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「産地の力」 絞りの里有松/竹田耕三と早川嘉英

2010-11-23 17:11:09 | 三宅哲雄

産地のカ  絞りの里・有松/竹田耕三と早川嘉英の活動 


 ART&CRAFT vol.9  19971025日 発行 


知多半島のつけねに位置する有松町は「絞りの里」として360余年の歴史を持つ。名古屋鉄道の有松駅を南に折れ旧東海道に出ると江戸時代の絞問屋のたたずまいを今にも残す居屋敷が立ち並び往時の姿を彿彿させる。


近年、炭鉱や鉄鋼の町として日本の繁栄を築いてきた企業城下町が数十年という短い命で滅びていく中で戦争や火災など幾多の困難を乗り越えながらも町並みを大きく変えることもなく生き続ける有松の力とはいかなるものなのだろうか ?


公的支援 


  有松の開村は尾張藩の施策で東海道の整備改修事業の一環として鳴海宿と桶狭間の中間地点に村落を設ける計画により慶長13(1608)移住をもとめる布告が発せられ、移住者には不役の免除を移住地は免租地とする特典を与えた。この布告に答えるように最初に移住したのは知多郡英比の庄緒川村の村長の娘を嫁に迎えた竹田庄九郎以下8名であったが、緒川村の村長が人選して派遣したといわれている。このように有松は公的主導で生れ、竹田庄九郎による九九利染の創案、三浦絞などの新技法の導入、絞商・紺屋・絞括り職人に分業するなど絞業としての基盤を構築し、尾張藩より絞染に対する独占的製造販売権を獲得して有松絞の全盛期となる。天明4(1784)大火災が発生し全村が焼失するが竹田藤兵衛直光(庄九郎家の六代当主)が代官所に窮状をうったえ、援助の要請をすると相当の資材官金が交付され、5年後には豪壮な商家がたちならび絞業は復興した。絞会所の設置、株仲間の確立などにより絞商は安定した専売事業として明治維新迄続くが明治4年の廃藩置県を契機に株仲間の制限の緩和などでより新しい時代の商法を取り入れた組織が誕生した。その第1号が竹田嘉平商店である。以降、公的擁護から自立した産業として幾多の困難を乗り越えながら今日迄歩むのである。


近代化と伝統の技

「絞りJは布を防染して模様をだす技法で3000年の歴史があるといわれている。わが国でも古代より行われ、法隆寺や正倉院に現存する屏風や衣服などでは纐纈と呼ばれ用いられていた。以後、室町から桃山時代には辻が花、江戸時代には鹿子絞として全盛期を迎え今日に至るまで数多くの技法が生み出されている。しかし、嵐絞を除けば全ての技法は手工芸として今日にまで継承されており、今、再び存続の危機が叫ばれている。


伝統工芸品の多くは一人の人間の積み上げられた技の結晶である。この生産システムの改革は有松に於いては正保から慶安年間(16441650)に前記したように絞商、紺屋、絞括り職人の分業が成立し、それぞれの職をわきまえ、商いや技術の向上に努力し、生産量を向上させ、商いにおける独占的販売権を獲得する。一方、与えられた仕事をただこなすという下職のシステムでなく、職人の創意工夫を啓発する制度を生み出し、その結果として幾多の新技法が開発された。その中でも特質すべきことは明治9(1876)鈴木金蔵が機械応用の新筋絞(のちの嵐絞)を発明したことで、当時、一人一日一反が限度の生産量を新筋絞では二人で一日二十反を仕上げることができ飛躍的に生産量は拡大した。だが、新筋絞は一夜にして完成したのでなく、嘉永6(1853)に発明した養老影絞を鈴木金蔵は23年かけて工夫改善した結果生まれたものである。又、明治12(1879)には竹田林二郎、鈴木金蔵、阿知葉助九郎などの同志が中心となって「新製社」を組織し、優れたデザインの多様な絞製品を絞屋に提供すると共に機械・器具を使用して量産することで価格を抑え需要に答えるように努力し、その技法等は地域の同業者に公開するなど今日でいう試験場のような機能を私的組織として生み出した。こうした新技法、新意匠の開発意欲は製造特許・意匠登録によって権利の侵害・濫用から保護され、江戸時代の独占権にかわり明治30年以降は特許・意匠の専有権を獲得し、今日の絞産地としての地位を確立した。以後、大正、昭和に於いては日清。日露。第1次・第2次世界大戦、関東大震災などの影響を受け衰退・復興の大きなうねりを幾度となく経験するなかで、協同組合の設立や化学染料の導入、輸出の振興、受請加工の推進、綿製品に加え絹製品の生産による販売金額の増大、編地への絞加工など絞商品の拡大に努めた。その一方、絞り技法は百数十種類と発明されたが、そのほとんどが手工芸的技法であるがため、この伝統ある技術の保存育成に昭和39年財団法人有松絞技術保存振興会を設立した。このように有松は近代化と伝統の技の保存という両輪を360余年にわたり営々と築き上げてきた文化であるがゆえに受け継がれることはあっても失うことはないであろう。


竹田耕三と早川嘉英

199211月に第1回国際絞り会議が有松を中心に名古屋・鳴海で開催され、世界20ケ国から476人が参加し、絞が日本だけのものでなく民族、国家を越えて世界共通の文化であることを確認した。又、199510月~11月にかけてアメリカ・ミシガン州オークライド大学ギャラリーにて「有松絞展Jが開催され、有松絞の全容が初めてアメリカで公開された。さらに、19961231日から今年1 4日迄インド・アーメダバードの国立デザイン大学で第2回国際絞り会議が開催され、世界20ケ国から436名が参加した。これらの会議や作品展の開催に尽力したのが竹田耕三で、彼は多くの友人と共に「有松の絞り」いや「日本の絞り」を「世界の絞り」に育て上げる文化活動に情熱をそそいでいる。 1992年の第一回国際絞り会議の成果としてワールド絞リネットワーク(略称WSN)が組織され、早川嘉英は事務局長として竹田耕三や数名の役員と共に第二回絞り会議や作品展を企画し実現させてきた。一方、国内では「シボリ・コミュニティJの活動がある。東京、名古屋、京都、広島に主体的な教室が設立され、各教室共毎月一回であるが早川嘉英は作品制作の傍ら、これらの街々を飛び回り、絞りの啓蒙活動に尽力している。


1984年、「早川嘉英SIBORIJがギャラリー・スペース21(東京)で開催された。一般的に「絞り」は布をしばる、縫う、畳むという防染技法を用いて紋様を表わしすものと理解されていたが、「SIBORI展」に出品された作品は染色されない布や紙で、おそらく当時の観賞者の多くは「これが絞りか?」という思いが強かったに違いない。早川は現在「染織&」に “新時代の絞り染技法-応用篇-"を連載中で、そこで早川が伝えたい事は形状を作り、これを絞りという防染方法で残して、そのほかの部分を染める、すなわち形を痕跡としてとらえること、すなわちシェイプド・レジスト・ダイという概念であろう。この考え方は名古屋で開かれた第一回国際絞り会議で確認された今日的概念であるが、早川は12年前にすでに形状を固定させる技法として絞りを用いた作品を発表していたのである。形状を固定し、痕跡を顕著に表わすのに染色は重要な表現手法であるが、早川はなにがなんでも染色しなければならないとは考えていない。むしろ絞る行為が生み出すシワによる表現で、布を絞る着物や服地などの衣服としての用途に止まらず紙や土そして鉄なども含めた多様な素材をも視野にいれた作品づくりに挑戦している。


竹田耕三は作品を制作し続けながら産地における「だんな」の仕事、「だんな」でなければ出来ない仕事に情熱を傾け、早川嘉英は作家としての仕事と次の時代を見据えた技術の開発そして教育を通して人材の育成に努力している。この二人の活動は明治時代の竹田林二郎と鈴木金蔵に重なり、120余年の時を経ても自然に受け継がれて行く人的エネルギーこそが「産地の力」だと実感した。

  三宅哲雄

参考資料

『有松しばり』()有松絞技術保存振興会

『染織 α』染織と生活社

アメリカ。オークランド大学『ARIMATSU SHIBORI』図録.. 



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