水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2017年5月分まとめ

2017年05月31日 11時00分56秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆5月1日
ヨハネ18:15〜。大祭司を知る弟子とペテロが、連行された主について行く。大祭司の中庭に入れずにいたペテロのためもう一人の弟子が計らう。門番の女に「あなたもあの人の弟子では」と問われペテロは否認。口利きした人が弟子なのに潔くないが、いざとなれば私もこうか

◆5月2日
ヨハネ19:39。死んだイエスを葬るため、ニコデモは没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。新改訳を見ると百リトラはおよそ30kg。主の生前はかばかしいことのできなかったニコデモも、後にこうして大切な役割を担ったと三浦洋一牧師は記し、私達を励ます

◆5月6日
申命8章。奴隷生活から導き出された民に、満ち足りて主を忘れるなとの警告。私もかつて仕事で忙殺され「監獄に入りたい!」と職場で実際に叫んでいた。発病して親元に連れて来られ、様々な関門を潜り、今は病も寛解して充実した日々。全て主が下さったものと心に刻みたい。

◆5月8日
申命記12:13「あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい」。こんなことが書いてあったんだ。現代に当てはめれば、教会での礼拝を重んじなさい、ということだろうか?ついつい自分の都合を優先にしてしまいがちだが、反省、反省…。

◆5月15日
ステファノ説教中の使徒7:34〈エジプトに遣わそう〉は、NIVでは‘I will send you back to Egypt.’モーセには苦い思い出のある地へ送り返されることだった。神から遣わされたという明確な召命がなければ二の足を踏んだかもしれない。

◆5月18日
教会員に凄く裁く人がいる。まさに〈背負いきれない重荷を人の肩に載せ、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない人〉(マタイ23:4)だが、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)と仰るのだろう。心したい。

◆5月23日
使徒13章のパウロの説教。神がアブラハムを選び出し、出エジプトを経てカナンの地を継がせて下さるまでだけでも、450年もの歳月が流れている!(使徒13:17〜20)ならば、主の約束の実現が遅いと考えるのは極めて人間的な見方だと分かる。(Ⅱペトロ3:4〜9)

◆5月29日
後継者ヨシュアは恵まれていたように思える。モーセの葦の海での奇跡が、ヨシュアの導きによりヨルダン川でも再現する。4:14に全イスラエルは生涯ヨシュアを敬ったとある。5:13〜の抜き身の剣を持った主の軍の将軍は、そんなヨシュアが高ぶらぬよう送られたのかも。
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一首鑑賞(44):小川玲「残菜を食みて生くるは」

2017年05月17日 14時43分18秒 | 一首鑑賞
飽食の人ら捨てたる残菜を食みて生くるは神かも知れず
小川玲『ことぶれ』


 トルストイの民話を元にした『くつやのマルチン』という絵本がある。夜毎の日課に聖書を読んでいたマルチン。ある晩寝入りばなのマルチンに「あした、おまえのところへいくよ」と囁く声が。しかし翌日現れたのは、雪かきをしていた老人、赤ちゃんを抱いて寒そうにしていた女性、お腹がへってリンゴを盗んでしまった少年と、その少年を叱りつけるリンゴ売りのおばあさんだった。その夜、あの声は何だったのか…と考えていたマルチンに再び「わたしがわかったかね」という声が聞こえ、日中マルチンと会話した四人の姿がつと現れては消えていった。マルチンが聖書を開くと「わたしのきょうだいであるちいさいもののひとりにしたことは わたしにしたことである」(マタイによる福音書25章40節)の御言葉が目に留まる。知らずに神様をもてなしていたことに気づいて心から満たされたマルチンだった——。
 この聖句を少し遡って見てみよう。25章35〜36節に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と王は正しい人達に呼びかける。王をお世話した覚えがなく戸惑う彼らに告げられたのが、先の「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉だ。このように神は私達一人一人を慈しみ、その痛みを共に痛み、私達の慰めを無上の喜びとして感じて下さるお方なのである。
 さて、掲出歌の歌意は曇りがない。食べ残され捨てられた食事を漁って糊口を凌ぐ人達に、私達は大抵無関心で、冷ややかでさえあるだろう。しかし、私達が奢りのゆえに出した残飯を、干からびた心で頬張っているのは神ではないのか——。真摯な眼差しである。この歌は、あるいは『くつやのマルチン』の深意を逆側から照射したものと言えるかもしれない。残菜を無心に食する人、貧困で喘ぐ人——神は常にその人達の側にいるのである。
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固まったPCに。

2017年05月11日 16時24分25秒 | 風景にあわせて
断末魔かとつぶやけば喫煙所より響きくる朋の哄笑
(とど)

2017年1月25日 作歌。
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一首鑑賞(43):筒井富栄「病廊もはなれてみれば輝いて」

2017年05月03日 14時38分14秒 | 一首鑑賞
病廊もはなれてみれば輝いて降誕祭(イブ)のかざりのひとつにみえる
筒井富栄『風の構図』


 筒井富栄の短歌は自身が「軽短歌」と形容した通り、人を惹き込む軽音楽のような韻律が一つの魅力となっている。アントニオ・カルロス・ジョビンが作詞作曲した「三月の水」を彷彿とさせるような、名詞を連ねた歌などはその考え抜かれた単語選びと相俟って、鮮やかな印象を与えるものだ。筒井は、シャンソンの歌詞を勉強したことがあったと歌人の稲葉京子に話していたそうで、宜なるかなと思わせる。
 そうした気構えを映して、筒井の作歌人生の前半においては私生活を素材にした歌が極めて少ない。だが生前最後の歌集『風の構図』になると、軽やかな詠い口は健在ながら、境涯を淡く写し取った歌も見え始める。それはちょうど、パーキンソン病の発症と時期が重なる。掲出歌も、病を背景に詠まれた歌であることを読み手に感じさせつつも、その風通しの良さには目を見張るものがある。

  わが窓を覆いてゆれる月桂樹勝利のときを思いてねむる

 この歌も、身の不如意からはおよそ遠いところから始まり、結句「思いてねむる」まで読んで初めて、詠われた「勝利」が今は手中になく遥かに憧れ止まぬものなのだと言外に知れる。筒井の自由な精神をよく表した歌と言っていいだろう。主による勝利の凱旋を高らかに謳った讃美歌「勝利をのぞみ」(『讃美歌21』では471番)も思い起こされてくる。

   勝利をのぞみ 勇んで進もう、
   大地ふみしめて。
   ああ、その日を信じて
   われらは進もう。

 「勝利をのぞみ」の引照聖句で最初に記されているのが、ヨハネによる福音書16章33節である。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
 さて、掲出歌を生み出した筒井は実際にクリスマス前の病棟内にいたのだろう。けれど筒井の自在な魂は病院を抜け出し離れたところにいて、闇の中で病廊の明るく輝く様を眺めている。あるいは俯瞰していたとも考えられ、それはまさしく天使的な高みである。そんな筒井の目には、病棟の中にいる人々の疾病も、いずれ勝利の渦に飲み込まれる希望へと隣接して見えたのかもしれない。
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観たい放題。

2017年05月01日 15時38分37秒 | 人[その作品]に寄せて
がっぷりとテレビの前にかじりつき椅子あたためる歳晩の兄
(とど)

2014年12月29日 作歌、2017年2月下旬 改訂。
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