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「素材の領分」展 -この展覧会が求めるもの- 樋田豊次郎

2014-01-01 10:01:47 | 樋田豊次郎
1994年10月1日発行のTEXTILE FORUM NO.26に掲載した記事を改めて下記します。

 近代美術館にはいってから15年、大学で工芸史を勉強してたころから数えると約20年間ぐらい、これだけ時間を使ってきてわたしがやっと気づいたのは、工芸には素材が必要不可欠なものだということだった。しかもその素材は、人間の自由になるものではなく、素材は素材で勝手に独自の領分をもっているということだった。結局、考えてみてもどうしようもないことがあるということが判るのに延々と時間を費やしてきてしまった。
 工芸や美術などの造形作品にかぎったことではないが、つまるところ人間は素材を理性的な眼でそんなに長く見つづけることには堪えられないのではないだろうか。作品の素材には、天然の木、石、土、金属、そしてときには人間の手が加えられたガラス、コンクリート、プラスチックなどのさまざまなもの(これらを総称して、ここでは物質と呼ぶ)が使われるが、これらの物質を客観的に見て、それらは分子の寄せ集めだとか、人間とは無関係にはじめから地球上にあったものだとかいってみても、どこかうそ寒いものがある。
 樹木は、発芽し、成長し、そして枯れていく。その過程はまるで人生のようだ。目前の樹木が雄々しい大木ならば、その姿から生命の発露と、長年にわたって自然の猛威と闘ってきた雄々しさを感じることだろう。それが公園の植木ならば、どことなく飼い慣らされたわびしさのようなものを感じるかもしれない。人間がさまざまな自然の物質を見て、名状しがたい力にとらわれてきたことは、世界中で神話や宗教的な物語が自然の不思議さを題材にしてきたことでもよくわかるというものだ。
 結局、人間は素材を理性的な眼でそんなに長く見つづけることに堪えられないということは、合理的なものの考え方では説明できない出来事や事態がそこここで息づいている世界を、人間はどうしても放棄できないということ意味しているのだろう。合理的なものの考え方では説明できない出来事や事態というのは、なにも自然界の不思議な現象だけではない。人間が夜みる夢とか、わたしたちの心のなかの無意識とか、我を忘れて熱狂してしまう祝祭とか、一生懸命ため込んできた貯金をおもいっきり無駄使いするときのバカバカしいけどすっきりした気持ちとか、セックスのもっとも昂まったときのあの一瞬とかもその仲間にはいるだろう。そう、表だっていうにはバカバカしいことばかりだ。けれども、これらのない人生なんてものも、やはり考えられない。
 近代の科学や合理的なものの考え方は、理屈に合わないものや、現実的に役に立たないものを、すべてこの世界の片隅に押しやってきた。無益なものは断罪されてきた。でも考えてみれば、無益であることがどうして悪いのか(この部分、自己弁護しているのではない、もちろん、居直っているのでもない)。汗水たらしてなにごとかを成し遂げるのは立派なことであるのには違いないが、そこには日常的な努力の惨めさがつきまとう。エリートは偉いかもしれないが、尊敬する気にはなれない。その点、無益なものは、はじめから現実の効率主義からはずれているだけに超越的な対象になる。蝋燭の炎が神聖にみえるのは、それ自体には役目がなく、しかも人知を超えた現象だからである。祭壇に捧げられた仔羊が神聖なのは、通常の飼育とは正反対に、仔羊が「無益に」殺傷されたからなのである。

 こんな風に人間は無益さを放棄できない。そして素材もほんらい人間の役に立つために在るのではなく、素材は素材独自の領分をもっている。だからこそ、人間は素材を必要とするのだ。こう考えはじめたとき、今日の造形作品はどのように素材を扱いだすのだろうか。これについてわたし自身が考えたこと、そしてヨーロッパや日本で起きていることを、スケッチ風に二つほどあげておこう。
 そのひとつは、素材に手を加えて「語らせる」のか、それとも、素材を人間から解放して素材を自由に「語らせしめる」のか、という選択である。素材には素材の領分があると認めたからには、素材は自発的になにかを語るということも認めなくてはならない。そこで、作品のなかで素材をどのように語らせるかが具体的なテーマになってくる。
 一般的にいって現在のヨーロッパでは、とくにデザインの分野では、素材になにを語らせたいのかという作者側の意図がはっきりしている。たとえば板ガラスの割れた断面をそのままに使って、凶暴な表情を引き出し、その凶暴性によって作者自身の社会にたいする反抗を示す、といった具合である。これにたいして日本では、素材が作者の思いもよらなかった未知の表情を見せてくれるのを期待するという傾向かつよい。この違いは、素材に使われる天然の自然物をありのまま受け容れるか否かという、自然観の違いからくるのだろう。
 もうひとつは、最初の選択を実践するときの手法である。今回の展覧会では、つぎの11人のひとたちに参加していただいた。秋山陽(陶)、車季南(麻)、藤原志保(和紙)、玄昌國(鉄)、林辺正子(ファイバー)、星野暁(陶)、古伏脇司(漆)、関島寿子(植物繊維)、菅木志雄(パラフィン・木)、田中信行(漆)、尹煕倉(陶)である。これらの作家たちのほとんどは、素材との対話を試みる。素材に語りかけ、それに素材が応えてくれるのを期待するのである。素材へのこういう対応は、1970年頃に登場した「もの派」が考えた、素材との「出会い」から造形的表現を引き出す手法の延長線上にある。
 素材と対話するためのさらに詳細な手法として、多くの作家は作品の表皮に関心を寄せる。たとえば、車、林辺、関島の場合でいえば、そもそもこれらの作家の作品内部は空洞だ。表皮というのは作品を覆う殻ではなく、表皮そのものが作品になっている。作者が加工した表皮は、人間と物質とが交感した痕跡なのである。
 この展覧会への参加者のなかで菅は、素材との対話、そして素材との出会いといった抒情的なできごとを期待しない。彼は「もの」と「人間」とが、依存しながら存在していると考え、その依存関係を作品化しようと試みる。素材あるいは「もの」に独自の領分を認めるといっても、ほんとうのところは、物質そのものが語るかどうかはわからない。しょせんは人間が語らせているのかもしれない。だとすれば、菅のように客観的に素材と人間との関係を考えていくことも重要だろう。

「素材の領分」展は、10月4日(月)から11月27日(日)まで、北の丸公園の東京国立近代美術館工芸館で開催されます。(月曜休館、ただし、10月10日は開館、翌日休館)




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