのだ。その表現素材や手法は固定されたものでなく、紙や木など身の回りにある素材を用いながら絵画的あるいは彫刻的手法などで自由に制作している。

 作家に限らず日本社会で生きていくには誰もが理解する身分や職業、肩書きなどを暗黙の内に求められ、無職や自由業などの特殊な職業に従事していると社会的信用を得にくい。又、複数の職業を持つ人には不安を覚えるらしい。このような現象は一般社会だけでなく芸術家にも求められ、既存の核組みの範疇に入らなければ評価の対象にもならない状況が存在している。県展などに応募したが額縁に入っていないので受け付けてくれないという話も現実にあり、作品を作り発表するとなると作家もこの世界の枠組みを理解し、どの枠組みの中で制作していくのかを決め、その作風も大きく変化させずに継続して制作することが作家として生きていく条件であることを思い知らされる。美術大学の学科構成や公募展等で油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン等に分類されているが、これは日本だけの枠組みで世界共通でない。もちろん、世界共通の枠組みなど存在するはずがない。作家が何を感じ何を表現したいかでイメージが形成される、実用性を持つか鑑賞性に重点をおくか、そんなことはたいした問題でない、むしろ、作家にとってイメージを最大に表現できる素材や技法を永年の慣れや親しみだけに甘んじて制作するのでなく、例えば音楽や美術という枠組さえにもとらわれずに制作する姿勢が求められているのでないかと思う。

 榛葉莟子はそうした創作活動を続けている数少ない作家の一人である。

 画廊は作品が展示されていなければ、ただの箱。この空間に大泉村の空気と自然を榛葉莟子が転写して届けてくれた。この作品群は自然の中に身を委ねて感じる心地良さを超越し鑑賞者に穏やかな豊かさと安らぎを実感する場として存在させたのである。

◆「個展-かすり96-」 桜井玲子

◆「個展かすり-99-」 桜井玲子

桜井玲子個展-かすり99-

 何年前の個展であったか、同じ千疋屋ギャラリーの全壁面を完全にタペストリーで埋めた作品を桜井玲子は発表した。通常タペストリーの展示では壁面の余白を額縁的に利用して展示される手法が一般的であるが天井と床を除いて全壁面を埋めたタペストリー展は類がない。切り抜いた枠の中で表現する手法はタペストリーだけでなく一般的に絵画はほとんどこの手法で制作されている。鑑賞者の視点を制約し、作者の意図を伝えやすくすることで多くの作家はこの手法を選んでいるのだが、桜井は大きく自らの制作手法を変えることなく全壁面を作品で埋めることにより鑑賞者の視点を一点から解き放すことで鑑賞者を作品に対峙する関係から作品の一部に取り込む関係に生み出した。こうして、平面の作品は壁から離れ三次元の世界を創出する。桜井玲子は「かすり」の技法を用いて平面の織物作品を制作し続けているが枠組みに閉じこもる制作意図を持たず穏やかであるが広がりのある作品作りに挑戦している作家である。

 今回の個展は、その挑戦の姿を如実に表していた。会場の入口近くには近作を並べ、正面の作品とその左右の3点の作品は桜井玲子の生々しい制作姿勢を臆することなく素直に表現していた。桜井の作品は「縦かすり」で鮮やかな色合いを大胆に構成しているという定評があるが、今回は大胆さは維持しながら深みを感じさせる三様の作品で一点は鮮やかな地色の染色後に墨染を加えることで生々しさを打ち消す試みをし二点目は全体に地組織を織り込むことにより布の表情に深みをもたせている。三点目に私は注目したのだが前記二点のような作家の制作意図をほとんど放棄して、ただ思い入れだけで制作したことである。表立った計算をせず、自らに主眼を置かず、他者への思いを鮮明にすることで、余分な力を取り去り顕された作品はすがすがしい表情をみせてくれた。人が創作する限り作者の力の入れようが作品に反映することは間違いない。だが、経験を積んでくると手が勝手に動き一定の水準を満たす作品になるが、社会はこうした作品を作風として捉え、結果的に作家を拘束している。このような環境を心地良いと判断するか否かは作家が判断する問題なので外野がとやかく言うことではないが、鑑賞者の一人として経験を積んだ作家には多くを期待する。作家は多種多様であるので、勿論一律ではないのだが、願うことは無心で制作した作品との出会いを私は心待ちにしている。今回、桜井玲子個展でこのような作品に出会えたことは至福の喜びであった。
 
 きもの美術館で開催された「SHIFU(紙布)桜井貞子展」については当誌にて七海善久氏が触れるので詳細は譲るが菊池正気氏などの協力を得て失われようとしていた日本独自の紙文化を再興し和紙の可能性を再認識させた業績には敬意を表したい。こうした活動が多くの人々に感銘と勇気を与え、世界に類のない日本の紙文化の発展に大きく寄与するであろう。

 横浜美術館では「世界を編む展」が開館10周年記念企画展として開催された。経済のグローバル化や情報化が国境の壁を低くしたと言われているが美術の世界でも国家や文化圏ましてや油絵や日本画、彫刻、工芸等々などの枠組の中だけでは方向性は見えてこないという現状を打破する一つの試みとして画期的な展覧会であった。日本の美術ジャーナルを形成している人々によると美術と工芸を鑑賞性に特化しているか実用性を持っているかで区分し工芸は常に美術より低く位置付け、席を同じくすることはなかった。今回の展覧会の意味することは日本流でいうならばジャンルの異なる日米欧24名による作品が一同に会し相互刺激をすることと、研究者の鑑賞性を押し付けられることはなく一般の鑑賞者が「世界を編む」という切り口で企画された展覧会を鑑賞することができたことでないだろうか、残念なのは研究者の視野の狭さから的確な作家と作品を選んだとは思えず、作品の展示に十分な配慮がされていない、などの疑問点が残るが多様な問題を抱えている日本でこの展覧会が実現したことに賞賛をおくりたい。縦割りで一律の展覧会しか開催されない現実の中で、企画者の顔の見える多様な展覧会が生まれる契機になれば幸いだと思う。
 
 榛葉莟子と桜井玲子そして桜井貞子、「世界を編む展」の企画者である沼田英子を同一の尺度で語ることはできないが、僅か一ヶ月に同じ画廊と近隣の美術館でおのおのが「無為の風」を吹かせたことは間違いない。こうした作家は国内はもとより欧米においてもグローバルな視点を持ちながらも世の中の動きに翻弄されることもなく創作活動を続けているために表出することはあまりない。21世紀はインターネットや図書でのバーチャルな交流から展覧会などのリアルな交流迄もが国家、人種、宗教、等々の枠組みを超えて世界各地で日常的に多彩に催されると予想されるが、こうした時代こそ美術館学芸員の独自の切り口による企画が求められ、結果として優れた展覧会に結びつくことになるのであろう。世界の人々が豊かな生活を送る時が訪れるのか否かの一端を学芸員が握っていると言うのは無理な要求なのであろうか。

桜井玲子個展主旨
 私は、忘れられない思い出となって ふっと戻ってくるものには、なにかしら同じような匂いと色があると感じている。それらの情景や気配のなかには、静かに そして ゆっくりと動いているもの、移ろうものの途中の美しさとでもいえるような不思議な魅力が内在していると思っている。

 濃密な大気の中 ぽっかり浮かんで漂っているような風を感じて ゆらりと揺れるような 雨をもらって 流れて沈んでゆくような 光を浴びて 溶けてゆくような ほんの少しだけの ひんやかな変化のなか 止まることのないある時間 ある空間になんともいえない心地良さと懐かしさを感じるのである。この感覚をタペストリーに再現したいと思う。

 そのことは、風や雨や光や空気の中に、私の感じとれる色や形を みつけ出してゆくことでもある。私は常に、その とてもたよりない程の小さな感覚を大切に制作してきた。これからも 同じ心持で制作してゆくのだと思う。その過程で、つくったタペストリーをみてもらおうと思っている。                   桜井玲子

「未完成であること」 榛葉莟子

2016-06-01 08:22:08 | 榛葉莟子
◆ONSIN 1997  榛葉莟子

1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。

未完成であること                 榛葉莟子


 パチパチパチと、近くで音がした。何だろう 耳をそばだてる。なにかが燃えている。あわてて外をのぞく。枯れた原っぱから炎が勢いよく立上っていた。人の姿が見えた。そうか、今日は野焼きの日だ。野焼きの知らせの回覧を思い出し妙にほっとして窓を閉めた。夕方、あたりをぶらぶら歩いて行くと香ばしいような、何か懐かしい匂いがあたりにたちこめている。焼かれた土手の、四方八方に拡がる黒々とした横長の斜面の重なりが美しい。そしてそこから、くすぶる白い煙が立ちのぼり、あたりの風景は薄白い膜に包まれているように見える。野焼きは言うまでもなく、土の新陳代謝をよくし植物の発芽を云々……と聞いている。薄白い膜の中、香ばしい匂いを吸い込みながら歩いていると、ふと、胞衣に包まれた胎児の映像が浮かんだ。それからは、まるで早送りのフイルムのように、黒い土手の斜面も何もかもがみるみる再生変容する柔らかな色彩風景。なかでも光りにも似たたんぽぽのまあるい黄色がいっそうまぶしく眼に飛び込んでくる。匂い、色、形、音、動き、それらが不可思議な糸に結ばれながら確実に新しい春が巡ってくる自然の周期。当たり前の背後のリズムの不思議をまた想う。

 ピーヒャラピーヒャラ笛の音が聞こえてくる。村の鎮守のお祭りだ。私の住まいは静まりかえった神社の境内と地続きで、丈高く茂る木立の間に間に小鳥がさえずり交わしていたり、子どもたちのかくれんぼの声が遠く近くに聞こえてきたり、たまにお参りの人の拍手を打つ音が聞こえてくるくらいのものだが、お祭りの日の境内はいっきに花開く。さして広くはない境内に、朝早くから、いくつかの出店がどこからともなくやってきて、さまざまな原色の色彩にあふれはじめ祭り舞台は整っていく。神楽殿では衣装を纏った村の男衆の笛や太鼓が、ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッと奏ではじめ、素朴な神楽を舞う艶やかな錦織の衣装の舞い人が現れる。毎年雨ふりの天気に恵まれないお祭りだった。いつだったかそのことをふと口にした時、おばあちゃんが言った。いいだよ、ここは水の神さんだでね。その事を初めて知った時、何か合点の雫がぽとりと胸の奥とつながったような気がした。それはここ鎮守の森の傍らに暮らすようになったある夜、ざざざー、ざざざーと夢見心地の耳に潮騒の響きを聞いて眼が覚めた。その潮騒の音が鎮守の森を揺さぶる風の仕業とわかっても、その時の今、自分の奥深くのさざなみの響きと共振し呼び出されたのかもしれない。その時鎮守の森は海だった。

 午後からは学校が終わって、おこずかいを握り締めた子供達の歓声が混じりはじめ、はちきれんばかりの境内になった。この日、空は今にも雨が落ちてきそうな曇天だった。

 ガラス窓を境のこちら側で私は仕事の手を動かしていた。ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッ……繰り返し繰り返し波のように連なって聞こえてくる音色に自然と身体がリズムに添って行く。自然に拍子をとっている。あの野焼きのように何かエネルギーを注入されているようだ。こぬか雨になった。ガラス窓の向こうには、はちきれんばかりの祭りのざわめきが夢の出来事のように消えてなくなり、ひっそりと鎮守の森は闇夜に包まれている。私の耳の奥に残りたまっている笛の音を紡ぎ出し声にしてみる。ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッ…… するとカタカタッと小さくガラス窓が音をたて拍子をとった。ひょいといま、転写の文字が浮上した。結局は何でも転写と言えるのではないだろうか。と、考えがやってきた。版画やフロッタージュの製作方法の説明に転写の言葉を使っていたけれど、いま、そこに含まれる意味が膨らんで、大げさに言えば宇宙とヘソノウがつながっている実感といったらいいだろうか。了解と言ったらいいのだろうか。常に宇宙と交信していることになる。それが常に予感としてやってくる曖昧模糊としたイメージ、けれども確かなそれとしか見えようのないもの、どうしても、という誘惑に乗って引っ張られていく。そして形や色を産みだしながら、自分語の翻訳作業が頭の片隅ではじまっていく。丸ごと全体の自分を通してそうしたいように、そうするしかない訳で、その途端すでに先端に待機しているなにかが手招きしているのだから、終って始まる巡りでもありいつだって果無い遠方へずれていく未完成の転写の連続ということになるのではないのかしら。