◆6月4日
コヘレト3章(時がある)。持病の精神の病でどうしようもなく昂奮することがある。神様に縋ろうにも祈りの言葉は出てこない。いつもは気持ちのはけ口になる短歌も詠めない。拙歌〈「語る時、黙する時」があるのだと詠めず祈れぬ頭に浮かぶ〉は、そんな心境を詠んだもの。
◆6月7日
伝道者7:2「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうが…」7:8「事の終わりは、その初めにまさり」に立止まる。実は新改訳箴言24:14「良い終わりがあり、あなたの望みは断たれることがない」でも竦んだ。終わりがあるのは個人的には救いだが、断言していいの?
◆6月11日
伝道者の書12:1〈あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。〉この二十年で色々なものを失ったが、神様だけは共にいらっしゃった。癌になっても平静な私に、精神科の主治医は驚いている。
◆6月14日
ローマ1:11でパウロは、霊の賜物を幾らかでも分けて強めたいとローマの信徒に会うことを切望。だが続く12節で「というよりも、あなたがたの間にいて…互いの信仰によって、ともに励ましを受けたい」(新改訳)と本音を。励ましに行き、却って励まされる理想的な関係。
◆6月22日
イザヤ6章。天の御座の主を見たイザヤは「滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」 と恐れる。だが主はセラフィムによって口に火を触れさせ、彼の咎を除く。その直後、神に代わって御告げを語る者を捜す主。応じるイザヤ。つい先程まで萎縮していた私達を、主は召し出す方。
◆6月24日
イザヤ8:16「わたしは弟子たちと共に 証しの書を守り、教えを封じておこう」。東京時代の会社が某宗教信徒の溜り場と知ったのは入社後。私がPCスクリーンセーバーに英語で聖句を流していたのを上司達は躍起になって解読を試みたが、主に従わぬ人達には測り得なかった
◆6月26日
イザヤ11:13「エフライムのねたみは取り去られ ユダの敵意は断たれる。エフライムはユダをねたまず ユダはエフライムに敵対しない」。長子の権利を得たエフライム、ユダに気圧されっ放しでどうなった?と前から思ってたけど、こんなリアルなことが書いてあったとは…
◆6月30日
ローマ12:1「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」前田訳では「神の慈悲にたよって…」。パウロ自身、身の程を超えた勧めと承知しつつ、神に受けた恵みの大きさの余り、遜って進言しているのが印象的
コヘレト3章(時がある)。持病の精神の病でどうしようもなく昂奮することがある。神様に縋ろうにも祈りの言葉は出てこない。いつもは気持ちのはけ口になる短歌も詠めない。拙歌〈「語る時、黙する時」があるのだと詠めず祈れぬ頭に浮かぶ〉は、そんな心境を詠んだもの。
◆6月7日
伝道者7:2「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうが…」7:8「事の終わりは、その初めにまさり」に立止まる。実は新改訳箴言24:14「良い終わりがあり、あなたの望みは断たれることがない」でも竦んだ。終わりがあるのは個人的には救いだが、断言していいの?
◆6月11日
伝道者の書12:1〈あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。〉この二十年で色々なものを失ったが、神様だけは共にいらっしゃった。癌になっても平静な私に、精神科の主治医は驚いている。
◆6月14日
ローマ1:11でパウロは、霊の賜物を幾らかでも分けて強めたいとローマの信徒に会うことを切望。だが続く12節で「というよりも、あなたがたの間にいて…互いの信仰によって、ともに励ましを受けたい」(新改訳)と本音を。励ましに行き、却って励まされる理想的な関係。
◆6月22日
イザヤ6章。天の御座の主を見たイザヤは「滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」 と恐れる。だが主はセラフィムによって口に火を触れさせ、彼の咎を除く。その直後、神に代わって御告げを語る者を捜す主。応じるイザヤ。つい先程まで萎縮していた私達を、主は召し出す方。
◆6月24日
イザヤ8:16「わたしは弟子たちと共に 証しの書を守り、教えを封じておこう」。東京時代の会社が某宗教信徒の溜り場と知ったのは入社後。私がPCスクリーンセーバーに英語で聖句を流していたのを上司達は躍起になって解読を試みたが、主に従わぬ人達には測り得なかった
◆6月26日
イザヤ11:13「エフライムのねたみは取り去られ ユダの敵意は断たれる。エフライムはユダをねたまず ユダはエフライムに敵対しない」。長子の権利を得たエフライム、ユダに気圧されっ放しでどうなった?と前から思ってたけど、こんなリアルなことが書いてあったとは…
◆6月30日
ローマ12:1「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」前田訳では「神の慈悲にたよって…」。パウロ自身、身の程を超えた勧めと承知しつつ、神に受けた恵みの大きさの余り、遜って進言しているのが印象的