「祈り」を言葉として口にするのが難しいのは、人に聞かれると思うと緊張するというのもあるだろうけど、自分の祈りの貧弱さに直面させられるからという面も大いにあると思う。祈りを「文言」と捉えると、どうしても自分ツッコミを入れたくなるけど、全部お見通しの神様が私達一人一人と一緒にいて、個人的に時間を過ごしたいと思っていらっしゃると考えれば、少し認識も違ってくるんじゃないのかな。
「執り成しの祈り」って、教会員また非信徒にどう捉えられているのかって気になることの一つ。何かねぇ、[より堅固に信仰に立ってる人がその人より信仰の揺らぎ易い方のために祈る]みたいな、一方向の図式で考えられてないかなぁ、って気がするんだ。優劣の関係みたいな。でもパウロは手紙の中でこうお願いしてるよ。
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<新改訳第三版 ヘブル人への手紙13章18〜19節>
私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。
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凄いよねパウロは。「もっと祈ってくれ」って言ってるんだよ。他にもコロサイ人への手紙ではこう書いてる。
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<新改訳第三版 コロサイ人への手紙4章3〜4節>
同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
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「御言葉の恵み深さを、多くの人が理解できるようにはっきり語れるよう祈っててね」とお願いしてるんだよね、パウロは。あのパウロがそう言うなら、教会の指導者や信仰上の先輩、御国の働きのために勤しんでる方のために、どれほど祈りが必要かって、推して知るべし、じゃないのかな?
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<新改訳第三版 ヘブル人への手紙13章3節>
牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
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「牢」という語に引っかかってしまう方がいるかもしれないけど、身体の弱さや体調の不如意さで、人知れず苦しんでいる方は多いと思うよ。(あの人、大変じゃないかなぁ?)とかふと思い出して祈ること、大切だと思うなぁ、私は。
よく「祈るだけだよね、クリスチャンは。偽善的よね」と非難する人もいるが、思いを巡らした全員のために何かできるほど、私達は万能ではないと思うよ。だから、窮地にいる誰かを支える方々のことも祈って、さらに自分にもできることを考えていくんじゃないのかな?
順位とか成績とかお金とかの「数字」に多くの人が依存し過ぎている(あるいは数字に“酔っている”ように見える)のって、煎じ詰めれば「見えないものは信じられない」というマインドに行き着く感じがするなぁ。
まぁ数字はね、目安にはなる。進捗度とか達成度とかを確認する際に他者と共有できる基準としてね(あるいは、本当に物凄く価格が上がったとかいう物差しにはなる)。でも、優れたスポーツ選手がどんどん成績を伸ばしているのに対して、数字ばかりを取り沙汰して熱狂しているマスコミの報道などを見聞きすると、(あぁこの人達は欺かれてるなぁ……)と私なんかは思っちゃう。
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母教会は、凄くスタッツ(統計数値)を気にする教会だった。極論すると「礼拝出席者数が増えて、洗礼者数が右肩上がりに増えればいい」みたいな。一人の人が神様を信じるようになって、どれだけ内面や暮らしが潤されるようになったか、は二の次みたいな。
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<新共同訳 サムエル記下24章1〜17節>
主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。王は直属の軍の司令官ヨアブに命じた。「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数を知りたい。」ヨアブは王に言った。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、 このようなことを望まれるのですか。」しかし、ヨアブと軍の長たちに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブと軍の長たちはダビデの前を辞し、イスラエルの民を数えるために出発した。彼らはヨルダン川を渡って、アロエルとガドの谷間の町から始め、更にヤゼルを目指し、ギレアドに入って、ヘト人の地カデシュに至り、ダン・ヤアンからシドンに回った。彼らはティルスの要塞に入り、ヒビ人、カナン人の町をことごとく巡ってユダのネゲブの、ベエル・シェバに至った。彼らは九か月と二十日をかけて全国を巡った後、エルサレムに帰還した。ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」ダビデが朝起きると、神の言葉がダビデの預言者であり先見者であるガドに臨んでいた。 「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』と。」ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その手を下ろせ。」主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。ダビデは、御使いが民を打つのを見て、主に言った。「御覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」
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数字を注視するのって、現実主義で理性的なことに感じられるのかもしれないけど、安心感の拠り所が無いから数字に頼っている、という弱さの現れでもあるんじゃないかと私は思う。
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大谷選手が凄いのは、別に数字で金字塔を打ち立てたからではない、と私は思うけどなぁ。勿論、あれだけストイックに努力を続け、チームの皆さんのことも気遣って、成果を上げていくことは凄いよ。でも、数字はあくまで「ついてくる」ものでしかなくて、それを血眼になって追っかけてるんじゃないと思うよ。(少し前のニュースで、大谷選手が「数字のことは考えてない。気持ちで打ってる」って言ってたという話が紹介されてたけど、あれは本当だと思う。)それを数字ばかり取り上げてフィーバーするのって、私達の発想が貧困なことをあらわしてるよな、という気がする。
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<新改訳第三版 ローマ人への手紙14章17節>
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
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ちょっと飛んで「飲み食い」についての聖句だけど、飲食も安直に飛びつきやすい(目に見える)快楽の一つである(それさえ満たしときゃオッケー!みたいな)。
まぁ有り難いことに我が家では、一応、食に困ったことは無かったけど、食卓につくことは辛いものがあった。兄弟の諍いの場であり、親が子どもに感謝を強要する場であったから。だから飲食してても、心が寒いなんて日常だった。
私は、教会の愛餐会が、「義と平和と聖霊による喜び」の場になることを望んでいる。
1665年のロンドンでのペスト流行についてのルポルタージュである『ペストの記憶』(ダニエル・デフォー著/武田将明 訳)に「逃げるべきか、留まるべきか」という章がある。
語り手のH.F.は馬具の商いをし使用人を抱えていた。ペスト感染を避けるために仕事と店を放り出して疎開するのは無責任に思えて兄に相談したが、兄は「ペストの最善の予防策は逃げることらしいぞ」と反対。一旦は説得されかかったH.F.だが、なかなか退去しないH.F.を使用人が見限ったり、様々な邪魔が入るうちに、「留まれというのが本当に神の命令ならば、いまからどんな死の危険に取り巻かれようとも、神はぼくをしっかり護ってくださる」と改めて思い、その意志を兄に告げた。だが自身も信仰の篤い兄はそれを笑い飛ばし、些細な邪魔が入ったことを神の思し召しと考える愚かさを、兄の訪れたアジア地域での見聞を基に筋道を立てて反論した。最終的にH.F.は祈って与えられた聖書の御言葉(詩編91編)で、ロンドンに留まる決意をする。
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<新共同訳 ルカによる福音書12章54〜57節>
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
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プロテスタント教会の三大原理は、「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」とされているが、どうも今の所属教会を見てると、そうはなってないよなぁ、と感じる。聖書のどの部分を読むのも、牧師先生なり教団のお偉いさんなりが仰ったようにしか捉えてはいけない、判断に迷うことは全部牧師先生にお尋ねして、authorizeしてもらわなきゃ駄目、みたいなノリなんである。牧師先生だって、得意分野・不得意な分野があるだろうし、全部の事柄を明確に指示できるわけではないのに、その言葉の枝葉末節に飛びついて、けど従って上手くいかなきゃ牧師先生に全責任をなすりつける、という風なんだよなぁ……牧師先生が病気になるの、当たり前だよ?信徒がそんな感じじゃあ、と私なんかは思っちゃうよ。
勿論、独善的になるのは良くないが、所属教会員には付和雷同の傾向を強く感じる。
私もかつてそうだったが、多くの方にはどうも新約聖書の手紙などを“掟”として読み過ぎる傾向があるように思う。確かにパウロの圧が強いのはそうである。だがパウロの手紙は、各教会の皆さんへの感謝と祈りに溢れている。勿論、本題的な2章以降に注意が向きがちなのはある程度致し方ないが、1章の挨拶や掉尾の章などは読んでいて、心をたいそう燃え立たせられるものがあることにもっと目が向けられても良いのでは?とここ三,四年の私は思う。
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<新改訳第三版 テサロニケ人への手紙第二 1章3 節>
兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
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私達が感謝できることは、食べるものが与えられていることとか、日々健康に暮らせることとかだけではない。たとえ窮乏に陥っても、主が必要を満たしてくださり逃れ道を備えてくださると信じられることや、たとえ困った方の傍にいられなくても、「大変ねぇ……」と噂話するに留めず、執り成しの祈りをささげ、自らの生活を生きつつもできることを主に尋ね求めていけることも、感謝に値するだろう。
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<新改訳第三版 コリント人への手紙第二1章11 節>
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
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私達が、自分の凄さゆえに人をサポートできたとしても、「あぁ立派ですね(私にはそんな力やお金は無いわ)」という反応をされるだけだろう。だが、誰かの祈りによって与えられた恵みなら、祈って支えてくださった方に感謝したいし、神様を讃えざるを得ない。人の力や自分を誇るのではない感謝は、周囲の人々にも感謝の念をもたらすだろう。
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<新改訳第三版 コロサイ人への手紙1章6節>
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
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私の祈りは貧弱である。そして、そう示されていることはある意味幸いである。聖書を開くたびに、(こんな恵み深い感謝の言葉があるなんて……!)と今更ながらに新しい発見がある日々だから、なかなか聖書協会共同訳を買うに至らない(昨年10月22日に、聖書協会共同訳の続編付きを買おう!なんて祈ってたのにね)。まぁそこまで御言葉に潤されてる私は、本当に幸いなんだろうな。
私は小さい頃はよく大人から可愛がられていた。でも、誰かから「可愛い!」と言われた後は兄に暴力を振るわれたので、次第に(可愛がられるから暴力を受けるんだよ!可愛がるなよ!)と逆恨みするになっていった。そして、【女だから暴力を振るわれる。可愛いから暴力を振るわれる。】というマインドになっていった(今思うと、何つー傲慢か!と判るが)。これが相当ひねくれた根性である自覚が、理屈上でなく実感できるようになったのは、本当につい最近である(ここ二週間くらい)。
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<新改訳第三版 イザヤ書45章9〜10節>
ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか。」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。
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この聖句は長いこと理解できなかった。私は(いいじゃん抗議したって)と思っていた。女に生まれてロクなことは無かったという思いしか無かったのだ。
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少し話は飛ぶが、ここ二年くらいの間に作業所でのやり取り等を通じて、(あぁ人が、何かに対して率直な感想をポロッと小声で言うのは、その人の自由なんだな)ということが分かってきた(だからと言って、自分の思いを長々と蓄え込んで全て行動にまで適用すべきではないけれどね)。人に対して可愛いと思うのも、誰かに対し(何、それ!)と思ってムカっ腹立てるのも許されてるんだな、と。神様は、人間に冷血で無感覚な存在になってほしくて、人間を創造したんじゃないものな、と。
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私は神様に、私が初めから暴力を受けないようにしてほしかったのだ。でも、兄が僻んだり妬んだりしたのは兄自身の罪で、兄が克服すべき課題だったんだな、と今にして分かる。私は兄に「お前がいるからいけない!」と当たられた言葉を変に真に受けて、私の属性などを自責するようになっていたし、男尊女卑の家族を呪っていた。けど、何も問題が起きないように創造してほしかった、と言うのは、ある意味私の傲慢なんだな。
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<新改訳第三版 イザヤ書45章11 〜12節>
イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。
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私は自分が元々は支配欲の強い人間なんだな、と今にして判る。
私は自分には知識があるとは全然思わない。むしろ、(コレって何だろう?)と思ったことについて、時間をかけつつコンパクトな表現にすることに長けている(そのような賜物を主がくださった)だけだと思う。アウトプットがコンパクトなためか、周囲は安直に(そのワザ、簡単にできるんでしょ?)と、膨大な読書課題を押し付けてきたり、非公式カウンセリング的なことを私にしてほしいのか話しかけてきたりすることが多いが、いつも閉口してしまう。私がコンパクトにするのは、単に私のキャパがちっちゃいからで、鈍臭い私でも“身動き”(←文字通りの意味)取れるようにするために意識を明確にする必要に迫られてしているからでしかない。
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<新改訳第三版 コリント人への手紙 第二12章5〜10節>
……私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることの ないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
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6月27日の所属教会の「聖書と祈る会」で読んだ聖句は、コリントの信徒への手紙 二 12章15〜18節だった。教会で読まれたのは新共同訳だが、ここには新改訳第三版の12章15〜17節をコピペる。
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ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。
(引用ここまで)
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昨年9月17日の長丁場の伝道委員会で(実質最後まで残ってたのは、前 伝道委員長と牧師夫人と私だけだったが)、昨年6月より始められた月一の礼拝後の祈り会に対して、(人前で祈ることに慣れていない)教会員から不平が続出しており、長老会でこの祈り会についてもう一度検討するように、と差し戻しがあった旨が伝えられた。そして、「祈ってほしくない」と言う教会員がいると前 伝道委員長はお話しになり、それは教会としておかしいと三人で喧々囂々になった。どうも祈り会が始まった当初、お互いの祈りのニーズを聞かれることがお嫌だったみたいで、私が「プライバシーを晒したくないだけでしょう。『イエス様がその人と一緒にいてくださいますように』と祈られるのも嫌な人がいますか?(そんな人が教会に来ますか?)」と申し上げたら、前 伝道委員長はシーンとされた。私はさらに「あー嫌になっちゃう!私がトラクトで、振り絞るようにして書いてきたことも、教会員には全部迷惑でしかなかったんですかね」と申し上げた。
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[ここからは最近の話]
所属教会では、本当に身も心も使い尽くして働いてるのに、皆さん「あれも考えて〜」「これも考えて〜」ばかりで正直ウンザリする。そうは言っても(まぁニーズがあるのは事実だし……)と真面目に考え始めると、「◯◯さん、私とも遊んで!(教会とは関係ない、純然たる遊びで)」みたいなことを言ってくる人達もいらして、(マジで殺す気か?)と思っちゃう。人が24時間働けるか、あるいは分身の術でも使えるかのような見当違いも甚だしいと思う。こういうことを言うと、ブチ切れる教会員もいらっしゃるだろうが、
<新改訳第三版 ルカの福音書7章31〜35節>
では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」
の聖句を、教会員にはよく噛み締めてほしいと私は思うよ。
こう言うと感謝が無さ過ぎだが、現在の所属教会の交わりに積極的になりたい気持ちがあまり起こらないのは、精神的に搾り取られる一方だという感覚が拭えないからである。教会員の皆さんが慎み深いからなのか知らんが、人に本質的な応答(証し)を求めつつ、ご自分のことはていの良いことしか話したがらないんだよね。
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<新共同訳 マルコによる福音書12章38〜40節>
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
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以前、「がん哲学外来」の提唱者の先生を教会の講演会にお招きした際に、先生が「是非この教会でも『がん哲学外来カフェ』を開いてください」とお勧めされて、その後の伝道委員会でも何度かその件について話し合ったが結局カフェ開設には至らなかった。教会員にもがん罹患者やがんサバイバーはいたが、そういう人達はご自身のがん体験について語りたがらなかったというのが、その開設を妨げた最大の要因である。がん経験者でないある御方ががん哲カフェに一番乗り気で、ある委員会をお辞めになって伝道委員会に移ってこられたほどだったが、程なく事故に遭い、だいぶお身体が弱ってしまったので、それから何となく「がん哲学外来カフェ」の件は立ち消えになった。
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2023年8月6日放送のFEBCの礼拝説教番組で、前掲のマルコによる福音書の律法学者は「やもめの貧しさを自分が尊敬されるための道具に使ってしまっている」と青木豊先生がご指摘なさっていたが、仮に所属教会で強引にがん哲カフェを開いていたとしても、心細い悩みを抱えて縋る気持ちでお越しになるがん患者さんやそのご家族を「食い物」にして、傷を一層深めるだけだっただろうなぁと思う。
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今知り合いが礼拝に来ているが、その人が教会員に搾取されないことを私は祈っている。
詩編119編に対する印象って、受洗後何年かは(無駄に長い……)というのが正直な感想だった。新共同訳などでは節が始まる前に(アルファベットによる詩)とあるし、言葉遊びかよ……!みたいに長いこと思ってた。同じことの言い換えが冗長に続くというか。
でも、今年に入ってからの通読で詩編が回ってきて(読んでいたのは新改訳第三版だが)、色々な細かいところが凄く心に入ってくるのを感じた。
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(ベト)の連にある
119:14「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」
などは、(ギレト)の連では、
119:24「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」
と発展されてて面白いし、
(テト)の連の
119:69〜70「高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。わたしはあなたの教えを楽しみとします。」
の〈偽りで塗り固める〉〈脂肪のように鈍感〉の強烈さは、(カフ)の連では、
119:85「高ぶる者は私のために穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。」
のような懇願にパラフレーズされていってる。
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こうして見ると、「アルファベット(による詩)」って、Aさん、Bさん、Cさん……と色んな人が集って祈ってるってことなのかなぁ、と思った。
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私なんかは、皆さんが聞いてると思うと、人から突っ込まれない完璧な祈り(で、尚且つなるべく心が籠った祈り)をしなきゃ……と、かなり自分にプレッシャーをかけてたんだよなぁ。。でも、皆さんで祈りを繋いで行く時って、自分が部分的にしか触れられなかったことを次の人がカバーしてくれたり、自分はネガティヴにしか祈れなかったことを他の方が執り成すような形で祈ってくれたり、とかって実際あるよね。それこそが、みんなで祈る恵みなんだと思う。
私は普通の会話も、頭で考えないと喋れないほうである。そうして人よりもワンテンポ以上遅れて反応するため、小さい頃などは「もうその話題終わったし」と文句を言われることが多かった。
そんな私だから、祈るのも、内容を前もって考えておくか、考え考えモゴモゴと立ち止まりつつ言葉を選ぶか、でないと祈れない。その点、所属教会の現任の牧師先生は淀みなく祈れる方で、いつも(凄いな。。)と私なんかは見ていた。でも、先生はお父様が牧師先生でお母様もクリスチャンで、という家庭環境でお育ちになり、祈りを幼い頃から目の当たりにされてきたから、あのようにスラスラと祈れるんだろうなぁ、とは思う。
<マタイによる福音書6章6節>で、「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(新共同訳)とイエス様は仰っている。“見せびらかし”の祈りでなく本心を祈りなさい、ということなんだろう。けれど、そういう風に〈密室の祈り〉ができるようになるまでにも、なかなか大変よね、と思う。
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<新共同訳 ルカによる福音書9章18節>
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
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<新共同訳 ルカによる福音書11章1節>
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
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イエス様はよく祈っておいでだが、弟子達が傍にいてただその様子を見守っているということもかなりあったようだ。ルカによる福音書11章では、イエス様と神様の近しさを感じた弟子の一人が、イエス様に祈りを教えてください、と請う。
私には、他の人の祈りを生で聞く機会が沢山必要だったし、また聖書からも、イエス様の祈り、詩編の祈り、預言者の祈り、弟子達の祈りを、沢山浴びることが必要だった。そして今もイエス様に(どう祈ったらいいか分からないよ……!)と訴えていいんだな、と御言葉を読んでるとわかる。
いくら母教会が原理主義的でカルトだったと言っても、本当にみんな御言葉に親しんでいたから、山梨に来て20年以上経った今でも思い入れは強い。今の所属教会はやはりその点では物足りない(他の教会員の中で響いている御言葉に圧倒される経験があまりにも少ないから)。
毎週の日曜礼拝で、旧約はココ、新約はココって纏まった分量を読むからか、皆さん〈エピソード読み〉なんだよなぁ……勿論それも良い面はあるけどね。「福音書しか聴きたくない。手紙の説教は聴きたくない」と牧師にクレームした信徒もいた、と過去の礼拝説教で明かされてたけど、今でこそだいぶ理解できる箇所も増えたとは言え、福音書って正直凄く難しいと私は感じてる。皆さんはそうじゃないのかなぁ??個人的に潤されてる御言葉があるなら分かち合ってくれればいいのに、と私は少し恨めしげに思っちゃう。ほんと、一方的に御言葉を語るばっかりで、私は精神的にカスカスよ……!
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<新共同訳 使徒言行録20章34〜35節>
ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
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まぁ「パウロは圧が強い」って、FEBCの「SessionーーイエスのTuneに合わせて」で塩谷達也さんも長倉さんも仰ってたから、パウロって、所属教会員の多くにとってはウザい存在なのかしら。。。私はパウロがいてくれたから、やっと福音書も立体的に理解できるようになったという感覚がある。
所属教会でもっと御言葉の分かち合いが盛んになりますように。
詩篇って結構、(あらまぁこんなこと祈っちゃって……!)の宝庫だよなぁ。だけど、教会の皆さんの祈りって卒がなくて、ともすると綺麗事に聞こえる。。公の場で、ぶっちゃけの祈りとか、個人的な祈りとか、咎められている人(例えば私など)を見ているから恐れをなしているのかな?
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<新改訳第三版 詩篇35篇19〜28節>
偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ。」と言います。主よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ。私から遠く離れないでください。奮い立ってください。目をさましてください。私のさばきのために。わが神、わが主よ。私の訴えのために。あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは。われわれの望みどおりだ。」と。また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ。」と。私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。
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21節の〈彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ。」と言います。〉なんて、「神様、あいつらこんなこと言ったよ!」ってそのまま言ってるわけでしょう。
金曜日、頑張って働いて帰宅し、雪掻きがあまり進んでいなかったウチの駐車場で、屁っ放り腰になりながら車から降りて荷物など出してたら、近所の子ども達複数が、聞こえよがしに「歩けない」的に噂してる感じだった。
鬱屈を感じたけど、その後に詩篇を読んで安心した。(子どもに馬鹿にされた!)って、素直に祈っていいんだなぁって。
(私がガキなんだろうけど)子どもに怯えてしまうのは、子どもって凄く残酷な側面もあるから。でも、祈りでは、そのムシャクシャをそのまま神様に言っていいんだな、ってこの詩篇35篇とか読んでると分かる。
所属教会の運営が年度計画と委員会ごとの年度予算の振り分けでガチガチに硬直してて、急なニーズが生じた場合にも「計画に無い」で捻り潰してるのって何か、善きサマリヤ人の譬えの「祭司」や「レビ人」の振る舞いに似てるなぁ、とふと思った。
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<新改訳第三版 ルカの福音書10章25〜37節>
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして 逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
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この譬え話の「祭司」や「レビ人」って、別にとりたてて根性の悪い人間だったのではないと思う。それぞれの生活で責任を抱え、それをほっぽり出しているわけにはいかず、足早に過ぎ去ったのだろう。「見捨てた」ことに多少は良心の咎めも感じたかもしれない。
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新年度の計画と予算を組む時期であるが、もう少し柔軟な教会運営ができる仕組み作りをしていってほしいな、と切に願う。
今日は就労継続支援B型の計画相談のモニタリングだった。年始に(就労Bの)「サービス利用計画」のコピーと、半年間のカレンダーの通所記録、および作業所を欠席(あるいは遅刻)した日の日記を照らし合わせていて、やっと理解できた事柄について話した。
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サービス利用計画の[解決すべき課題]の一つは「色々と考えすぎてしまうことに気をつけていきたい」という項目。実はこの意味するところがずっと解らなかった。実際、教会などで私が考えを深めて立案・執筆などしなければ進まない物事も多々ある。でも、(私自身の[解決すべき課題]に対して職員が行うと掲げられている)[支援目標]の、「対人関係やコミュニケーション等、色々なことを円滑に行えるよう支援する」と合わせて考えて、①問題の原因を思い詰めるより、何か手を打っていくのが大切な場面も多いこと、②トラブルの原因は誰のせいかと内心、人を責めたり自分を責めたりするのが不毛なことを、指摘されていたんだと、今年になってやっと解った、そして「考え過ぎるな」と言うのは、マタイによる福音書6章25〜34節の「思い悩むな」(思い煩うな)という意味だったんだな、と解ったと伝えた。
職員さんは私がよくよく振り返って思い至ったことに、とても同意してくださった。
効率とかって自分で物事を行う時には(あるいは自分がチームの一員となって物事進める時には)重要な考え方だけど、「タイパ」って言葉には違和感がある(何か自分はただ消費者で、人をいいように貪り尽くしている感じがする)。あまりにもYouTubeとかが社会に溢れかえっているんで、限られた時間の中では「美味しいとこ取り」をしないとやってられない、というのは分かるが……。CMとかでも「前へ!」みたいな煽る系のをやってると、(あぁ疲れるな、そういう会社にだけは関わりたくないな)と思っちゃう。私はとろくて鈍臭いので、下記のような御言葉を読むと安心する。
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<新共同訳 イザヤ書30章15〜16節>
まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに あなたたちを追う者は速いであろう。
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16節の、焦ってヒートアップしている方々はまぁ「踊らされてる」んだろうな……速くしたって、サタンのカモになるだけなのに。。。
でも、世の中だけじゃなくて、教会運営においても時々こういう切迫感で突き動かされてるけど実は堂々巡り、っつーことが結構あるよね……みんなもっと黙想を大事にすればいいのに。
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<新共同訳 イザヤ書30章15〜16節>
まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに あなたたちを追う者は速いであろう。
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16節の、焦ってヒートアップしている方々はまぁ「踊らされてる」んだろうな……速くしたって、サタンのカモになるだけなのに。。。
でも、世の中だけじゃなくて、教会運営においても時々こういう切迫感で突き動かされてるけど実は堂々巡り、っつーことが結構あるよね……みんなもっと黙想を大事にすればいいのに。
現牧師夫人がかねてから力説していることで、どうも私には腑に落ちない点がある。曰く「子どもが教会に通うにはまず親の心を掴まないと」と。確かにこの地域では物理的に教会に来るためには親による送迎が必要な距離に住んでる子ども達が多いのは事実である。でもそれって、何か信仰的な発想には思えない。子ども自身が教会に魅力を感じてたら、親を巻き込んで来るんじゃないのかな?と私は思うけど。(私の考え方は甘いのかな?)
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<新共同訳 ルカによる福音書 1章39〜45節>
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
* * *
以前、分級が賛美体操みたいなこと(賛美ダンス?)をやってた時は結構盛り上がってたよね、教会学校も。
(作業所の職員で男の子のお母さんは傍から見てると、子どもの野球のためにそこまでする?という感じだったし。)
逆に、親に言われたからということで教会に通う子どもが、その後自発的に周りの子達を教会に誘うか、と言ったら違う気がするけどなぁ。どうなんだろう……?
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<新共同訳 ルカによる福音書 1章39〜45節>
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
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以前、分級が賛美体操みたいなこと(賛美ダンス?)をやってた時は結構盛り上がってたよね、教会学校も。
(作業所の職員で男の子のお母さんは傍から見てると、子どもの野球のためにそこまでする?という感じだったし。)
逆に、親に言われたからということで教会に通う子どもが、その後自発的に周りの子達を教会に誘うか、と言ったら違う気がするけどなぁ。どうなんだろう……?