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「紙の里・西ノ内-菊池正気氏を訪ねて」七海善久

2016-05-19 09:57:20 | 七海善久


◆紙のさと工場
◆菊池氏自宅谷川の楮畑

◆楮

◆紙を漉く菊池正気氏

◆漉いた紙を紙床にうつす

◆菊池氏作品



1998年8月1日発行のART&CRAFT FORUM 11号に掲載した記事を改めて下記します。

 茨城県水戸市よりやや北に位置する那珂郡山方町。国道118号線が、いなかの一本道のように南北に抜けている。添うように東側は久慈川が流れ、西側は山が迫る山裾に民家や店舗ポツンポツンと建ち並ぶ。そんな道からほんの100メートル程山側に入った所に菊池正気氏は和紙工場を構える。

 工場を訪れると、真剣な表情で黙々と槽に向かい簀桁を揺らす菊池親方の姿が見られる。私は恐る恐る挨拶をすると、その突然の訪問者にさほど驚いたふうも無く「お、いらっしゃい。」と簀を紙床に伏せ、手を休めてしばらくとりとめもない話に付き合ってくれるのだった。

 親方の漉く西ノ内紙の起源は西暦700年代とも900年代とも言われ、定かでない。しかし産地の多くがそうであるように、仏教布教の写経事業によりその需要が増していったのは確かなようである。そして、なにより山方町西野内には当時多くの楮が自生し、良質な水を入手できたことが、山間の村落に紙漉きを定着させた所以であろうと思われる。

 因みに西ノ内紙の名は、水戸光圀公にその紙質を高く評価され産地の名から付けられたとされている。その特徴は那須の楮の繊維だけを使う生漉きであることから、南の紙には無いしなやかさと強靭さを合わせ持っていること。故に書画用に留まらず傘や合羽にも用いられた。

 そんな西ノ内紙も戦後、コストの安い洋紙や、ナイロンシートの傘が出回るようになると苦戦を強いられるようになる。結果的に西ノ内紙を作る職人に独自の道を歩ませることになった。

「西ノ内はね、もともと栃木の鳥山の問屋の下請けだったの。」

和紙産地の流通は今でも問屋が握っている所が多い。それは紙の納品、販売のみならず、原料の楮の仕入れから関わっているのである。

「でもここは先ず問屋がバタバタといっちゃったから、楮は自分で確保しなくちゃなんない。漉いた紙も自分で売んなくちゃなんないってんで店だしてんの。」

しかし前述の通り、和紙が売れなくなったから、問屋さんが無くなった。当然、店を出したからといって売れるものではない。

「だから困ったよ。俺は紙漉きだし、何か他と違うことったって何も思いつかねえし(笑) ビニール和紙や、改良和紙なんてのもやったよ。でまた売れねえんだこれが。」

して現代の和紙の在り方を模索する「紙創り」としての顔。

「今こんなの店に出してんの。」と黒ずんだ歪んだ楕円と台形の紙を見せてくれた。「溜め漉きした紙に漆塗ったんだけどさ、日本人には全然売れねんだ。皆外人が買ってくの。勾玉だって。こっちが管玉(笑)」

親方の創作的な紙は「四角形であることの否定」から始まったように見受けられる。そして創るものは(当たり前だが)常に紙である。作品そのものが誇らしげに自分が紙であることを主張している感じを受けるのである。新しく、さりげなく、懐かしい。

「べつに新しいこたねえよ。すげえのは昔の人の知恵。俺はそれを見直しているだけ。地球に優しいとか考える前に、そもそも地球に優しいの。ほんと今こそ温厚知新カムバックょ(笑)」

「でも俺はそもそも紙漉きだからぁこれは遊び。」と言う親方の販売を兼ねた個展が今年の六月、秋田で行われた。盛況のうちに終了したようだ。詳しい模様を知りたかったので、その時の関係資料を尋ねたところ完売して何一つ残っていないとの返事。個展を開いてその記録を何も残さない人が居るだろうか? しかしこれが本当に無い。私は少々釈然としない気持が残ったが,今にして思えば、紙は買ってもらって、そして使ってもらってこそという親方の職人としてのこだわりとこだわらなさを象徴するような話ではあった。


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