ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「十九歳への返書」 橋本真之

2016-06-05 09:48:18 | 橋本真之
◆橋本真之「林檎」(1966年)油彩
 
◆橋本真之「塊」 (1966年以前)  油彩

◆調宮神社のケヤキ(1980年代初め頃筆者撮影)

2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。

 「十九歳への返書」      橋本真之(造形作家)
 文学の世界では、処女作がその作家をほぼ語っているとは良く言われることだが、美術の世界で処女作というようなものは、その作家に対する強い関心が初期の仕事にも目を向けるのみで、殆ど見るに耐えないものである。美術というものは、造形的成熟のないところでは言葉を持たぬに等しいのであろう。言葉を持ち得ぬ時期の美術家の自己実現への模索が関心を持たれるとしたら、当然のことながら、後の仕事の成就の力によるものである。しかし、当の作家には初期の仕事ですら、自己の全体と思わずにはいられないところに、自己実現の願望とは裏腹な、人間の矜持というものがある。人は現在を初期であると思う程には、自らの生を全体の中に位置付けることが難しい。しかしながら、反対に青年が自らの仕事を初期であると位置付ける時、まだ前例に倣っていることが判明する。

 私は二十代の初めに、少年期から慣れ親しんだ油彩画の絵画世界を離れたが、その頃描いていた油彩を、三十年も経て改めてゆっくりと見返す機会を持った(注1)。今になって、もう少し続けて展開できなかったものかと、口惜しく思ったが、実際のところ、当時の私には精神的よりも、むしろ生理的に限界だったのである。今さらながら大成した大画家達の忍耐のエネルギーを考えずにはいられなかった。十点に満たぬ小画面の油彩画だけが、私の現在につながり得るものと認められたのだったが、何とも収穫の貧しさを思わないわけには行かなかった。けれども、見る人が見れば、殆どここから橋本の根拠は読み取れると思われるに違いない。そして再び戻り得ない闇雲で力まかせな探求の場が存在していたのを見るだろうか?それは安定を欠いた成長期の青年の集中力によってのみ見得る、世界の揺れ動きである。

 一人の作家の初期の仕事を見れば、およそその作家の資質がどのあたりにあるか、見てとれるものだが、その作家を取り囲んでいる世界の様々な夾雑物が取りついて、目がくらんでしまう場合もあるだろう。青年期の野心が方位を探し出せずに、外界に振りまわされている凡庸な場合は別として、自らの出発の根拠の鉱脈をさぐり当てた青年期の仕事は、応々にしてひどく素っ気なくて、誰も見向きもしないようなものであることが多いかも知れない。そうした鉱脈というものは、金塊のように燦然として派手派手しいものではなくて、それ以前の誰もが見過して来たものだからである。空間の蔭りのように、見過して来たものに気付くためには、特権的な『時』を待ち続ける固有の資質というものが必要である。誰れしも自らの前に居た人々の例を倣いながら出発せざるを得ないのだが、自身の充足のために、本当に異和感がないのかと問うて見れば、前例はついに自らの充足たり得ないことを知らねばなるまい。人は様々に学ばねばならぬだろうが、実のところ、自らの充足感の構造に問いを向ければ、異和感が何によるのか、はっきりと見えて来るはずだ。経験が人の資質を複雑に形作って行くのに違いないが、経験に対処した自身の意志に形作られても行くのだろう。この経験は苦々しいものだ。私にとって青年期は、その苦々しさに耐えて外界と内界を見続けることだったが、一般的にそうした時代が口に出される事はなくて、羞恥心から、それらはあやふやな経験として内奥にしまわれ、やがてどこにしまったのかも忘れ去られて行くのに違いない。青年の苦々しさは他人には腫れ物のようで触れがたいものだ。当の青年の呻吟する姿の切れ切れの言葉や行動を、ポーズなどと言っていられるのは、すでに常識的な断念にからめとられて、世界をそのようにあるものとして生きることを始めたためだ。次第に磨滅して忘れ去られて行く異和感に、逆にいつまでも固執するのは、おそらく固有の資質がいつまでも異和感を失わせず、やがて癌細胞のごとく異物感にさえ成長して行くとすれば、それはその作家の生涯のエネルギーとまでなって行くのである。ついに前例が何の役にも立たぬ時がやって来るのだが、そこに一人の作家が居ることになるわけである。

 こうした常識に類することを、今さらのように書くのも、当の私が老人の常識を知り始めたならいに違いない。けれども、今日の呻吟する人々の姿勢が見えて来るためには、老人のかっての呻吟を語らねば通じ合えぬものと思われるからに他ならない。今日には今日の呻吟があるはずだが、耳つんぼの老人には聞こえぬだけの話しである。

 彭祖(注2)の八百歳の生を思えば、私達の生は初期に過ぎぬのであると自覚して生き得るが、明日をも知れぬ生の長さに恃んでいる内は、何事も出発もされ得ないだろう。生を終えたところから始まることを知るために、私はすでに五十年を過ごして来たのかも知れぬ。ところで、二十年以上も週末になると通っている勤め先が浦和にあって、彩光舎という美術研究所なのだが、その建物の前の中山道をはさんだ神社を調宮神社という。駒犬ならぬ駒うさぎで知られた古い神社である。境内にはケヤキの古木群があり、その魁偉な姿が、勤め先での軋轢の苦い思いを押して通わせ続けたひとつの理由だったかも知れぬ程、凄じいエネルギーの塊のような古木群である。その古木の中でも、ことに私の目を引いていたケヤキがあって、中山道ぞいの石の囲いを押し倒しかねない状態のケヤキがあった。その木こぶをかかえたケヤキが、昨年の台風に弱った樹幹を折られて、夜の中山道に倒れ道をふさいだ。クレーン車がやって来て大騒ぎだったが、根本から三~四メートルを残して、まだしばらくは健在かに思えた。しかし、ケヤキは今年の夏、立枯れた。おそらく八百年の生を今年終えたのだと言えば落語だが、私は少なくとも私の生を超えて生きるに違いないと思い込んでいた樹木の死を見たのだった。この特殊な日本的なあまりに日本的な場処に育ったがゆえに、生を全うした樹木の充足を見たと思った。この生の初期が私達の五十年の生のようなものだと思い至ると、誰しも全て『生』というものは生の長さとしてとらえ勝ちだが、死の後に何が始まり得るかが、問いとなり得ぬ、つまり解答のない運動の始まりなのである。こんな言葉はなぞめいて聞こえるだろうか?実に簡単なことだ。生の反映としての作品というものは、作者の存在を離れて、ついに社会的に自立するのである。自立したところで、力を失なって行く作品が殆どなのであるが、力を得て行く作品は、作者を押しのけ、怪物めいて、自らの内に充填され続けた世界を、他者を介して真に開示し始める。作者を離れるとはそういうことだ。ひとは、そこに私と作品とを同一化する願望を錯術と言うだろうか?

 八百歳?の樹の傍らを歩きながら考えた。作品の生命とは、いかなるものであり得るか?と。私の日々の生の錯誤はたわいもないが、その生を反映した作品世界の構造が運動すると考えた時、樹木もまた物質的運動構造であると思い得たのである。人は人をエネルギーとして持続し得るのであって、他に何を恃み得るのか?何ともあっけない結論だ。何もかも聞き厭きた人々は常套な結論を侮蔑するが、それでは何処から出発して何処へ行きたいのか?この場処から出発する以外に何処からも出発なぞできはしない。そして、この物質のあわいに消滅する他に何処に消滅する場処もないのである。消え去った場処にいくたりかの他者がやって来て、そのささやかな空虚を埋めることができずに、たたずむだけだとしても、彼等の生の連鎖が作品世界の構造をめぐって輝くのであれば、輝ける存在現象は、この世界にあえかな上澄みを持たらすに違いない。あるいは、自然の運動がその空虚を埋めつくすのだとすれば、それこそ私の望むところである。


(注1)『橋本真之初期作品展(1966~1976)』1999年9月13日~19日ギャラリー緑隣館にて開催。筆者・橋本真之は1947年生まれ。初期作品展は18歳以前の油彩作品から二十代の終わりに発表した鉄による作品「運動膜」まで、初期の橋本の展開をたどった。
 (注2) 彭祖-中国における八百歳の長寿を生きたという伝説上の人物。

「風景から」 上野正夫

2016-06-04 17:21:24 | 上野正夫
◆「Nontitled」ロイ・スターブ 1996年 千葉県鴨川市で制作 稲

◆「Fort」 上野正夫  1992年  
千葉県で制作  竹

◆「VSOPシリーズ」 上野正夫
1998年  中国海南島で制作
シュロ、珊瑚、羽

 ◆「Kilmagon Crossing」 バレリー ・プラグネル
1997年  スコッランドで制作
(Kilmagon Crossingは設置した場所の地名)

◆「Hkllow Spruce」 リチャード・ハリス
1989年  イギリス・グライズデールで制作
スプルスの枝


◆「Birrigai」リチャード・ハリス
オーストラリアのキャンベラで制作
倒木と石


◆「しめ縄」 パトリック・ドリティー
1992年  千葉県鴨川市で制作

2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。

 「風景から」      上野正夫(造形作家)
 竹材を求めて内房の海沿いの町に移り住んだある日、海岸に漂着している竹を見つけた。その周辺にはユリカモメの羽や藁やススキや貝殻、流木などが漂着していた。これらの物を編んで小さな作品にできないかと思った。83年の春のことだった。その場所で見つけた素材を使って、風景の中で作品を作ることは、四季の移り変わりの中で変化してゆく風景との関わりの中から作品をつくり出す俳句の手法とも共通する。この年にVSOPシリーズという一連の作品の制作を開始した。Very Special One Place Productionの頭文字をとった。特定の場所で素材を採集し、そこで制作する作品。風景の中から素材とテーマを引き出して制作するこのVSOPシリーズは、その後、私の作品の方向を決定づけた。

 このVSOPシリーズが評価されて、90年にイギリスのグライズデール野外彫刻公園に彫刻家として制作のために招待された。グライズデールのテーマはSense Of a Placeと言う言葉だった。場所の感覚だ。「それぞれの場所にはその場所が発する固有の感覚がある。」と言う考え方だ。イギリスには、ターナーやワーズワースの風景画や田園詩の伝統がある。グライズデール野外彫刻公園は湖水地方のワーズワースが住んでいた町のすぐ近くにあった。この野外彫刻公園はデヴィッド・ナッシュやアンディー・ゴールズワージィを育てた事でも有名だ。そこで、リチャード・ハリスという彫刻家に出会った。広大な国立公園の中には彼の作品がいくつもあって、そのすべてが完成度の高いものだった。森は鹿やウサギや多くの野鳥の住処でもある。また、公園の中には小さなもいくつか含まれている。彼の作品は森の生態系や地域の伝統を背景にした、その場所でしか成立しない、場所から切り離せない、根の生えた作品だった。彼の作品を見るには森の中を一時間ほど歩かなくてはならない。森の入り口にパーキングがあって、車はそれ以上は入れない。車を降りて森の大気が身体に十分浸透してから、彼の作品に出会える。作品を観賞する人の体が森の空気になじんだ時に始めて彼の作品に出会えるのだ。私の作品も含めてグライズデール野外彫刻公園に100以上ある多くの作家達の作品はすべてそのように設置されている。制作や設置の場所は制作する作家が決定する。つまり設置の場所(Site)そのものが特定されていて(Specific)作品と分離できないという意味なのだ。

 グライズデール野外彫刻公園へは、日本からもたくさんの人たちが視察にいっている。そのほとんどすべての人がリチャード・ハリスの作品を一番すばらしいと言う。彼は海外の作家仲間の間でもかなり高い評価を受けている。しかし、かれの作品はSite Specific Sculptureなのでその場所に行かないと理解できない部分がある。つまり移動できないのだ。その場所の大気の中ではじめて意味を持つ作品だ。だからその意味ではローカルな作家だ。ローカルに活動している作家達は多いのだが、彼のようにグローバルに評価される例は希少だ。彼のほとんどの作品はイギリス国内にある。その多くは時間の中で朽ちて消滅していく。彼は時間の経過にも特定な意味を感じているようだ。イギリス南西部の有名な貴族の家庭で育った彼は、ある意味では当地のケルト的な知を代表する作家の一人かもしれない。そしてローカルに活動している自分の立場を楽しんでいる。あえてグローバルに活動しょうとしない。また自分の作品のプロモーション(売り込み)もほとんどしていない。ただ、作品、作品の制作に全力を尽くすだけだ。作品集の制作にもほとんど興味を持たない。ギャラリーでの個展もほとんどしない。それでも、彼が設置した作品の質の高さを評価する人たちが次々に制作を委託する。それを支える事ができるイギリスの文化は、成熟して層が厚いように見える。

 1991年にイギリスのマンチェスターの近郊で「柳の新しいかたち」(原題はNew Forms in Willow)という柳を使った野外彫刻展が開催された。友人のイアン・ハンターというアイルランドのダブリン生まれの彫刻家が企画した。彼はアメリカのシカゴインスティチュートの大学院で博士課程の勉強をしている時に、ロシア構成主義やバスケタリーに出会っていた。バスケタリーは、彼がアメリカにいた70年代にアメリカで起こった篭を造形として見直す運動だ。この時に彼が企画した展覧会には、ヨーロッパ各地やアメリカから16人の作家が招待されて制作した。アメリカからはジョン・マックイーンとパトリック・ドリティーが、イギリスからはリチャード・ハリスとヴァレリー・プラグネルが招待された。この展覧会でパトリック・ドリティーとヴァレリー・プラグネルがすばらしい作品を制作した。それが評価されて、翌年二人はそれぞれ別の基金で日本に招待された。

 日米芸術家交換計画(Jpan-U.S Creative Art fellow)で来日したパトリック・ドリティーは、街路樹から剪定された枝を編んで巨大な作品を作る作家だ。街路樹から剪定された枝は、アメリカでは大量なごみとして野外に積み上げられているそうだ。一人で二週間ほどの間で巨大な作品を作る体力は並み大抵のものではない。けれども、助手を使って自分は監督するという方法はとらない。作品に残された彼自信の手の痕跡を大切にするからだ。ノースカロライナの有名な医師の家庭で育ったパトリックは、大学院を出て病院でカウンセラーとして働いていた。ある時に自分の手で自宅を作った。あまったレンガで自宅の庭に立体作品も作った。身に来た客が口々にほめるので、美術大学に入学して彫刻を勉強しなおした。彫刻家としては異色の経歴だ。彼の作品はインディアンの家の骨組みや食料を貯蔵するための大きな篭がヒントになっているようだ。作品がSite Specific Sculpture(sculptureは彫刻の意味)なので、販売がむづかしい。作家としては欧米でよく知られた存在でも、商業主義が徹底しているアメリカ東部の美術界の中では主流ではない。そんな事はノースカロライナの田舎でのんびり暮らす彼にとってはあまり気にならないようだ。彼はのんびり自分の制作を楽しんでいる。

 その年に、有機農業で有名な南房総の三芳村で「感じる自然展」という野外彫刻展が開催された。来日中のヴァレリー・プラグネと日本人の私が作家として招待された。ヴァレリーはあのマッキントッシュが設計したグラスゴー美術大学の出身で、自分の文化的な背景を大切にする作家だ。よくケルトの渦巻き模様(スパイラル)を作品につかう。柳で篭を作るのも、みずからの文化的伝統を尊重する立場からだ。パトリック・ドリティー(Patric Dougherty)の名字はスコットランドの医師の名字だと言って、彼の事をスコットランド風にドックティーと呼んで、アメリカ風の発音でなくて、これが正しい呼び方だといって譲らなかった。三芳村でもスバイラルを使った作品二点と篭の技法を取り入れた作品を一点制作していった。

 96年には日米芸術家交換計画でロイ・スターブが来日した。アメリカ東部の大学院でロシア構成主義の影響を受け、ヨーロッパに渡り画家として成功した。その後ニューヨークに戻って作品に大きな変化が出る。今までキャンバスに描いていた作品を直接地面に描くようになった。つまり、風景の中に、その場にある素材で抽象絵画を描いてその写真を撮って作品にするという方法だ。水面に映る作品を写真に撮って、その写真が作品になる事もある。日本では水田の美しさに感動して、田圃の中でも作品をいくつか制作した。パリからニューヨークに帰ってからの彼はもう画家でもないし、写真家でもないし、むしろ彫刻家に近い場所にいる。ニユーヨークの美術界をよく知っている彼が、パリに十数年滞在してからあらためてアメリカの美術界を見直した時にそのような立場をとったのかもしれない。決して有利な立場とは言えないが、それに固執しているところが強いところだ。現在は自分の生まれ育ったミルウォーキー近郊の町に戻って、シカゴやニューヨークで作品を発表している。

 風景の中で制作する作家達は頑固な作家が多い。風景の中に身体を置くと言うことはかなり体力のいる作業だ。雨の日も、雪の日も制作する場合がある。自然の力を身体で受け止めて制作するための意志が必要とされる。自然が必ずしも人にやさしいとは限らない。その中で、相手の立場を尊重しつつ制作を続行するにはかなり強固な意志が必要なのかもしれない。人間の身体も自然の一部でありその反映であると考えるのなら、彼等の意志は自然との対話のなかで強化されたのだろう。自然の中に無防備に放り出された独りの人間は、それほど強固なものではないのかも知れない。彼らはそんな場所から出発しているように思える。                   (うえの まさお)

「コイリングのかご」 高宮紀子

2016-06-03 09:59:31 | 高宮紀子
◆コイリングのかご 1986 素材:フジ 高宮紀子作

◆「アイヌ民族のかご」
素材:テンキ  技法:コイリング

1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご(1)
 「コイリングのかご」       高宮 紀子(かご造形作家)

 右のかごはアイヌ民族のテンキ草のかごです。ずいぶん昔に大阪の民族学博物館で写しました。おわんぐらいの大きさもので、上についた蓋の太いダイナミックな渦巻きの線が印象的です。
このかごはコイリングという技法で作られています。コイリングというのは、かごを作る技術の一つで、植物の茎などを束にしたものを芯材にして、それを巻き材で巻きながら、芯材同士を螺旋状につないで作る方法のことです。芯材の素材は見えないのでわかりませんが、巻いているのはテンキの葉だと思います。小さいですが、固く丈夫そうなかごです。

 たためるような柔らかいかごから家具まで、いろいろな素材のコイリングのかごが世界中に見られます。昔、日本で使っていた飯櫃入れや鍋敷はワラやスゲなどが使われていますが、その他の草の茎や葉、樹木の皮やツルなどの伝統的なものから、新聞紙、ワイヤーなど使える素材はたくさんあります。芯材と巻き材という二つの構成要素を同じ素材にするか、または性質の違う2種類の素材を使って組みあわせるかはまったく自由です。

 コイリングの作業としては、巻き材で芯材をどう巻きつなげるかで、できる組織が違ってきますが、それらは使う素材やめざす用途、作る人の好みに深く関係しています。
 作業の容易さからいえば、巻き材は柔らかく、長い繊維のものがいいわけですが、民具にはいろいろと工夫も見られます。たとえば、トウモロコシの皮でコイリングされた鍋敷(日本)がそのいい例です。トウモロコシの皮は短い素材であるために材料をしょっちゅう足す必要が出てきます。そこでその端をくるりと、外で一ひねりしてループにして出して、再び束の中に入れて巻き込むというものです。できたループは飾りのようですが、材料の端をうまく処理した技術なのです。
 他にも、巻き材に色の違うものを使いパターンやシンボルを出したかごもあります。このようにコイリングと一口にいってもいろいろなかごがみられます。

 二つのかごは1986年にフジツルで作った私の作品です。
山で切ったばかりのフジの太いツルを送ってもらい、そのツルを割いて外側にある繊維と中心の木部に分け、繊維で縄をない、割いた木部を何本か束にして芯材にし、それを縄で巻いて作りました。

 アイヌ民族のかごの方は、芯材が見えないぐらいぴっちり巻かれ、見るからに頑丈そうです。鍛練された技術の賜といえると思います。でも私のかごでは芯材が数ヵ所抜けています。頑丈ではありません。
 しかし、芯材を切ったその箇所から巻き材がコイル状になった形がよく見えます。私のかごは実用のかごではなく、私の体験したことをその中に残したものです。

 最初、コイリングの技法を知った当初は、民具のかごの美しさにあこがれました。しかし、私には民具のかごの完成度は目指せない、だから素材を変えたり、何か違うことをすることで、新しいかごを作ろうと思ったのです。いろいろな素材でいくつか作りましたが、いずれもあまり満足はできませんでした。素材を変え、形を変えていくらでもかごができる、と思いましたが、そのこと自体がかえって思いとどまらせる気分にさせたように思います。その先がわからなくなりました。

 しばらくしてから、まっすぐな太いトウをラフィアでそのまま巻きつないでコイリングを始めました。それまでは芯材を外側だけにつなげていたのを、上下、左右にもつなげて、コイリングのかたまりのようなものを作りました。数日後、できたものを持ち上げたら、1本のトウがコイリングの編み目から抜けてしまいました。しかし、そこにはちゃんと巻き材がトウを巻いたコイル状のループが残っていたのです。
 ループだけ残ったおかげで、コイリングの構造がよく見えて、風穴があいたような気分になりました。何か今ままに作ったものとは方向性が違う、つまり、コイリングの構造そのものに制作の糸口がある!と気がついたのです。新しい体験でした。そして、この体験が制作のスタート地点でした。

 他のかごの技術がそうであるように、コイリングもきちんと枠にはまったものではありません。用途や芯材と巻き材の組み合わせによって、あるいは作る人の好みや意思、力かげんによって、その場限りの固有な方法へと変化し、様々な形のかごを作り出します。仮にここで、思いつくかごを紙に書き出したとしても、その量は、作るごとに増えていくことでしょう。しかも、基本的な技術の構造、または動作、という技術自体の中にも、個人的な発見を許す余地がまだ、あると思います。作り手の視点がマクロ的にもミクロ的にも広がるという、それがかごの技術の世界です。
 
 アイヌ人の作り手によるかご、そして私のかごとは遠いところでつながっている、そう言えば、言いすぎかもしれませんが、それほど、かごの領域は広いのではと考えています。

「M君の場合」 榛葉莟子

2016-06-03 09:51:44 | 榛葉莟子
◆青の記憶 1998 榛葉莟子
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

M君の場合          榛葉莟子

 ぼんやりとレースのカーテン越しに外の緑を見ていた。開いている窓にかかるカーテンは思い出したかのように、プーッと風を孕み襞を広げた。そこに黒いものが動いた。蜂だ。カーテンがしぼむと蜂は襞の谷間に隠れてしまった。蜂はすぐ襞の山に現れた。その山を蜂はまっすぐに登って行く。と、くるっと踵を返すと次の襞の谷間を下りてきた。それから、はてなというふうに立ち止まりくるっと踵を返すと、ちっちっちっと次の襞の山を登っていく。蜂はカーテンの透かし模様の隙間に幻惑されているのだろうか。いつもなら部屋に侵入してきた蜂はブンブンやかましく飛び回り攻撃的なのになあと思いつつ、いつまでも山やら谷やらの行き来をジグザグ繰り返している蜂をぼんやり見ていた。ふと、M君を想った。今頃はどのあたりをてくてく歩いているのだろうか。

 夕暮れ時の庭先にリュックを背にした長身の若者が現れたのはひと月ほど前の事だった。赤いバンダナを頭に巻き、笑うと白い歯がしっかり見える陽焼けした顔がさわやかだった。それがM君だ。水、もらえますか。と言うM君の手に空のペットボトルがあった。どうぞどうぞ、おいしいのよここの水、湧水だから‥‥八ヶ岳に遊びに来たの?私は挨拶代りのつもりで言った。旅しているんです。広島から歩いて来ました。北海道迄いくんですよ。えっ、広島から歩いて!北海道迄歩く?まあ、休んでいきなさいな。雑談がしたいと思っていた矢先だった事もあり、私はそう言ってお茶をすすめた。

 ここ八ヶ岳に入ったのが広島を出発してから三ヶ月目程になるという。預金通帳も携帯電話も免許証も、もしもの自己証明物は一切持たないと決め、立ち寄った町や村で一日二日の手伝い仕事を探し、小銭を稼ぎながら北へ向かって歩いて行く。手伝い仕事がない日が重なれば、空きっ腹に水を流し込むしかない。お墓の供物を失敬したこともあるんですよ。さすがその時は、いただきますって、手を合わしちゃいましたけどね。でもね、不思議なことに空腹感っていうのが段々なくなってきているんですよね。なんか今の環境に身体が合わさってくるつていうのかなあ、歩く距離にしても、いくら歩いても疲れないんですよ。でもね、何かしら仕事はあって、と言っても頼み込むんですけどね。徒歩で旅してるって事情を話すと、俺も若い頃やってみたかったとか、がんばれよとか、なんだか果たせなかった夢を僕に託しているように、仕事をみつけてくれる人にもたくさん会いました。うん、そうかもしれない。徒歩で旅してると聞けば、人はなにか密度の濃い熱が一瞬自分の身体のなかを駆け抜けて行くようなゆらぎ感覚が生まれるのかもしれない。そしてまた、秘めたる自分の遠い物語と重なるからでもあるような気がする。そして夕暮れの匂いを感じる頃、今夜の寝場所を探す。駅、公園、公衆便所、空き家、寺、神社と、寝る場所の匂いを嗅ぎつける勘が身についてきたんですよね。なるほど、それでこの庭に現れた訳だ。なにしろ隣は無人の神社。うちに泊まっていきなさい。神社で寝るっていっても高原の夜は冷えるし、空模様も怪しいし‥‥。お節介かなと思いながらも誘ってみた。えっ、いいんですか。うれしいなあ。で、そういう事になった。

 夕餉の食卓を家族と囲みながらM君はよくしゃべった。てくてく歩く毎日は孤独との闘いであっただろうし、それは修行僧の行脚と変わりないはすだ。M君はちょっとはにかみながら、やっぱり言った。くさい言い方をすれば自分探しの旅です。それなくして、ここまで自分を厳しくはできないだろうし、彼流のやり方なのだろう。M君に立ち止まりの泡粒がぷっくり浮上したのは、大学を出てある企業に勤め安定した生活が始まって、まもなくの事だという。これでいいのかの自問自答に陥っていった。立ち止まりが浮上すれば、その場は苦痛でしかない。勤めからその身を解放してみれば、ふつふつと蘇ってきたのは、少年の頃抱いた夢だった。ふーん、どんな夢?サハラ砂漠縦断、徒歩で。わっ、サハラ砂漠!サハラ砂漠と聞いて私の内にサンテグジュペリがやってきた。サハラと言えば星の王子さまの話の舞台。M君の内からぷっくりと浮上した泡粒のなかには、純粋がぎゅっと詰まっているような気がしてきた。夢はジャンプ台だ。M君がサハラを縦断するのかしないのかよりも、私には彼が彼の内部に蒔いた夢の種が発芽し始めたのだなあという所に目が向き、生きるとは、ゆっくりと誕生していく事。というサンテグジュペリの言葉をメモした頃を思い出して、それは冒険とも言う。と、そこに少しの言葉を加えてみた気もする。

「WOOL GATHERING」 若井麗華

2016-06-02 14:13:55 | 若井麗華
◆若井麗華個展 1998

◆「ALOHA MODO」若井麗華
◆「SWIM MODO」 若井麗華

1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

 「WOOL GATHERING」     若井麗華(フェルト造形作家)
私はかたまりです。私はそのかたまりから自由になりたいと願ってきました。
大きく伸びて、柔軟に広がる軽やかな存在に。けれども願いを叶えるべく術を知らずにいました。
あまりにも願いが強くなり外に出たいと大声を出したものだから、その振動でかたまりの表皮に切れ目が走りました。
その時、意識はかたまりの中に居たことを知り、内と外との境界にあるものが皮膚であることを知りました。私の意識は羽の生えた天使となって外へ飛び出し自由に浮遊する術を得ました。

水の中で宙返りをしてみる
天と地が区別できなくなるくらいまで
水を通して見えた青空は
私を本当に宙に浮かせた
                  ALOHA MODE

もし、空想がこうじて
今ここに居るという意識がなくなって
目の前の風景に溶け出したら
きっと大きなストロークで泳ぎ出す
                   SWIM MODE

身体感覚をなくし空想の世界へ入っていく時、私の体を覆っている表皮から意識が抜け出ます。
内と外の境界を越えて。

 「人生はすべて幻想である。」ある作家のこの考え方が大好きです。
そう考えていくと自分の人生を創る事は可能かもしれないと、気がつきました。そしてこの作家の言葉から、まずはものづくりを通して幻想をつくってみようという考え方をするようになりました。

これら一連のフェルト作品は、意識が空想の世界へと飛び立つ為の衣として制作しています。仮想空間でそれは衣となって動き出し、こちらの世界から見れば抜け殻のようであり残像のようにも見えます。どんな衣を身につけるにしても意識が入ったところに生命が宿り生まれます。それはちょうど、私のこの肉体の中に(器の中に)、私という意識が入ってここに生きているのと同じなのです。

 太古の昔から人間は、祭や儀式の際に日常とは異なる衣装を身に着け臨む事で日常から別の世界へと意識を移行させてきました。
(音や舞の要素も加わって)
現代でも同じようなことが祭事や行事、そして自分を逸脱して楽しむ仮装パーティー等で行われています。身近な場面でいうと、誰もが日常生活の中で身につけている物の色や形を変えただけで気分が変わってしまう経験をしていると思います。
実際には、皮膚の上に衣装や装飾を重ね合わせることなのですが、それによって意識がポーンと変化します。そこに私は皮膚と衣が溶け合い一体化する現象が起きていると見るのです。意識をいろいろな世界に飛び立たせる為の衣を作るには、この肉体と皮膚の感覚に、より近い素材でなければなりません。もともとテキスタイルの感触が好きだった私は、数ある素材の中からフェルトという素材を選び出しました。私にとってフェルトの肌触りはたまらなく皮膚感覚を呼び起こしてくれます。そしてフェルトの自ら持っている特性と、皮膚と衣が溶け合い一体化する(空想の世界に移行する時に起こる)という現象に、共通の成り立ちを見るからです。

たくさんの毛が集まってフェルトになる。
たくさんの思いが集まって空想になる。
ここに空想の世界を現実化するという試みとフェルトでの表現が重なり合うのです。

『W00L GATHERING』という単語があります。

直訳すると「羊毛の集まり」という事になりますが、言葉としての意味は「とりとめのない空想」という意味です。フェルトの中にいろいろな思いを込めようとしている今、私のW00L GATHERINGは当分続くでしょう。