外国で生活をしていると、まざまざと思い知らされるのが価値観の違い。
『 わたしたち みんな同じ地球人 』といえたら それはそれはいいことなんだろうけれど
そう簡単にいったら、戦争なんて起きやしないだろうし
言ってしまえば 夫婦喧嘩とか親子喧嘩だって起きないと思うんですよ。
違いというのは歴然としてある。
年が違えば Generation Gap
同じ国で生まれたからって、育った地域が違えば 色々と違ってくる
単純に 男性と女性 という違いにだって 行動、価値観の違いは出てくる。
ましてや国が違えば、文化も違う 価値観も違う、人との距離の取り方も違う
違いは当然見えてきます。
同じアジア人でも違うなぁとも思う。
アジア人同士だから白人とよりもわかりあえるか?と言ったら、似ているけれど、そうでもなかったり。
個々のグループを形成するカテゴリーで総括できる『価値観』ってあることはあるけれど、
結局たどり着くところは個々の価値観だというのは分かっているけれど。
価値観というものは、属するグループにある程度普遍して共通するコアな部分では
神話とか宗教とか歴史とかによって育まれてきた文化にかなり深く影響されていて、
そのコアを覆う形で、個々の価値観が 親を始め、周りの人、そして教育からの影響によって
長い間をかけて形成されていくものだと思うわけです。
ということで 多様性があって当たり前 というのは わかっちゃいるんだけれど。
それぞれが自分の価値観に基づいて「 こうであることが正しい 」と思っているわけですから、
それを否定されることは、かなり受け入れ難かったりします。
で、「 相手を尊重しないといけない 」というのは 理屈では分かっているし
「 ま、人それぞれだしね。」と口で言っても、個のレベルでは
「 あの人と私は違うから 」と相手に対する否定的な思いをどこかに隠していたりするわけです。
特に価値観とかって、自分のかなり深いところに根ざすものだったりするので、自分が正しいと思うことを
否定されると、私の場合 感情的に 無条件に自己正当化したくなるわけです。
今日は理由がありまして、自己正当化したい衝動と相手を尊重することを決断することへの葛藤と戦い、
『 自分 』を引き下げることを認めることに対峙した一日でした。
頑固な私にとって、一旦出したものを引き下げることはちょっと難しい。
だって、最初から間違いだと思っていたら、そうは思わない・しないわけでして。
でも、よくよく考え、素直になったら やっぱり 過ちは認めるべきだと 思ったのでした。
人間関係をスムーズにするために、心の底では悪いと思っていないのに口先でごまかすことができたとしても、
心からそう思っていなかったら、謝ったことにはならないわけで。
もしかして、わたしは自分のちいさな過ちに向き合って、心からその間違いを認めたことってあったかな ?
いつも心の奥底で絡みつく感情を捨てきれず、自己正当化するためにぶつぶつと言い訳ばっかりしていたんじゃないの?
相手に対する一抹の否定的な思いを握りしめていたんじゃないの?
なんて思ったりして、傲慢な自分に深く気づくと共に
でも 間違いを認めるって そんなに 簡単なことではないよな と思った一日でした。
でも、自分が頑なに握り締めているものを そっと 手から解き放つ
自分が頑なに握り締めているもの それは ある意味 強烈な自己愛 だったりします。
自分を何よりも大事だと思っている限り、実は相手を受け入れてはいないわけで・・・
そして 自分でコントロールすることをやめて 見えない何かに『 託す 』
見えない何か・・・ それは 時間とか 未来とか 可能性とか そういうことかなぁ
で、意外にも そうすると すっと 心が軽くなることを 知りました。
『 わたしたち みんな同じ地球人 』といえたら それはそれはいいことなんだろうけれど
そう簡単にいったら、戦争なんて起きやしないだろうし
言ってしまえば 夫婦喧嘩とか親子喧嘩だって起きないと思うんですよ。
違いというのは歴然としてある。
年が違えば Generation Gap
同じ国で生まれたからって、育った地域が違えば 色々と違ってくる
単純に 男性と女性 という違いにだって 行動、価値観の違いは出てくる。
ましてや国が違えば、文化も違う 価値観も違う、人との距離の取り方も違う
違いは当然見えてきます。
同じアジア人でも違うなぁとも思う。
アジア人同士だから白人とよりもわかりあえるか?と言ったら、似ているけれど、そうでもなかったり。
個々のグループを形成するカテゴリーで総括できる『価値観』ってあることはあるけれど、
結局たどり着くところは個々の価値観だというのは分かっているけれど。
価値観というものは、属するグループにある程度普遍して共通するコアな部分では
神話とか宗教とか歴史とかによって育まれてきた文化にかなり深く影響されていて、
そのコアを覆う形で、個々の価値観が 親を始め、周りの人、そして教育からの影響によって
長い間をかけて形成されていくものだと思うわけです。
ということで 多様性があって当たり前 というのは わかっちゃいるんだけれど。
それぞれが自分の価値観に基づいて「 こうであることが正しい 」と思っているわけですから、
それを否定されることは、かなり受け入れ難かったりします。
で、「 相手を尊重しないといけない 」というのは 理屈では分かっているし
「 ま、人それぞれだしね。」と口で言っても、個のレベルでは
「 あの人と私は違うから 」と相手に対する否定的な思いをどこかに隠していたりするわけです。
特に価値観とかって、自分のかなり深いところに根ざすものだったりするので、自分が正しいと思うことを
否定されると、私の場合 感情的に 無条件に自己正当化したくなるわけです。
今日は理由がありまして、自己正当化したい衝動と相手を尊重することを決断することへの葛藤と戦い、
『 自分 』を引き下げることを認めることに対峙した一日でした。
頑固な私にとって、一旦出したものを引き下げることはちょっと難しい。
だって、最初から間違いだと思っていたら、そうは思わない・しないわけでして。
でも、よくよく考え、素直になったら やっぱり 過ちは認めるべきだと 思ったのでした。
人間関係をスムーズにするために、心の底では悪いと思っていないのに口先でごまかすことができたとしても、
心からそう思っていなかったら、謝ったことにはならないわけで。
もしかして、わたしは自分のちいさな過ちに向き合って、心からその間違いを認めたことってあったかな ?
いつも心の奥底で絡みつく感情を捨てきれず、自己正当化するためにぶつぶつと言い訳ばっかりしていたんじゃないの?
相手に対する一抹の否定的な思いを握りしめていたんじゃないの?
なんて思ったりして、傲慢な自分に深く気づくと共に
でも 間違いを認めるって そんなに 簡単なことではないよな と思った一日でした。
でも、自分が頑なに握り締めているものを そっと 手から解き放つ
自分が頑なに握り締めているもの それは ある意味 強烈な自己愛 だったりします。
自分を何よりも大事だと思っている限り、実は相手を受け入れてはいないわけで・・・
そして 自分でコントロールすることをやめて 見えない何かに『 託す 』
見えない何か・・・ それは 時間とか 未来とか 可能性とか そういうことかなぁ
で、意外にも そうすると すっと 心が軽くなることを 知りました。