◆写真6 修理後のダブルフライヤー手紡機 ◆写真7 亜麻を紡ぐ女性
2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。
「近代化という落し穴」 三宅哲雄
2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。
「近代化という落し穴」 三宅哲雄
早いもので当研究所を目黒区碑文谷に設立して28年になります。開設初年度(1981年)には長野県白樺湖畔に蓼科工房を設立し自然の中だから可能な講座を夏期に開講しました。別荘として利用していた時は周辺との交流は全くと言っていいほどありませんでしたが宿泊型研修施設にしてから近隣の人々や施設との繋がりが除々に生まれる中で障害者授産施設「山の子学園」との交流も始まりました。
学園スタップの案内で白樺湖から大門街道を下り砂利道の林道に入ると左右には個人別荘や学校寮が点在し、その道の突き当たりが山の子学園、車を降りると園生が「こんにちは!」「いらっしゃい!」とにこやかな顔で迎えてくれたにもかかわらず私は変にかまえて応対できなかったことを思い出しました。私はこの日まで多くはないものの数ヶ所の障害者施設を訪問したことがありましたが、ほとんどの施設の第一印象は全体的に暗く、園生も外部の人々への警戒心なのか挨拶をしても返事はなく怖い顔で見られたのに比べて山の子学園の園生はなんて明るいんだという思いを持ちながら施設の中を園長先生の案内で畜産や陶芸など多くの授産事業を見学することで園長先生の夢と生涯の生活の場として生きる多くの園生のつながりの温かさと深さがこの園の空気の心地よさを形成しているのだと園生からいただいた絞りたての牛乳を飲みながら感じました。ただ授産事業の中でこの環境でなくても出来る屋内の単純作業には違和感を感じ「せっかくこのような自然の中に施設はあるのに、その利点を生かしていないのでないか」といつもの苦言を呈すると園長先生が「何かアイディアはありますか?」と問われ「園の回りは全て植物ばかり、これを利用しない手はない。草木染をしたらいかがですか」と答えたことが以後5年程続く原毛の草木染です。
いたどり、よもぎ、小梨、くるみ、くり、山桜、すすき、刈安、茜、など施設周辺で採集した植物の他にコチニールやインド藍も加わり年間数十キロの染色原毛が毎年届くようになり研究所の倉庫は染色原毛の在庫で埋もれました。このままではいけない、何とか原毛を有効に消化しなければとの思いから一つの方策として草木染手紡糸の販売と手紡糸を使った手編み・手織りのマフラー・ショールの制作でした。手紡糸の制作コストの軽減のため糸の制作は私がすることになり毎日毎日電動手紡機で一日一キロを目標に糸を紡ぎました。当り前のことながら同一姿勢で座ったままの作業は身体にはいいはずがなく五年は続けたでしょうか結果として椎間板ヘルニヤになり歩くことも出来ない状況になって原毛の染色を断ると共に手紡糸の制作も中止しました。
◆ダブルフライヤー手紡機
草木染の原毛は以後少しづつながら現在も使用していますがほとんどは布団圧縮袋に固く圧縮された常態で倉庫の片隅に積まれています。研究所も振り返れば夢と現実の中での悪戦苦闘の日々を送ってきましたが数年前より無理をせずに静かに前に向かって歩んでいく方針に転換してから私は糸を紡ぐことを再開しました。最初は慣れ親しんでいた電動手紡機で紡いでいたが何故か違和感をおぼえ上野勝夫氏に修理していただいた300年前のイギリス製Two-Flyer Spinning wheel(ダブルフライヤー手紡機)を使うことにした。この手紡機は研究所の卒業生から譲り受けた二台の内の一台で当初はDriving wheel(輪)などが虫食いで完全に欠落していたのを上野さんが修理用道具の製作から始めて数年をかけ修繕し、使用可能な状態で現存する貴重な手紡機です。(写真4.5.6)
◆写真4 修理前の手紡機◆写真5 修理後の手紡機
産業革命前の1681年にThomas Firminによって公表された写真によると女性が亜麻(リネン)を両手で紡いでいる姿が描かれています。(写真7) 産業革命と後世に呼ばれている時代(1760~1830)以前は機械ではなく道具を使った手仕事で繊維品も生産されていましたが織るスピードは糸を紡ぐスピードよりはるかに速いことから糸の供給が追いつかず糸の量産と効率を求める傾向が強まりダブルフライヤー手紡機が開発されたと推察します。この種の手紡機はイギリスにとどまる事もなくフランスでは1750年代、スウェーデンでは1760年代、ドイツとオーストリアでは1780年代に使われていたという記述があります。
1700年代にゆっくりとそして静かに胎動しはじめた量産と効率化の動きは綿紡績機の発明により加速されいわゆる産業革命という時代を生み出しながら量産と効率に均一や収益を加えわずか300年で全世界に浸透することになりました。私たちが生きている日本も戦後63年になり平成生まれの子供も成人を迎える時代です。焦土と化した時代そして高度経済成長、バブル、このわずか63年で物は溢れるように生産されると共に半導体の発明によりアナログからデジタルの時代への転換をもたらし一層均一化の道を歩むことになりました。パソコンや携帯電話はもとより家電製品、自動車等々私たちの生活を取りまく物のほとんどにコンピュターは内蔵され最も無縁と思われている野菜などの農産物も都会のビルの一室でコンピュターに制御された人工照明と肥料により栽培される時代になりました。このスピードで近代化という道を突き進むならば地球上に人の介しない自然を見つける事が困難な時代になることも現実味を帯びてきました。
確かに物質的豊かさや便利さを否定は出来ません、だが貧困に苦しむ途上国ではなく先進国といわれる国々で生活している人々が豊かさや楽しさを実感しているのでしょうか。政治や宗教の諸問題を根底に抱えてこなかった私たち日本人でも得てきた豊かさに比べて失ってきた豊かさの大切さを感じることが日々の生活の中で日増しに膨らんでくる思いがします。道を歩いていても、電車に乗っていても、又は車を運転していても、多くの人々が集う都会生活で私の目には疲れている、イライラしている、という表情と行動をする多くの人々と出会うことが日常になっています。均一化された物と情報そして経済第一主義の社会の中で一つとして同じ個体(人間)でない生物がどう折り合いをつけて生き続けることが出来るのかが問われています。電動手紡機に違和感を感じ300年前の手紡機で糸を紡ぐ時は落ち着いて静かな気持ちになるのは私が老いてきたからだけでは解決しない生物としての自然な反応であるように思えます。
量産と効率そして均一と収益を追求してきた社会が成し遂げたものばかりに注目するのでなく、切り捨てたり失ってきた文化や身のまわりの生物に改めて眼差しを向ける事で見えてくるものがあるのでないでしょうか。
◆染色と油
先日、当研究所の元スタップから大量のグリージーウール(刈り取ったままの羊毛)をいただいた。無駄に使うのではなく有効に使わせていただきますとの約束もあり授業用教材として使用する他に研究用素材として使うことにした。
通常ウールに限らず絹や綿そして麻でも染色をする場合は精錬をして油や汚れを落としてから染めることは常識で精錬は教科書やその他専門書には当り前のこととして記されているが私は以前インドネシアの絣(イカット)の茜の染色方法で染色前に植物油(クミリ)に糸を浸してから染めるという話とメキシコの貝紫染においては染色前に牛油(セボ・デ・バカ)の石鹸でよく洗い、乾かしてから染めると聞いている。いずれも染色前に油に浸したり、油の石鹸で洗わなくても染色は出来るがきれいな色に染める伝統的な染色方法として伝承されてきたという。たしかに手染めによる綿の染色は現代の化学染料を使用しても白ずみが出やすく鮮やかに染めるのは難しいとされ日本に限らず綿織物に永年従事してきた世界の人々の創意工夫が地域ごとに伺われる。
◆写真2 グリージーウールの草木染
◆写真8 グリージーウールの草木染
◆写真9 グリージーウール.洗毛、未洗毛の比較
綿の染色で油をわざわざ付けて染色する伝統的な知恵があるならば他の繊維の場合はどうなのか?という疑問がわき当研究所で草木染の指導をしている上野八重子さんにグリージーウールを染めていただいたが現物を見る限り精錬をして染色した場合と遜色がないように見える。(写真2.8.9) では「水と油」ではなく「染と油」は決して一緒になるものでないという常識はどこから生まれたのであろうか。同じ天然繊維でもその組成と性質が異なることから精錬の意味と方法も異なる。ただ自分達の身のまわりの素材を用いて自分達の生活に役立つ物を作っていた時代からお金のために商品を作る、そして機械化によって大量に均一の物を作る時代に移行していく流れの中でおのずと染色にとって邪魔な油や汚れを除去してから染める染色方法が確立したと推察される。企業が量産品を生産する場合に求められる品質を異なった環境や風土、生活習慣、文化の中から生み出される少量生産の品々にまで同様に求める風潮が物の画一化に留まるだけでなく多様な文化を駆逐してきた道筋であったような気がする。現在私たちが個人で作るその素材や制作手法まで量産品の手法をただ盲目的に学ぶだけでなく多様な人類の英知にいま一度目を向けることがあってもいいのでないか。
◆フェルト化しない羊毛、接着する絹
セーターは洗濯機では洗ってはいけないと教えられている。羊毛は熱と湿度と力を加え縮み絡めることで固まるという性質を持っているので、この特性を利用して人は過去から現在に至るまで服地や敷物を作り、今日では多様なフェルト製品や作品が身のまわりに見られるようになったが羊は日本で飼育されるようになって日の浅い動物なので生き物としての存在より冬期衣類素材として馴染みがある。たとえ自然素材であっても加工され製品になった状態で知っていることが元来その素材が持っている特性を知っているとは限らない。ムートンは毛皮、糸やフェルトは羊毛、これらは別物として人の役に立っているが素を糺せば羊に帰結するにもかかわらずムートンは他の動物と一様に毛皮の範疇を越えることはなく使用され、毛糸もアルパカやモヘアーそして絹などの動物繊維だけでなく植物繊維の綿や麻などと同じ糸という括りで何の疑いも無く日常生活の中に浸透している。天然繊維を越えることを目標にして生産されている均一な人造繊維は別として動物にしろ植物であっても生物である限り同一のものはなく、その種や個体個体に他とは異なる性質や表情そしてかたちを持っている。
先日、北海道の牧場に無理をいってムートンに加工する前の生毛皮を送っていただいた。羊、ムートン、羊毛、毛糸などは知っているが頭、耳、足だと誰でも窺える生々しい毛皮に触れ毛皮を表面から見るだけでなく内側から観察することで知っていると思っていた毛皮や羊毛の特性は表面的であったと思った。当り前のことながら羊毛は羊皮から生えている。この状態でフェルト化の作業をすると羊毛はフェルトになるのであろうか?という疑問が生じ、早速実験をしていただいたが少し毛が絡む程度で固くはならなかった。「羊毛は全てフェルト化する」という常識は覆され条件次第ではフェルト化しないこともあるのだ。(写真10)
◆写真10 フェルト化した毛(黒)、しない毛(白)
日本人にとって馴染みの薄い羊と異なり寒冷地を除く日本の中山間地では養蚕が盛んで蚕が桑の葉を食むシャカシャカという音が屋根裏から聞こえた体験や絹糸を座繰りで上げる姿を垣間見ることは日常であったという話を聞くように最近迄養蚕業は国によって管理され均一な絹糸を製糸するために改良を重ねた幼蚕を農家に委託して繭を生産するという制度が永年にわたり続けられてきた。絹は毛とは異なり蚕が600mから1500mに及ぶ一本の糸で繭を作る動物の習性を利用して生まれたものだが、その用途が着物に偏重した歴史の中で細くて、艶があり、柔らかい糸を安定して大量に生産する工夫だけが営々と続けられてきたことが衣服の多様化と輸出入の自由化の波で姿を消そうとしている。
昨秋、桑だけで飼った生繭を入手することが出来たので早速座繰りで糸に上げると乾繭とは異なり滑らかに糸が解除された。同じ繭でも蛹が生きているのと死んでいる場合や生皮苧(きびそ)と生糸の差など市販の生糸や絹紡糸だけを使用していては知りえなかったことが見えてくる。生皮苧は生糸を取る場合、繭から最初に除去される部分で生糸に比べて安価である。繭の25%はセリシンと言われているが内部と中層部では含有量は少なく外部は多い、一般的な絹糸では生皮苧は除去され尚精錬された糸なので、このことに気づくことはない。(写真3)セリシンの含有量や特性も座繰りで糸を上げ邪魔物として扱われてきた生皮苧と中層部の美しい生糸、蛹が透けて見える内部の糸を分けて観察し、共にアイロンで熱を加えることで接着する生皮苧と接着しない中層と内部の生糸の違いや太さ、表情等により絹糸とは、生皮苧とは、セリシンとはを理屈ぬきで知ることになる。(写真1)
◆写真3 繭を先染して座繰りした糸 (右、外側 左、内側)
◆写真1 接着する生糸
ウールは全てフェルト化する。絹は艶があり、柔らかいという生物の表面的で優れた性質にだけ捉われることなく、あるときには欠点と伝えられていることに注目することで新たな発見に結びつくこともある。
◆こんなコンニャク見たことない!
昨年の夏、群馬県沼田市に在住で当誌vol.44の特集でもご承知の小林清美さんが両親と共に蒟蒻の栽培をしながら作品を作っている場に子供造形教室夏期合宿で小学生、保護者、スタップなど計15名で伺った。
蒟蒻は東南アジアから中国・韓国を経て伝わったが、この姿を見る限り亜熱帯系の植物に似ていて日本の風土・環境では簡単には育ちにくいように思えるにもかかわらず日本の食卓に欠かせない食材として定着している。一般にコンニャクと問われると「おでんやすき焼きの具材」「でんがく」等しかイメージしないが過去には紙幣や風船爆弾そして現在では強制紙として紙を補強する助剤としても少なからず使われている。
紙は水に溶けるはかない素材として認知されているが二枚の和紙に蒟蒻を塗布して張り合わせ乾燥させ、石灰で煮ることで洗濯可能な強い紙になる。この糊としての役割と性質に着目し、製法は食するコンニャクと同様に作り、乾燥させるとどのような表情を見せてくれるのかという思いつきから実験を試みた。その結果、蒟蒻芋を擂りおろして作ると灰汁が強く乾燥させると黒っぽい木根のようなコンニャクや製粉工場で製造されたパウダーから作ると樹脂のようなコンニャクなど様々なコンニャクができることに気づき全国有数の蒟蒻産地群馬県の専業農家と近隣の人々、そして見渡す限り蒟蒻畑が広がる環境の中での合宿に結びついた。(写真11)
◆写真 11 コンニャク畑に設定したコンニャクオブジェ (子供造形教室夏期合宿)
合宿では予期せぬさまざまなことに遭遇することになったが子供達は食事からオブジェの制作までコンニャク尽くしの三日間で食材と造形素材との区別はないことを体感する良い機会になり、蒟蒻栽培農家の方々からは「こんなコンニャク見たことない!」という話を伺って何かが生まれる気配を感じつつ群馬を後にすることが出来ました。
私は今日も300年前のダブルフライヤー手紡機で糸を紡いでいる。二個のフライヤーの内使っているのは一個で残りの一個は糸が紡がれることもなく、ただ空回りしているだけだ。効率を求めて製作された手紡機はその製作意図に反する使われかたをしているのにもかかわらず静かにカラカラと心地よい音をたてながら動いている。