◆秋山陽《Oscillation Ⅵ》145×820×150cm/陶/2001年
2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。
『手法』について/秋山陽《Oscillation Ⅵ》 藤井 匡
作品の制作意図について――よく耳にする言葉であるが、秋山陽のそうした言葉は、分かりにくい。もちろん、それは作者の韜晦していたり、不誠実であったりする態度に由来するものではない。そうした分かりにくいことが作品の成立根拠と密接に結びついているのである。そのため、正確に答えようとするからこそ、明確になっていかない逆説が生じるのである。(註 1)
例えば、人工(制作したもの)と自然(生成したもの)の対比で作品を語るならば、それは分かりやすい。しかし、作者はそのどちらかだけでは嫌だ、と言明する。この「嫌だ」は趣味的・嗜好的な判断ではない。ここでは、実際の制作はこの二分法で説明されるようなものではない、という認識が示されている。秋山陽の作品では、この二分法で語るときに失われるものが問題の中心として扱われているのである。
自らの手を起点にして制作を行うのであれば、100%の人工(作者の領域)も100%の自然(素材の領域)も本当はあり得ない。それを言葉にするならば、どうしてもフィクションになってしまう。言葉による思考と行為の間にはどうしてもズレが生じてしまう。
このズレを押し流していかないこと――それは、素材を他者と位置づけて自らに内面化することなく、緊張した関係をもち続けることを意味する。素材に向かうことは人工/自然といったフィクションを拒絶するために必要であり、同時に拒絶を持続するために素材に向かうことが要求される。
秋山陽《Oscillation Ⅵ》は、地面に横たわる長さ8mを超える陶(やきもの)の作品である。粘土は野外展示に耐えるように1,250度の高温で焼成されることから、表面は強さを獲得し、作品全体は強い一体感をもつ。併せて、表面の亀裂は内側の量が外側に押し出されるように走るため、彫刻としての量塊の強さも与えられる。また、窯の大きさの制約から主に縦方向に10個に分割されているものの、上側の稜線に明確な連続性が示され、全体的な統一感が保持される。こうして、作品は物体としての完結性を強くもつ。
全体を見ると、右半分と左半分は点対称の関係にあり、回転運動のダイナミズムが意識される。一方で、近接して部分を見ると、そこではロクロの回転運動から導かれる円形が基調を成す。作品のサイズが大きいため、部分と全体とを見る視点は切り離されているが、二つの造形性は即応しており、相互にイメージを補完し合う。物体としての完結性は、ここでも補強されるのである。
また、自然の傾斜と呼応する柔らかい起伏からは、地面=土と陶=土との類縁関係が強調される。そのため、地面に置かれた(作者の意志)以上に、地面から生えている(作品そのものの意志)を感じさせることになる。さらに、塩水と鉄粉との混合液が表面に塗布され、それが酸化によって黒褐色をもたらすことが、自然物との距離を近づける。そして、表面的には手の痕跡が一切消去されることが、作品を自然へと決定的に引き寄せる。
こうした作品の完結性と自然なるものの喚起からは、作者に従属するのではない、自律した作品像が導かれる。しかし、その創出が第一義とされるならば、作品は作者という主体性に帰属する存在でしかない。それは相手を完全に制御できるという認識に基づくものであり、「表現に見えない」表現に過ぎないものである。
最終的には作品の表面から手の痕跡が消されるとしても、作品は作者の手を通して以降のものである。そうであれば、巨大であるとしても両者の関係は掌の大きさとして成立する。仮に、掌の大きさに留まるのならば、作品は作者に従属することを逃れられない。《Oscillation Ⅵ》の物体としての完結性や作品サイズは、作者-作品のヒエラルキーを解体するためにこそ必要とされるのである。
部分と全体、あるいは人工と自然といった概念は完成形態において矛盾しながら両立する。それは、制作過程で作者が両極を往還した軌跡なのである。作品を成立させる主体は作者と素材との関係であり、自律的な物体や自律的な表現の志向とは全く趣を異にする。
《Oscillation Ⅵ》を詳細に見ていくと、①帯状の土を集積させて円筒形とした部分、②ロクロで成形した円筒形を反転させた部分、③未乾燥の土をバーナーで焙って収縮を生じさせた部分、と主に三つの技法が使用されている。
①の場合、作者はロクロを回転させながら、内側へ内側へと順次粘土を追加していく。そうすると、遠心力によって前の土は後の土に次々と押し出されていく。これを外側から見ると、土が帯状に集積されたような形態と粘土の柔らかい表情が出現する。ここでの形態や質感は土の性質に応じたものでしかないのだが、単なる素材への従属ではない。外形(最終形態の表面)的には手こそ介入しないが、作者はそうした土の表情が現れることを予測し、内側から手を加える作業を行っている。
もちろん、この方法では最終的な形態や質感までは統制できず、どうしても「なるようにしかならない」ものとなる。だが、その上で作者は、粘土を精製する際に粘性を計算し、成形の際に加える量や力の入れ具合、ロクロの回転速度に気を配る。こうした表現は「なるようにしなならない」現実に流されるのではなく、その場で踏み留まり、自らの存在を土に対峙させることによって可能となる。
②は、ロクロで成形した円筒形を縦方向に引き裂き、元々の内と外とを反転させたものである。ここでは、直接的に腕力に頼るため、作者と土との関係は①よりも作者側へと引き寄せられる。また、元々の内側(最終形態の表面)に手跡が残るため、その消去が櫛歯を使って行われる。その水平方向の平行線は見る者の視線を左右に引っ張り、切断面となった元々の土の内部――統制不可能な領域――を明瞭に提示する。手を消す行為から、素材と同一化しようとする自己が一層強く突き放されるのである。
③は、形態ではなく表面の質感のみに関与する作業であり、現象としての土の表情が直接的であるため、作者の手はより後退して見える。しかし、このときに手はバーナーをもち、素材から一定距離を保ちながら関わる。複数の手順が必要な①や②に較べれば、物質と作者の距離は最も近い。そして、この両義性を深化させていくことが、作者の土との関係の起点にある。実際、作者の個人史の中では③→②→①の順に獲得された方法である。この順に、土と関わりながら、同時に自身を土から切り離す距離が大きくなっているのである。
こうした作者の方法は、どれも独自に見いだされたものである。しかし、独自的であれば内容に関わらず何でも用いる、という恣意的な意識はない。効果としての面白さではなく、作者の手と土との関係を前景化できる方法だけが使用される。現象としての土の表情に対し、〈それを自分がどう解釈し、どう関わっていくかが問題となる〉(註 2)のである。ここでの〈自分〉は単なる主体――作品=客体はその延長として存在する――ではなく、土と関わる行為からのみ見いだされる。作者は、土に対峙することによってのみ作者となるのである。
これらの方法は作者の思考の結果であり、思考を生みだす原因として方法があるのではない。原因は、一般に流通している陶芸のイメージを還元的に問い、それを解体していく態度にある。〈やきものという文脈の中で何かを表現しようとしていた〉(註 3)思考をリセットしたことが出発点なのである。秋山陽が自身の仕事を「陶芸」と呼ばず、土を焼いて強度をもたせた物体の意味で「やきもの」と呼ぶのは、この態度の反映だと考えられる。
やきものでは、土の精製-成形-乾燥-焼成という省略も交換も利かない複雑な手順を経る。仮に、成形までが十全に作者の志向に沿うものであったとしても、乾燥の際の収縮や焼成の際の変化によって、十全な作品像はほどんどの場合で打ち消されてしまう。それゆえ、やきものは通常、自然として人間を超越した存在と見なされることが多い。
しかし、そうした変成は偶然の産物ではなく、物理的変化と化学的変化によって説明可能な問題である。ただ、粘土の構成物質や水分、気温や湿度、焼成の温度や時間と、考えるべき問題が限りなく存在するために、制作の場でその全てを制御することが不可能であるに過ぎない。この認識を徹底し、土そのものをできる限り明らかにしようとする態度によって、土ははじめて自身に対抗し得る対象として現れる。
秋山陽のスタンスは、人工/自然のどちらか一方に思考を預けるものではない。同時に、両者の中間という、折衷点に立つのでもない。こうした矛盾を自らのものとして引き受け、両者の間を飛躍し続けることが作者にとっての制作なのである。ここでは、行為を離れた思考はあり得ない。これを根拠に可能となる思考こそが『手法』と呼ばれる。
註 1 この考察には下記がヒントとなっている。
柄谷行人「中野重治と転向」『ヒューモアとしての唯物論』講談社学術文庫
1999年(初出 1988年)
2 インタビュー「呼吸する地の襞-秋山陽」『陶芸を学ぶ』角川書店 2000年
3 前掲 2
2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。
『手法』について/秋山陽《Oscillation Ⅵ》 藤井 匡
作品の制作意図について――よく耳にする言葉であるが、秋山陽のそうした言葉は、分かりにくい。もちろん、それは作者の韜晦していたり、不誠実であったりする態度に由来するものではない。そうした分かりにくいことが作品の成立根拠と密接に結びついているのである。そのため、正確に答えようとするからこそ、明確になっていかない逆説が生じるのである。(註 1)
例えば、人工(制作したもの)と自然(生成したもの)の対比で作品を語るならば、それは分かりやすい。しかし、作者はそのどちらかだけでは嫌だ、と言明する。この「嫌だ」は趣味的・嗜好的な判断ではない。ここでは、実際の制作はこの二分法で説明されるようなものではない、という認識が示されている。秋山陽の作品では、この二分法で語るときに失われるものが問題の中心として扱われているのである。
自らの手を起点にして制作を行うのであれば、100%の人工(作者の領域)も100%の自然(素材の領域)も本当はあり得ない。それを言葉にするならば、どうしてもフィクションになってしまう。言葉による思考と行為の間にはどうしてもズレが生じてしまう。
このズレを押し流していかないこと――それは、素材を他者と位置づけて自らに内面化することなく、緊張した関係をもち続けることを意味する。素材に向かうことは人工/自然といったフィクションを拒絶するために必要であり、同時に拒絶を持続するために素材に向かうことが要求される。
秋山陽《Oscillation Ⅵ》は、地面に横たわる長さ8mを超える陶(やきもの)の作品である。粘土は野外展示に耐えるように1,250度の高温で焼成されることから、表面は強さを獲得し、作品全体は強い一体感をもつ。併せて、表面の亀裂は内側の量が外側に押し出されるように走るため、彫刻としての量塊の強さも与えられる。また、窯の大きさの制約から主に縦方向に10個に分割されているものの、上側の稜線に明確な連続性が示され、全体的な統一感が保持される。こうして、作品は物体としての完結性を強くもつ。
全体を見ると、右半分と左半分は点対称の関係にあり、回転運動のダイナミズムが意識される。一方で、近接して部分を見ると、そこではロクロの回転運動から導かれる円形が基調を成す。作品のサイズが大きいため、部分と全体とを見る視点は切り離されているが、二つの造形性は即応しており、相互にイメージを補完し合う。物体としての完結性は、ここでも補強されるのである。
また、自然の傾斜と呼応する柔らかい起伏からは、地面=土と陶=土との類縁関係が強調される。そのため、地面に置かれた(作者の意志)以上に、地面から生えている(作品そのものの意志)を感じさせることになる。さらに、塩水と鉄粉との混合液が表面に塗布され、それが酸化によって黒褐色をもたらすことが、自然物との距離を近づける。そして、表面的には手の痕跡が一切消去されることが、作品を自然へと決定的に引き寄せる。
こうした作品の完結性と自然なるものの喚起からは、作者に従属するのではない、自律した作品像が導かれる。しかし、その創出が第一義とされるならば、作品は作者という主体性に帰属する存在でしかない。それは相手を完全に制御できるという認識に基づくものであり、「表現に見えない」表現に過ぎないものである。
最終的には作品の表面から手の痕跡が消されるとしても、作品は作者の手を通して以降のものである。そうであれば、巨大であるとしても両者の関係は掌の大きさとして成立する。仮に、掌の大きさに留まるのならば、作品は作者に従属することを逃れられない。《Oscillation Ⅵ》の物体としての完結性や作品サイズは、作者-作品のヒエラルキーを解体するためにこそ必要とされるのである。
部分と全体、あるいは人工と自然といった概念は完成形態において矛盾しながら両立する。それは、制作過程で作者が両極を往還した軌跡なのである。作品を成立させる主体は作者と素材との関係であり、自律的な物体や自律的な表現の志向とは全く趣を異にする。
《Oscillation Ⅵ》を詳細に見ていくと、①帯状の土を集積させて円筒形とした部分、②ロクロで成形した円筒形を反転させた部分、③未乾燥の土をバーナーで焙って収縮を生じさせた部分、と主に三つの技法が使用されている。
①の場合、作者はロクロを回転させながら、内側へ内側へと順次粘土を追加していく。そうすると、遠心力によって前の土は後の土に次々と押し出されていく。これを外側から見ると、土が帯状に集積されたような形態と粘土の柔らかい表情が出現する。ここでの形態や質感は土の性質に応じたものでしかないのだが、単なる素材への従属ではない。外形(最終形態の表面)的には手こそ介入しないが、作者はそうした土の表情が現れることを予測し、内側から手を加える作業を行っている。
もちろん、この方法では最終的な形態や質感までは統制できず、どうしても「なるようにしかならない」ものとなる。だが、その上で作者は、粘土を精製する際に粘性を計算し、成形の際に加える量や力の入れ具合、ロクロの回転速度に気を配る。こうした表現は「なるようにしなならない」現実に流されるのではなく、その場で踏み留まり、自らの存在を土に対峙させることによって可能となる。
②は、ロクロで成形した円筒形を縦方向に引き裂き、元々の内と外とを反転させたものである。ここでは、直接的に腕力に頼るため、作者と土との関係は①よりも作者側へと引き寄せられる。また、元々の内側(最終形態の表面)に手跡が残るため、その消去が櫛歯を使って行われる。その水平方向の平行線は見る者の視線を左右に引っ張り、切断面となった元々の土の内部――統制不可能な領域――を明瞭に提示する。手を消す行為から、素材と同一化しようとする自己が一層強く突き放されるのである。
③は、形態ではなく表面の質感のみに関与する作業であり、現象としての土の表情が直接的であるため、作者の手はより後退して見える。しかし、このときに手はバーナーをもち、素材から一定距離を保ちながら関わる。複数の手順が必要な①や②に較べれば、物質と作者の距離は最も近い。そして、この両義性を深化させていくことが、作者の土との関係の起点にある。実際、作者の個人史の中では③→②→①の順に獲得された方法である。この順に、土と関わりながら、同時に自身を土から切り離す距離が大きくなっているのである。
こうした作者の方法は、どれも独自に見いだされたものである。しかし、独自的であれば内容に関わらず何でも用いる、という恣意的な意識はない。効果としての面白さではなく、作者の手と土との関係を前景化できる方法だけが使用される。現象としての土の表情に対し、〈それを自分がどう解釈し、どう関わっていくかが問題となる〉(註 2)のである。ここでの〈自分〉は単なる主体――作品=客体はその延長として存在する――ではなく、土と関わる行為からのみ見いだされる。作者は、土に対峙することによってのみ作者となるのである。
これらの方法は作者の思考の結果であり、思考を生みだす原因として方法があるのではない。原因は、一般に流通している陶芸のイメージを還元的に問い、それを解体していく態度にある。〈やきものという文脈の中で何かを表現しようとしていた〉(註 3)思考をリセットしたことが出発点なのである。秋山陽が自身の仕事を「陶芸」と呼ばず、土を焼いて強度をもたせた物体の意味で「やきもの」と呼ぶのは、この態度の反映だと考えられる。
やきものでは、土の精製-成形-乾燥-焼成という省略も交換も利かない複雑な手順を経る。仮に、成形までが十全に作者の志向に沿うものであったとしても、乾燥の際の収縮や焼成の際の変化によって、十全な作品像はほどんどの場合で打ち消されてしまう。それゆえ、やきものは通常、自然として人間を超越した存在と見なされることが多い。
しかし、そうした変成は偶然の産物ではなく、物理的変化と化学的変化によって説明可能な問題である。ただ、粘土の構成物質や水分、気温や湿度、焼成の温度や時間と、考えるべき問題が限りなく存在するために、制作の場でその全てを制御することが不可能であるに過ぎない。この認識を徹底し、土そのものをできる限り明らかにしようとする態度によって、土ははじめて自身に対抗し得る対象として現れる。
秋山陽のスタンスは、人工/自然のどちらか一方に思考を預けるものではない。同時に、両者の中間という、折衷点に立つのでもない。こうした矛盾を自らのものとして引き受け、両者の間を飛躍し続けることが作者にとっての制作なのである。ここでは、行為を離れた思考はあり得ない。これを根拠に可能となる思考こそが『手法』と呼ばれる。
註 1 この考察には下記がヒントとなっている。
柄谷行人「中野重治と転向」『ヒューモアとしての唯物論』講談社学術文庫
1999年(初出 1988年)
2 インタビュー「呼吸する地の襞-秋山陽」『陶芸を学ぶ』角川書店 2000年
3 前掲 2