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『手法』について/青木野枝《雲谷-Ⅳ》 藤井 匡

2017-05-01 10:22:23 | 藤井 匡
◆ 《雲谷-Ⅳ》コールテン鋼/440×400×400cm/2003年/撮影=脇坂進

2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。


『手法』について/青木野枝《雲谷-Ⅳ》 藤井 匡


 青木野枝《雲谷-Ⅳ》は、ドーナツ型に切り抜いたコールテン鋼を二つ、ほぼ直角に熔接してできる球形を、連続的に繋ぎ合わせる作品である。細い材料の構成から、全体としては"コの字"を上向きと下向きに直角に組み合わせた形態がつくられる。この彫刻は、形態も素材自体も、空間と対峙するのではなく、空気を透過させるような透明感をもつ。量塊を基調とする彫刻とは、別種の成り立ちをするものである。
 こうした青木野枝の彫刻は、鉄板を酸素とアセチレンガスとで熔断し、それを電気熔接で組み上げていく方法から生み出される。作者は、熔断を行う理由について、工業製品の鉄が「熔断することで自分の鉄になる、という感じがする」(註 1)と語る。熔断は、形態をつくるための単なる手段ではなく、作者自身が素材との関係を確認する意味を担うのである。
 1987年以前、作者は既成の丸鋼を熔接する方法を採用していた。だが、それ以降は熔断作業を抜きにして作品が制作されることはない。
 もちろん、丸鋼と熔断した細い鉄とでは、彫刻自体の視覚効果が大きく異なる。工業製品である丸鋼は、全てが均一な太さを有する。これを彫刻を構成する線とするならば、安定感のある作品像(静止した存在)が形成される。細い材料が使われてはいるものの、それは量塊彫刻の延長に位置するものである。
 だが、熔断された鉄を使えば、見る者の視線は熔断面を順次に追うことになる。その結果、作品は全体像が瞬時に把握される確固とした存在ではなく、空間の中から緩やかに立ち上がっていくものとなる。造形面から考えると、空気と親和する作品の様態は、熔断した鉄の使用と深く結びついていることが分かる。
 ただし、作品の透明感は、視覚効果だけで達成されるのではない。熔断(そして熔接)から生じる「私の鉄」という素材の在り方が、作品の在り方に深く関与するのである。

 熔断の際、作者は定規やコンパスを使用しない。フリーハンドで描いた「だいたいのかたち」、正確な測定によらない「だいたいの長さ」といった感覚で決定を下す。ここには、事前の規範を鉄で再現しようとする態度は見られない。当初のイメージをおおよそ実現する以上の精度は要求されていない。
 また、熔断面は鋼鈑の面に対して垂直ではなく、斜めにカットされる。それは、手癖のままに切ったと思われるもので、これも、技術力よりも感覚を重視する態度によっている。加えて、通常は取り除かれるバリ(熔けた鉄が流れた痕跡)が残されることも、熔断の際には当然バリが出ることを意味するだけである。制作過程は強調も隠蔽もされず、感覚から派生した事実性が単に示されることになる。
 同様の態度は、熔接に関しても認められる。球形を連続していく《雲谷-Ⅳ》のドローイングは、球同士が一点で接するように描かれる。だが、強度を考慮するなら、そのまま彫刻化する(ドローイングを再現する)ことはできない。そのため、二つのパーツが三点で熔接され、その結果、球の連続はジグザグの軌跡として現れる。彫刻はドローイングを祖述するのではなく、両者は感覚的に対応するのである。
 一般論として、重力に抗して立ち上がる彫刻にとって、垂直-水平軸は作品像の根本に関わる問題である。球同士の接合とはいえ、垂直-水平軸を志向するならば、技術の精度を高めることで軸線の確保は可能となる。しかし、そうしたフォーマルな問題は重視されないのである。
 こうした、熔断・熔接に関する作者の態度は、事前の作品イメージの在り方に対応する。作者は、制作前に簡単なドローイングを描くだけで、模型のような厳密な完成形をもたずに作業を開始する。「形をここがちょっといけないとかって直すのって問題外というか……」(註 2)と言うように、形態は固定的なものとして掴まれるものではない。そのために、作業中の感覚が作品を大きく左右する状況が発生するのである。

 こうした制作手順が可能になるのは、作者のモチーフが気体・液体という可変性を含む状態であることに由来する。それは、固体のモチーフを固体の素材でつくる彫刻の理論構造とは、自ずと異なる展開を導いていく。
 タイトルの《雲谷》は、青森市にある地名に基づく。この作品では、作者自身がこの場所で経験した、靄のかかった大気の厚みが制作のモチーフとなっている。「空気、雰囲気、空気中の水分等、目に見えないけれど確実に存在しているもの」(註 3)が彫刻として提示されるのである。
 ただし、目に見えないものを、彫刻で直接的に提示することはできない。確かに、リングの連なる形状は、水滴の集合を連想させる。それでも、作品の形態が靄の形態に具象的に対応しているのではない。また、靄が抽象的に把握され、モデルとして提示されているのでもない。大気中の微細な水分やその流動を客観的に再現することではなく、モチーフと同じ性質を素材の中に発見することで表現されるのである。
 同様の表現は《雲谷》以外にも見つけられる。例えば、《亀池》(1999年)は、池の中から浮上してきたスッポンと目があった作者自身の経験から、池の中の水に光が差し込む情景へと向かった作品である。
 この作品では、天井近い高い場所に水平に幾つかの円が並べられ、それぞれの円は床上で収斂する直線に支えられる。上空の円形を仰ぎ見る視点の設定は、確かに水面下の世界と共通する。しかし、形態だけであれば、情景の再現は不完全にしかなされない。ここでも、鉄が内包する、水との同質性が引き出されることで実現されるのである。
 重く硬いと考えられる鉄で、靄や水などを表現することは、一見、飛躍した思考のように思われる。しかし、作者はソリッドな鉄の中に半透明で厚みのある世界を見出す。繰り返される熔断・熔接は、そうした鉄の在り方の確認を第一義とするのである。そして、その思考は作業から発見され、獲得されたものでもある。

 バーナーで鉄を切る熔断の作業は、不思議な感覚を引き起こす。手の動きに応じて鉄が切断されていくものの、手はその重さや硬さ(反作用)を感じることはない。この作業から感じられる鉄は、重力をもっていないのである。
 そして、熱が加えられて熔けていく鉄は、非加熱の鉄とは別物のように映る。熔断でも熔接でも、鉄は温度が上がるにつれて、赤色から白色へと変化していく。もちろん、熱が冷めれば直ぐに工業製品の鋼鈑と同じく、黒い酸化皮膜に被われた鉄へと戻ってしまう。それでも、作業を経た鉄は「透明な物体だったと信じることができる」(註 4)ものと認識される。この過程で感じられる、透明な存在としての鉄が「私の鉄」なのである。この鉄はモチーフである光を透過させる靄や水と同質であり、作品空間は機体や液体に包み込まれる作者自身の体験と同質性をもつことになる。
 ここでは、作品空間は作品がつくり出すものとは見なされない。「塊の彫刻は、そこに彫刻があって人はそれを見ている位置にいる気がします。私は彫刻とその空間のなかにいたい気がします。」(註 5)非固体としての彫刻が空間に浸透し、さらに、空間が作者の中へと浸透する関係が形成されるのである。
 このとき、彫刻と彫刻を見る作者とは対立する位置をとらない。作品は対象ではなく、世界を構成する一要素であり、作者も作品もその世界に対して超越した位置に立つことはできない。包み込まれた自己を、外側から見る視点は存在しないのである。それは、作品に対して作者が超越的な位置に立つことで弁証法的過程をつくり出し、フォーマルな質を問うていく彫刻とは決定的に異なる関係を形成する。
 「私の鉄」とは、単に作者の所有物という意味ではない。それは、「私の世界」の基礎となるものであり、「私の世界」が「見る者の世界」と接する(浸透する)ための媒介物となる。物質としての鉄を特別な存在に変換する作業――それが、青木野枝にとっての熔断・熔接の意味である。


註 1 Artist Interview 青木野枝『BT美術手帖』№785 美術出版社 2000年4月
  2 出品作家インタビュー『ねりまの美術 '91』図録 練馬区立美術館 1991年
  3 作者コメント『第20回記念現代日本彫刻展』リーフレット 2003年
  4 作者コメント『並行芸術展の1980年代』美術出版社 1992年(初出1988年)
  5 前掲 1


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