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「筆力という難問」橋本真之

2016-05-31 15:02:01 | 橋本真之
1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。

筆力という難問           橋本真之


 突然に憂鬱はやって来る。少年時ならば、一人で中庭の泉水をのぞき込んで、憂鬱な一日をやり過せた。あるいは校庭の隅のバックネット裏の砂利の中に、金色や銀色に輝く小石や、手触りの心地良い変った小石を捜していれば良かった。あるいは、うろつきまわって、草木の葉を口にして、その青臭い味を較べて一日過ごすこともできた。名も知らぬ植物の枝を口にして、一日中、苦味が去らぬこともあったが、およそ私の憂鬱は葉緑素に色どられていた。下水溝のコンクリート製の蓋の上を、下駄で歩いた夏の日の空ろな音が、今でも聞こえるようだ。五十路にかかってしまうと、少年のようにうろついていては、危険人物視される。これからは、少しは身ぎれいにして歩かなければ、うさんくさい目があちらこちらに光っている。バルザックもプルーストも、池大雅も、五十そこそこで死んだ。死者の年齢というものが、妙に現実感を持ち出したのは、自分の身体に変調を覚えるためだろうか?この正月に七十九才で死んだ父の突然の出来事にあわてたためだろうか?憂鬱の始まりも、この父の死が発端であることは確かだったが、この発端は次々と不愉快な事共を引き連れてやって来た。

 「生活なぞ後まわし」と、うそぶいて没頭して来た仕事に、ようやくめどがつきそうになって来たと思ったら、後まわしにした生活に待ち伏せを喰ったという訳だ。その事はしばらくは置く。いずれけりはつくだろうから。

 父は書家で銀行員だった。つまり金銭生活を先にした人だった。そのお蔭で私がこうしていられる訳だ。その二重生活がいかなる苦汁と鈍気を必要としていたかは、想像するにかたくない。父・梅屋の書が面目躍如として来たのは、その死の数年前からではなかろうか?母の死を送って、孤独とひきかえに、父は真に書家の生活を始めたのであろう。実際、待ちに待った書家の生活を始めたなと、私は思った。彼は誰にも邪魔されたくなかったのである。宋時代の画家・顧駿之が高楼を建て、階上に画室を設け、絵を画く時には梯子を引き上げて、家族との接触を断ったという故事が思い出された。書き始めると、父は一人暮しの玄関を閉じ、応対に出なかった。持って行った料理を持ち帰る訳にも行かず、合い鍵で中に入ると、父は大きな紙の上に四つんばいになって書いていた。私の少年時代に、二階の書斎をおそるおそるのぞいて、筆を持ったままの父がとがめるように私を見た目と同じものだった。父は三味の時を迎えて死んだ。父は酔って、夜中に風呂の中で死んだが、そのおだやかな顔は、まだ自分が死んだということを知らないのに違いないと思わせた。書家の死というものがいかなるものか?多くを審かにしないが、いまだ自らの書を更新し続けていた書家の死の間際というものの意味は重い。

 筆跡に顕れる隠し難い力量というものがある。書が書道と呼ばれたのも、その事なのだろう。手習いの内ならば、人の行った後をついばんで行けば良いのだが、現実に自らの書を自立させるとなると、これはいかなる方途があるのか?と呆然とさせられるものがある。筆跡と結構が超越に至るという、書の持つ意味は、ヨーロッパの絵画におけるドローイングの線の問題と似ていなくもないのだが、それとは別の、人格としての線の力が明確に見える場がそこにある。

 そうして見ると、書簡のやりとりが日常になされていた一時代前の文人たちの間には、手紙文の内容以上に語ってしまう筆跡の力が人の姿として見えていたのである。書が自らの姿・形として現前していることを自覚しているのであれば、それは人として鍛錬が必要という訳だ。しかも自分だけ悦に入っている見せかけの筆力なぞは、見破られてしまうものだから、ひたすら鍛錬というのも困難なものがある。

 昨年サントリー美術館で開催された『日中書法名品展』(注)を見たが、その事の重さが手慣れのリズムと結構の向こうに厳然として見えるのがおそろしかった。そうした意味で私には、書聖とも神格化されて来た王羲之の存在というものが興味深いのである。実のところ、六朝時代東晋の人、王羲之の真跡は全く残っていない。現在、私達の見ている王書というものは拓本と模本のみである。王羲之の書は権力者にあまりに愛され過ぎたがために、権力者の死と共にに副葬され、また中国全土の王書が漁られ尽し、戦乱の中で失われた。展示されていたのは『蘭亭序』の拓本が別の石刻からとった二種類と、『妹至帖』という王羲之の手紙の断片を双鉤填墨によって作った模本である。双鉤填墨とは、字の輪郭を写し取った後、墨をさして作る精巧な模本である。こうした模本技術によって現在まで伝えられている王羲之の書の実体は、おぼろで遠い姿をしている。おそらく王羲之その人の手は版画の原画ように隠されているのだが、それにもかかわらず、王羲之の香りは馥郁と伝わって来るのが不思議である。ここには筆力と様式との秘密があるように思える。書においては、筆力が様式に即転化するところがあって、現在、王書として伝わっているのは、様式に転化し得た面のみである。模本・拓本が伝えることが出来るのは様式のみであり、筆力の生々しさは隠れることになる。そこに王羲之神話が成立する唯縁があるのだろう。伝説と共に御廉越しに王羲之を見ていて、その手跡の消えた書家の存在が、聖なるものにならないはずはない。同時に展示されていた、日本の空海の書が、その生々しさが故に「聖」とも思えぬ面を垣間見せるのは道理なのである。

 これ見よがしの書の下品さには目をおおいたくなるが、書作品に魅せられる時、私にはその筆力なるものへの信頼が確信としてある。上品・下品の明確な差異を見る目を養なったのは、私にとって書だったようだ。それが生活の抜け落ちた書だったところに、私の美意識の限界と急進性があるのかも知れない。

 『日中書法名品展』には、書法の大転換をなした顔真卿の書がなかったのが不思議だったが、様々な事情があったのだろう。それはともかく、私が顔真卿という人物の豪毅な性格の筆力を意識してからは、生半可なドローイングやデッサンの底を割る試金石になっているのは確かである。父の蔵書の中から、密かに顔書を見ていた私を、父は知らなかったはずだ。顔真卿には『祭姪文稿』の真跡と拓本が共に残っていて、草稿にもかかわらず、その拓本が精巧さと共に様式性を持つということを見て取れたのが、私にとってはこれらの認識のきっかけだった。

 父は少年の私に、おまえの名前は顔真卿の真であると言い置いて、その人物の人となりについて一切語らなかった。

 顔真卿。中国唐時代の政治家また書家。安史の乱の平定に尽した。性豪直。時の権勢家と合わず、政治的地位は安定しなかった。李希烈の叛に会い殺された。

 年経て顔真卿が大人物たることを知るに及び、大それた名前を付けられたものだなあと畏れたものであり、誇りに思ったものである。お蔭で重要な人物について関心を持ったのは、父の徳というべきか?そのことで、父は語らずに、「筆力」という考えれば考えるほど、異様に度し難い課題を、私に残したまま居なくなったが、現代では、こんなに取りつく島のない問題に拘泥している人物は、そうは居ない様だ。

 けれども、王羲之も顔真卿も、それに続く蘇東坡も、あるいは現代の書家達も、この筆力という目盛りのない物差しで計られる時、その位置もおのずと定められるのである。ワープロとパソコンの蔓延する時代には、すでに言わずもがなの事柄になって行こうとしているこの問題は、やがて、筆力の身体性を駆逐してしまった後に、思考の空転をもたらすことになるに違いない。それは自らの言語の文字の成り立ちが、象形文字を土台に、表音文字と表意文字との結束であることの自覚を次第に薄れさせて、具体的な手ざわりを失なった抽象記号と化して行くことが必定だからである。私達はすでにそのような時代に居るのである。すでに後戻りがゆるされていないのであれば、我々は身体的に思考する道を新たにさぐらねばならないのである。

 うつ向いて道路端を歩いている少年の後姿を見かける度、その少年が手にしている充足の場が何かを想像する。いつの時代にも、人は何か他愛のないものと接触しながら自意識の充足する場を育てて行く。少年に性の惑乱の時がやって来る前に充足し得た寄り処が、その生を方向付ける内的な指針となることを忘れてはなるまい。

(注)「日中書法名品展」平成10年10月21日~11月24日(サントリー美術館)


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