◆「果樹園―果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(作法の遊戯展1990年、水戸芸術館)
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(金属とガラスの造形展 1993年、神奈川県民ホールギャラリー)
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(手わざと現代展 1993年、埼玉県立近代美術館)
撮影:高橋孝一
◆橋本真之「無限大と無限小を往還する構造」
◆橋本真之「凝集力」1990年 AZ ギャラリー、グループ展
◆橋本真之「凝集力」 1990年 お茶の水画廊、個展
2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動⑥』 橋本真之
『無限大と無限小を往還する構造』
2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動⑥』 橋本真之
『無限大と無限小を往還する構造』
京都の画廊アートスペース虹における企画グループ展「ノート‘88」展で、「無限大と無限小を往還する造形モデル」を最初に発表した。運動膜の初期構造の展開の再検討を様々に繰り返している中で、不意に気付いた、奇妙な落とし穴に落ち込むような発見だった。すなわち、膜状組織の最初の円筒状になった出発の両端が、外側にひるがえって互いに結びつけば、いわばドーナツ状の最初の重層構造になる。そのように結びつかずに、いずれか一方の端を内包する形で、最初の円筒の中にロート状にすぼまりながら入り込む。そして、円筒を通り抜けた後、ロート状に拡がり反展して、再び全体を内包する。ロート状にさらに小さな円筒の中をくぐり抜けて全体を内包する…。このようにして中心軸から限りなく離れた距離と、限りなく中心軸に近付いた距離に向かって往き来するのである。それを無限に繰り返す。この螺旋系を断面とした回転体は空想的で観念的な構造だが、無限大と無限小をひと連なりのまま往き来して、互いをささえているのである。この構造をそのまま造形するのは不可能だが、無限大と無限小を無限に往還するという考えが、私をひどく誘惑するのだった。私は鍛金という物質的なあまりに物質的な造形技術によって、模式的ではあるが具体化しようとした。それまでの私の実在への執着とは、明らかに矛盾する方向への願望だった。けれども、図面上で確信できる程度の造形上の問題ならば、私をいつまでも捉え続けることはできなかったに違いない。けれども、模式ではあるが、具体的に鍛金によって可能な入口を、私は見い出したのである。数学者であれば、数式によって表現することに向かうのであろうが、私にとっては、その具体的な空間の質に触れることの方が重要だったのである。この事は、私にとって明瞭に踏み出すことのできた一歩だった。少なくとも私はこれまでと別様の、ひと連なりの多重の層構造を見い出したのだった。
水戸芸術館の現代美術ギャラリーは天井高が6mあった。1990年の開館に向かって床の最後の仕上げをしていたがギャラリーの埃っぽい半透明な空気の充満の中に立って、床と壁の感触を確認した。この6mの天井高と、その自然光の降り注ぐ天井が私の制作を決定的に刺激した。この空間は「果樹園-」に5mに近い高さを要求している、それなら私はそこに「無限大と無限小を往還する造形モデル」を立ち上げるために、この仕事を出発する。――そう考えた。ここに「果樹園-」の部分を変換するという「運動膜」以来の考えを実行に移すことが出来たのである。そして、それは次々と部分を変換することによって、いずれ作品全体が入れ替わることになる。私の作品世界における特有の造形上の発見がいくつかあるとすれば、そのひとつにこの新陳代謝としての「造形変換」をあげておかねばならない。私における作品世界のかたちとは構造としてのフォルムであって、それは運動する世界構造としての具体的な展開形態である。それは長い時をかけて実現されることが必要なのであり、決して急ぐべき展開ではない。それは地層が形成されるように「降り積む時」が「造形的強度」に変成して行くのである。その端緒をこの展覧会で示すことが出来れば、それで良いと考えた。私の方針は明確だった。私の努力はすこぶるシンプルだった。4m50cmを超える高さの位置に球体状の「無限大と無限小を往還する造形モデル」を掲げるためには、「果樹園-」の中心にまで貫く形態を立ち上げねばならない。これが自らに課した課題であった。そして、そこから降りて来る形態の分岐によって、自重を分散させてささえるのである。私には初めての高さだった。4m50cmの長さをチェーンブロックで釣るのが仕事場の天井高の限界だった。ここにあるのは具体的な距離なのである。無限大だの無限小だのというのも、この手触りの中に見い出すのでなければ、私にとって仮空のことでしかない。無限大という不可能の手触り、無限小という不可能な手触りが、共に重要な感触なのだ。この手触りを自覚している限り、私が本質的に傲慢になることはあり得ないだろう。宇宙は人間の身の丈に合うようには出来てはいないが、この地上では自分の身の丈から認識するより他はないのだと覚悟していれば、空疎なかたちになることはあるまい。
展覧会は好意的に迎えられた。少なくとも、私の作品を喜んで迎え入れた人々がいた。それから3年後に開催された‘93年「手わざと現代」展('93年、埼玉県立近代美術館、カタログテキスト・松永康)。出品した「果樹園-」は以前の倍の量に増えた。そして、最初の出発の中心部と対比的に第2の中心部が出来た。「無限大と無限小の往還」の構造を内部にかかえた中心部が成立したのである。それはまだ連接する部分が出来なくて、「果樹園-」の中で孤立したかたちで展示した。埼玉県立近代美術館の企画展示室の天井は低いので、水戸芸術館で展示した変換した状態をそのまま展示することは出来なかった。水戸では壁に寄りかけて展示した最初の中心部から立ち上がる形態を、もとのかたちに戻して展示した。その替りその年の内に、最初の中心部の変換状態を神奈川県民ホールギャラリーで展示出来たのは幸いだった。(注1)
「果樹園-」は展示空間にフレキシブルに対応するようになって来た。私の作品世界は、この「ゆるやかさ」を持った構成の在り方を許容することが出来る。この事は私の作品世界の大事な一面である。何故ならこの「ゆるやかさ」なしには運動展開は不可能だからだ。緊密な構成とは、すなわち足し引き出来ない閉じた構成なのである。言い替えれば、そうした在り方に対して私の構成は開かれた構成である。しかし、ゆるやかな構成であっても、密度がなければならぬ。強度がなくてはならぬが、固くてはならぬ。私の作品世界には、密度を前提としたゆるやかな強度が要求されているのである。
『凝集力』
運動膜の出発における展開の再検討をしていた。――とはすでに書いたが、そうした試みの中で、展開の方向が空間的拡大に向かう在り方と、一方で空間的縮小に向かう在り方の二極があることに気付いた。豊かさは拡大の方向にあるとは誰しも考え勝ちだ。無限に拡大する方向と無限に縮小する方向の連続する往還体についての発見は、前章で書いたとおりである。けれども同質量の物質が空間的に圧縮され続けるとしたら、その物質はいかなる「力」を与えられるのだろうか?と考えた。というより、考えるより先に手が動いていた。最初の円筒を両端から金槌で叩いて、しわを寄せながら縮小に向かった。そこに縮小しようとする強度があった。造形上の構成を失って、単に密度だけがそこに強度として顕われるのだった。すでに私はこの姿を十代の終わりに、収縮する林檎の中に見い出していた。林檎が腐って、やがて水分が蒸発して行き、表面の皮が縮んで行くとき、しわが寄って内部に向かい始める。そのしわの形態の動きは異様な強度を持っていて、私の目を長いこと釘付けにした。「凝集力」のこの仕事は物理的に収縮への造形行為なのだが、自分自身の出発の根拠に向かって収斂しているかのようだ。この仕事は人目を引くことを望めない造形行為である。これは徹底の果てが求められている方位なのであって、この仕事が人の心を動かすことがあるとしたら、発生する不可解な形態を引き込み続けて、全てを消去して行くような場処を思わせるからに違いない。実際、内部空間を圧縮するように叩くことで、膜状の形態は一撃一撃の下で瞬時の変化にうねった。しわ同志が寄り合い、離れ、山々は立ち上がっては消えた。この方向は膜状組織が不規則に折りたたまれて層状の塊になった。(注2) 私はなおも叩き続けた。やがて、層状の塊は雲母のように、その薄い金属膜を乖離させ始めた。塊になったとはいえ、融合している訳ではないので、層状の金属膜同志が反発して剥がれ始めるのである。これらの仕事は渾沌とした出発の場処に向かうのだった。私は20代の始めに、このような場処から出発したのだった。遠い軌道を描いて出発に戻って来たのだと自ら知った時、再びその先が同一の軌道を描くのかも知れないと思うと、自らの運動の将来を、見知らぬ荒野で一人コマのように回転している姿として想像する他なかった。この堂々めぐりの先には何が在るのか?何か自分自身の中に空怖しい感情が充ちて来るのに気付いた。一体、何に向かっての凝集なのか?いずれ大展開の時が来る。そう自らを納得させずには居られなかった。
(注1)「金属とガラスの造形」展、1993年。(テキスト・畠山耕造)
(注2)「凝集力」の初めて発表は1990年AZギャラリーにおけるかたち社主催のグループ展。
(注2)「凝集力」の初めて発表は1990年AZギャラリーにおけるかたち社主催のグループ展。