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「手法」について/西雅秋《地溝》 藤井 匡

2016-10-29 09:52:27 | 藤井 匡
◆西雅秋「地溝」耐候性綱 300×620×620cm

2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。

「手法」について/ 西雅秋《地溝》 藤井 匡


 「つくること」について考える。(註 1)
 ある作品(発表されたもの)を見ている僕が「つくること」について考えるとき、必ず「つくられたもの」から遡って考えることになる。現在から過去を見ているのだから、そこには揺らぐことのない確定されたパースペクティヴ――始まりと終わりとをつないだ直線的な時間――が現われる。時間を動いているものと見ないのだから、どの時点であっても素材からの距離あるいは完成からの距離で計算することができる。
 この終わりから見るパースペクティヴは、それ以前の全ての時間を目的に対する手段として位置づける。この認識方法は分類する(理解する)際には便利だけれども、「つくること」は相対化されて現実に発生した特異性を消してしまう。現実の様々なものの関与の中で生きられたことが消去されていく。
 目的に対する手段ではない「つくること」、終わりから逆算されたものではない「つくること」、相対化できない特異性をもっている「つくること」を探している。その可能性を、ここでは『手法』と呼ぶことにする。

 西雅秋《地溝》(1993年)は、緩やかに湾曲した鉄板(耐候性鋼)16枚を内側からボルト・ナットで繋ぎ合わせて円筒形を構成した作品である。
 この単純な幾何学形態の外観からは確かに、ミニマルアート的な強さが感じられる。また、人工的な要素が屋外空間(自然)との対比を強く打ち出し、周囲を新鮮に見えるようにする。けれどもそうしたことは、ここでは派生的な問題に過ぎないと思われる。そのように見るとき、僕は終わりからのパースペクティヴに立つことになる。ここからは、この作品単独の問題は見えてこない。
 円筒形は作者が何度も使用している形態ではあるが、そこに特別な意味を見つけることはできない。むしろ、形態がもたらす意味を最小限(理想的にはゼロ)にするためのものと思える。そしてスケールについても、この作品の必然性から導かれたものではなく、他律的な要因で単にそのようになったものと考えられる。
 形態やスケールに対する関心の希薄さは、彫刻における通常の意味での「つくること」への関心の希薄さと結びつく。そしてその関心の希薄さによって対比的に、《地溝》の特別な在り方が強調されて見えてくる。それは、この作品の鉄が地中に埋設されていたものだということである。
 《地溝》は第15回現代日本彫刻展に出品された作品である。この展覧会(1993年10月1日~11月14日)の前に、1992年11月に作者のアトリエのある埼玉県飯能市から会場(山口県宇部市)搬入されている。ここで一度泥土の中に埋められた鉄は、約10ヶ月後に掘り起こされて会場に並べられた。
 地中で時間を過ごした鉄は表面に泥を付着させる。それも単なる付着ではなく、酸化によって泥を噛んだ(泥と一体化した)状態を生み出している。鉄はその性質から、埋める前後では質的な違いをもつことになる。同時に、酸化によって鉄は表面を削りながら痩せていく。ここには、埋める前と同じ表面でありながらも、それが失われた後に出現する新しい表面でもあるという、分裂した二つの表面への願望を読み取ることができる。
 こうした相反する二つの感情を引き起こすものがここには含まれる。この作品に使用されている鉄は、他の鉄と交換できない象徴的な意味合いをもっているのだから。

 《地溝》の鉄板は、かつて《土 水 空気》(1987年)という別の作品を構成していた。これは鉄板の表面にグラインダーを使って多数の線を刻んだ作品で、スパイラルガーデン(東京)での個展の時に壁に並べられていた。(註 2) この時にフラットだった鉄板をサイズの変更をせずに湾曲させ、円筒形として自立できるように改変したものが《地溝》である。こうした経緯から、《地溝》は《土 水 空気》の否定を契機とする作品と考えることができる。
 《土 水 空気》は、鉄に線を刻むことで「自然」を表現しようとしている。しかし、そうした表現はやがて反転してしまう。現実の動いている時間中で鉄が酸化を進行させていった結果、志向されていたものが失われてしまったからである。
 展覧会終了後、放置された鉄板は緩やかな速度で表面の変化を繰り返したはずである。そこに表現された「自然」とは無関係に自然に変化していく鉄。そこでは意味をもたずに変化していく鉄と、意味をもった作品とが時間の経過に比例して乖離していく。このとき作者にとって、《土 水 空気》の意味が決して風化できないものならば、この乖離はどうしても耐え難いものとなる。
 この《土 水 空気》とは抽象的なものではなく、「ヒロシマの」という形容詞と結びつく。これよりも以前に、ガラスに無作為な線を刻むという《土 水 空気》と同じ方法で制作された作品がある。《熱線》という作品は原爆のイメージを投影したもので、それは後に《Ground-0》(爆心地)と改題されている。そこから《土 水 空気》の線刻の意識が発生してくる。(註 3)
 鉄の表面の変化によって、目的となっていた《土 水 空気》の物語は既に機能しなくなっている。このとき《土 水 空気》を単純に否定するだけなら、廃棄して終らせることもできたはずである。けれども実際には、否定された現実を受け継ぐようにして鉄板は埋設されたのであり、廃棄されることはなかった。このことは重要な意味をもつように思われる。作者にとっての「ヒロシマ」は、廃棄したりしなかったりの選択の可能性を残すものではないからである。

 1946年、原爆投下の翌年に広島に生まれた作者にとって、「ヒロシマ」とは自身が生きていく条件として与えられたものである。しかもそれは直接的な体験としてではなく、原爆によって形成された関係の体験としてもたらされている。(註 4) 「ヒロシマ」は原爆投下という事実に回収されるものではなく、言上げする対象が確定できないような周囲に広がっている関係である。目に見えないもの、実体にならないものだからこそ結論を出すことは困難であり、継続的に問いかけられることになる。
 この関係は、作者と《地溝》との関係に重ね合わせることができる。《土 水 空気》は「ヒロシマ」を目に見えるようにしたものだが、それは関係を固定化したものとなる。ここでは目的から「つくること」が見られているのだから当然、作者の生とは時間の経過の中でズレを発生していく。
 鉄を埋めるのは固定化されたものを再び関係の中に戻す行為である。このとき《地溝》に重ねられた問題意識は、鉄が地中という見えない場所にあることによって作者に内面化される。そのため埋められた鉄は継続的に意識され、鉄は〈私の身体の一部〉(註 5)として作者と生きる時間を共有することになる。
 地中の鉄は酸化を繰り返し、やがては表面に刻まれた「ヒロシマ」を消去し、最終的には存在自体が失われるはずである。けれども、埋設はそうした目的に奉仕するものとは思われない。「ヒロシマ」が関係としてあるならば、そこから自身を引き離す方法はないのだから。この目的へと向かうことのない「つくること」が『手法』と呼ぶものである。
 人間の手が入らない地中の鉄は、線刻を消し去ることを目的に減退するのではなく、あくまで意味を持たない化学変化として減退していく。長い時間を過ごした結果として鉄が消失するとしても、それは単純に存在が消失するだけで、そこから新しい物語が出現することはない。埋めるという『手法』が前景化されるとき、目的から逆算するパースペクティヴは成立しない。
 また、埋設中の鉄には劇的な展開の可能性はない。鉄は自然の摂理に従うより他はないのだから。つまり、鉄が変化するとしても《地溝》は埋められる前から完成している。あるいはどの時点で掘り出そうとも常に完成している。そして同時に、常に完成してないとも言える。この場所では「完成」という言葉そのものが意味を成さないのだから。埋めるという『手法』は、作品の完成へと向かう起点(目的から見られた手段)とはならない。
 作者と鉄とが共有する時間は、過去と未来との間に引かれた直線上に位置する任意の一点ではない。この現在は他の時間と交換できる等質なものではないのだから。『手法』を前景化するときに棄却されるのは、そうした生きられることのない時間(理念的な時間)である。鉄を埋めることが『手法』となるとき、生きられる絶対的な現在(現実的な時間)だけが立ち上がる。


註 1)下記のものを参考にした。
   柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』講談社 1995年(初出『思潮』 8号 1990年3月)
  2)州濱元子「西雅秋――彫刻をつくるための」『西雅秋展』カタログ 広島市現代美術館 1998年
  3)前掲 2)
  4)「Artist Interview 西雅秋」『BT美術手帖』 1994年9月号
  5)作家コメント『第15回現代日本彫刻展』 1993年