◆記憶のリズム 1999 榛葉莟子
2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。
耳は聴いている 榛葉莟子(造形作家)
自転車でひとっ走りの所に、村の図書館が出来たのは一年程前の事だった。期限付の本を借りてくるという感覚を持たなかった私には、この頃の図書館通いに新鮮な時の恵みの贈り物を感じている。近くの町に本屋はあっても色相の密度は薄い。古本屋はないので上京に間が空けば、古本屋通いの楽しみは遠くなる。多分、都会から移り住んだ人達が、まず面食らう事のひとつが、それだと思う。私の場合、期限付という事を除けば、ふと目に止まった本が喜びをもたらしてくれる古本屋通い癖を、どうも図書館にみている節はあるなあと、この頃気がついたせいか、ぶらり呑気な気分で、あるいは胸躍らせながら図書館に行く。
ある日も自転車に乗って図書館に行く。この時は調べたい事があった。すっかり舗装されたなだらかな上り坂の途中で息がきれ自転車を降り歩く。新品の図書館の屋根が右手に見え隠れしている。左手には田や畑がしんと静かに拡がっている。坂道と田畑の間に川がある。いまでは川底や両岸が深いコンクリートで覆われて草一本生えていず、コンクリート敷きの底を擦りながら流れて行く水音はザーザーと平坦で、退屈な川になってしまった。この川がさらさらと清い音を立てて流れる小川だった頃、流れにせりだし根を張った草々を支えに長々と体を伸ばして昼寝する蛇を微笑ましく眺めた夏の日があったけれど、そんな事が懐かしく感じられるのは残念と思う。魅力のない川を覗く気も起こらず坂道を上っていく。と、ザーザーの流れの音に逆らうように、シャッシャッシャッという音が耳に入ってきて、ふと立ち止まる。シャッシャッシャシャッ、シャッシャッシャッシャッ……水を蹴って走る音?あっ、まさか!川を覗く。まさかの主は犬だった。犬は川に落ちたのだ。犬は必死でそこから這い上がろうと試みては走りを繰り返していたのだろうけれど、コンコンクリートの囲いは深すぎ、爪を引っかける突起物さえないのだ。おいで、おいで、と呼ぶ声に犬は顔を向けた。あっ、知ってるあの犬だ。でも飼い主がわからない。ここがまだ小川だった頃、岸辺の原っぱをのんびり散歩していた老犬だ。そう、挨拶も交わした。こんにちは、ここは素敵に明るい原っぱですね。ええ、ええ、こどもの頃からいつでもここで遊んでいるんですよ。大好きな所でねえ。鼻をひくひくうごかしている笑っているような優しい顔の老犬だ。
大変、犬が、犬が!の緊急の叫びは図書館へ向かう遠くの人の耳に届く前に、走り去る車の音と共にかき消えた。やっと役場の人が駆けつけてきた。巨大な失敗した金魚すくいのような形のものを担いでいた。あの輪っかに頭を入れて岸辺に引き寄せ、引き上げようという寸法らしい。じゃ、お願いしますと、飼い主を探し当て引き返してきたとき、犬は川から引き上げられていた。良かった、ゴンよかったねえ。あっ、名前はゴンですって。ゴンは役場の人に引き摺られるように、輪っかのなかで恐い顔でウーと、怒っている。それはそうだ。ゴンのこの姿は屈辱的だもの。それに、ねえゴン、ゴンのせいじゃないさ。小犬の頃からぴちゃぴちゃ遊んでいたいつもの小川の水の匂いはゴンのなかに変わらずあるにちがいない。いつもそうしていたように、そうしたら這い上がれない深い川だったと、推察する。綱片手に駆けつけて来た飼い主の顔をみたゴンはすっかり優しい顔に戻った。放し飼いは禁止ですよと、役場の人の厳しい声がした。それにしても、どうして犬だとわかりました?役場の人が言った。川の流れの音に異う音が混ざって聞こえたんですよ。へーっと、役場の人は語尾をあげた。犬にも暮らしにくい所になりましたね。はあっと、役場の人は今度は語尾をさげた。ああ、この人も生活の殆どを車でまかなっているのだろうなと思った。なる程、てくてく歩いているのは、老人か子供か、私のような自転車派位のものだ。いつもと異う音を聞いたと言った時の、役場の人が不思議そうにしたことが私には不思議でならない。
土曜日の図書館はいつもの静けさとは異う、ざわざわとした気配だった。それにしても、こんなにたくさんの人が、川の近くにいたのだなあと思うと、恐い気もしてくる。そういえば図書館のなかに低い音量ではあるけれど音楽といっても歌が流れている事に気がついた。歌の歌詞がまとわり付いてきて探す本に集中出来ない。あのー、いつも歌が流れていましたっけ。係の人に聞く。それがどうしましたかと言わんばかりに怪訝そうに、ええ、と言った。ふーん、何故今までは気にかからなかったのだろう。と自分の耳に疑いを抱きながらも、ざわざわとした館内とバックミュウジックの混合は私には騒音としか聞こえてこない。いつものふんわりした静けさの空気は隅っこに、外部に追いやられてしまったように感じられた。急ぐこともない調べものは又にしようと、図書館を出る。ひそやかな音、音なき音はいつでもすぐ傍らに背後に、共に存在している。騒音と感じるか否かは大小の問題ではなく丁寧に聴く耳を持ちえているかどうかの個人の音(世界)に関わっている。
2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。
耳は聴いている 榛葉莟子(造形作家)
自転車でひとっ走りの所に、村の図書館が出来たのは一年程前の事だった。期限付の本を借りてくるという感覚を持たなかった私には、この頃の図書館通いに新鮮な時の恵みの贈り物を感じている。近くの町に本屋はあっても色相の密度は薄い。古本屋はないので上京に間が空けば、古本屋通いの楽しみは遠くなる。多分、都会から移り住んだ人達が、まず面食らう事のひとつが、それだと思う。私の場合、期限付という事を除けば、ふと目に止まった本が喜びをもたらしてくれる古本屋通い癖を、どうも図書館にみている節はあるなあと、この頃気がついたせいか、ぶらり呑気な気分で、あるいは胸躍らせながら図書館に行く。
ある日も自転車に乗って図書館に行く。この時は調べたい事があった。すっかり舗装されたなだらかな上り坂の途中で息がきれ自転車を降り歩く。新品の図書館の屋根が右手に見え隠れしている。左手には田や畑がしんと静かに拡がっている。坂道と田畑の間に川がある。いまでは川底や両岸が深いコンクリートで覆われて草一本生えていず、コンクリート敷きの底を擦りながら流れて行く水音はザーザーと平坦で、退屈な川になってしまった。この川がさらさらと清い音を立てて流れる小川だった頃、流れにせりだし根を張った草々を支えに長々と体を伸ばして昼寝する蛇を微笑ましく眺めた夏の日があったけれど、そんな事が懐かしく感じられるのは残念と思う。魅力のない川を覗く気も起こらず坂道を上っていく。と、ザーザーの流れの音に逆らうように、シャッシャッシャッという音が耳に入ってきて、ふと立ち止まる。シャッシャッシャシャッ、シャッシャッシャッシャッ……水を蹴って走る音?あっ、まさか!川を覗く。まさかの主は犬だった。犬は川に落ちたのだ。犬は必死でそこから這い上がろうと試みては走りを繰り返していたのだろうけれど、コンコンクリートの囲いは深すぎ、爪を引っかける突起物さえないのだ。おいで、おいで、と呼ぶ声に犬は顔を向けた。あっ、知ってるあの犬だ。でも飼い主がわからない。ここがまだ小川だった頃、岸辺の原っぱをのんびり散歩していた老犬だ。そう、挨拶も交わした。こんにちは、ここは素敵に明るい原っぱですね。ええ、ええ、こどもの頃からいつでもここで遊んでいるんですよ。大好きな所でねえ。鼻をひくひくうごかしている笑っているような優しい顔の老犬だ。
大変、犬が、犬が!の緊急の叫びは図書館へ向かう遠くの人の耳に届く前に、走り去る車の音と共にかき消えた。やっと役場の人が駆けつけてきた。巨大な失敗した金魚すくいのような形のものを担いでいた。あの輪っかに頭を入れて岸辺に引き寄せ、引き上げようという寸法らしい。じゃ、お願いしますと、飼い主を探し当て引き返してきたとき、犬は川から引き上げられていた。良かった、ゴンよかったねえ。あっ、名前はゴンですって。ゴンは役場の人に引き摺られるように、輪っかのなかで恐い顔でウーと、怒っている。それはそうだ。ゴンのこの姿は屈辱的だもの。それに、ねえゴン、ゴンのせいじゃないさ。小犬の頃からぴちゃぴちゃ遊んでいたいつもの小川の水の匂いはゴンのなかに変わらずあるにちがいない。いつもそうしていたように、そうしたら這い上がれない深い川だったと、推察する。綱片手に駆けつけて来た飼い主の顔をみたゴンはすっかり優しい顔に戻った。放し飼いは禁止ですよと、役場の人の厳しい声がした。それにしても、どうして犬だとわかりました?役場の人が言った。川の流れの音に異う音が混ざって聞こえたんですよ。へーっと、役場の人は語尾をあげた。犬にも暮らしにくい所になりましたね。はあっと、役場の人は今度は語尾をさげた。ああ、この人も生活の殆どを車でまかなっているのだろうなと思った。なる程、てくてく歩いているのは、老人か子供か、私のような自転車派位のものだ。いつもと異う音を聞いたと言った時の、役場の人が不思議そうにしたことが私には不思議でならない。
土曜日の図書館はいつもの静けさとは異う、ざわざわとした気配だった。それにしても、こんなにたくさんの人が、川の近くにいたのだなあと思うと、恐い気もしてくる。そういえば図書館のなかに低い音量ではあるけれど音楽といっても歌が流れている事に気がついた。歌の歌詞がまとわり付いてきて探す本に集中出来ない。あのー、いつも歌が流れていましたっけ。係の人に聞く。それがどうしましたかと言わんばかりに怪訝そうに、ええ、と言った。ふーん、何故今までは気にかからなかったのだろう。と自分の耳に疑いを抱きながらも、ざわざわとした館内とバックミュウジックの混合は私には騒音としか聞こえてこない。いつものふんわりした静けさの空気は隅っこに、外部に追いやられてしまったように感じられた。急ぐこともない調べものは又にしようと、図書館を出る。ひそやかな音、音なき音はいつでもすぐ傍らに背後に、共に存在している。騒音と感じるか否かは大小の問題ではなく丁寧に聴く耳を持ちえているかどうかの個人の音(世界)に関わっている。