◆8月2日
コリント二4:7「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」完璧主義って自分の義を求めることだな…欠けがあるからこそ、内に棲む光がそこから外に現れるのに
◆8月4日
新改訳第二コリ5:16「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」。この〈人〉には自分も含まれるんだな。間違ったことを言い行う自分を、つい後から弁解がましく訂正したくなるけど、主は「新しく造られた者」(17節)として私を見ているんだな
◆8月12日
コリント二12:9「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」の〈宿る〉は、新改訳では〈おおう〉。5:14「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」は〈取り囲んでいるから〉。主の愛に覆われ、私達は生きられる。
◆8月13日
エレミヤ7:25「…今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした」。新改訳では「…すべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送った」と具体的。私達の朝毎の黙想にも、預言者が揃って駆け付けてくれているのを想像して勇気が出た
◆8月14日
エレミヤ8:7「山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」の〈渡る〉は新改訳では〈帰る〉。悔い改めの姿を「『私はなんということをしたのか』と言って…」と描く新改訳6節。どんな大きな罪も人が主に帰る妨げにはならぬと分かる
◆8月19日
新改訳エレミヤ14:19「あなたはユダを全く退けたのですか。…なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか」。彼を滅ぼそうと企んでいた民に一時は憤ったエレミヤだが(11:18〜20)、矛を収め却って民のために執り成しをする。なかなかこうはできない
◆8月20日
エレミヤ15:11は訳により解釈が分かれる(英訳も然り)。私達は今は御言葉を朧げに解るのみ(コリント一13:12)。だからこそ「あなたの御言葉が見いだされたときわたしはそれをむさぼり食べました。…わたしの心は喜び躍りました」(16節)の真実さも切に感じる
◆8月27日
エレミヤ24:7「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」。神様を信じる心は、他ならぬ神様ご自身によって与えられる。私達の力でどうこうできるものではない。ただ私達にできるのは、人にもまた自分自身にも主の顧みがあるよう祈ることだけ。
◆8月29日
エフェソ4:29「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。あっちゃ〜やってしまった…という感じ。まさに「聖霊を悲しませて」るよ…。神様ごめんなさい(その人も)
◆8月30日
エレミヤ29:24〜32を読むと、エレミヤが他の預言者から狂人扱いされ捕らえられるべきと言われていたと分かる。気が変になったという噂に身内にも疑われ、悪霊に取り憑かれたと陰口を叩かれたイエス(マルコ3:21〜22)は、同時代でないエレミヤに想いを馳せたかも
コリント二4:7「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」完璧主義って自分の義を求めることだな…欠けがあるからこそ、内に棲む光がそこから外に現れるのに
◆8月4日
新改訳第二コリ5:16「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」。この〈人〉には自分も含まれるんだな。間違ったことを言い行う自分を、つい後から弁解がましく訂正したくなるけど、主は「新しく造られた者」(17節)として私を見ているんだな
◆8月12日
コリント二12:9「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」の〈宿る〉は、新改訳では〈おおう〉。5:14「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」は〈取り囲んでいるから〉。主の愛に覆われ、私達は生きられる。
◆8月13日
エレミヤ7:25「…今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした」。新改訳では「…すべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送った」と具体的。私達の朝毎の黙想にも、預言者が揃って駆け付けてくれているのを想像して勇気が出た
◆8月14日
エレミヤ8:7「山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」の〈渡る〉は新改訳では〈帰る〉。悔い改めの姿を「『私はなんということをしたのか』と言って…」と描く新改訳6節。どんな大きな罪も人が主に帰る妨げにはならぬと分かる
◆8月19日
新改訳エレミヤ14:19「あなたはユダを全く退けたのですか。…なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか」。彼を滅ぼそうと企んでいた民に一時は憤ったエレミヤだが(11:18〜20)、矛を収め却って民のために執り成しをする。なかなかこうはできない
◆8月20日
エレミヤ15:11は訳により解釈が分かれる(英訳も然り)。私達は今は御言葉を朧げに解るのみ(コリント一13:12)。だからこそ「あなたの御言葉が見いだされたときわたしはそれをむさぼり食べました。…わたしの心は喜び躍りました」(16節)の真実さも切に感じる
◆8月27日
エレミヤ24:7「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」。神様を信じる心は、他ならぬ神様ご自身によって与えられる。私達の力でどうこうできるものではない。ただ私達にできるのは、人にもまた自分自身にも主の顧みがあるよう祈ることだけ。
◆8月29日
エフェソ4:29「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。あっちゃ〜やってしまった…という感じ。まさに「聖霊を悲しませて」るよ…。神様ごめんなさい(その人も)
◆8月30日
エレミヤ29:24〜32を読むと、エレミヤが他の預言者から狂人扱いされ捕らえられるべきと言われていたと分かる。気が変になったという噂に身内にも疑われ、悪霊に取り憑かれたと陰口を叩かれたイエス(マルコ3:21〜22)は、同時代でないエレミヤに想いを馳せたかも
わが句載る お茶のボトルを
ダンベルのように振る君と
雑談少し
(とど)
2012年10月14日 作歌、2016年8月28日 改作。
ダンベルのように振る君と
雑談少し
(とど)
2012年10月14日 作歌、2016年8月28日 改作。
夕餉終え ひとり雀牌 混ぜる弟(おと)
夜もこうこうと 灯りが点る
(とど)
2010年10月6日 作歌、2016年8月20日 改訂。
夜もこうこうと 灯りが点る
(とど)
2010年10月6日 作歌、2016年8月20日 改訂。
キング・オブ・キングス 死への歩みでも踵から金の砂をこぼして
服部は2013年の歌壇賞(本阿弥書店主催)を受賞した歌人である。受賞の数年前から短歌総合誌各誌の新人賞に精力的に応募して注目を集めていた。
服部は、『短歌』2015年4月号(KADOKAWA)には、後々まで大きな波紋を呼んだ「塩と契約」七首を、また2016年には芥川賞候補にノミネートされた今村夏子の「あひる」を収録した『文学ムック たべるのがおそい vol.1』(書肆侃侃房)に、「ルカ」という連作を、それぞれ載せている。
これらの連作タイトルからも察せられるように、服部にキリスト教のバックグラウンドがあるのは明白だが、服部自身は短歌の内に表現する場合を除いて、そのことには特に言及しない。しかしながら、自身の受賞の一年前の歌壇賞応募作「オルガンと春」(『歌壇』2012年2月号に候補作として掲載)を読むと、キリスト教の影響は主に母親との関わりによって得られたものらしいことが分かる。掲出歌を読み解くために、その「オルガンと春」からもいくつか拾ってみたい。
人々の形整った耳並ぶ深夜のミサへ遅れて入る
舶来のパイプオルガンかの国の春はまばゆい筒なのだろう
母親は譜面をめくる積もらない雪を見るときする表情で
ここでは省いた一首の詞書には、母親が教会のオルガンの奏楽者であることが明かされている。そのことを念頭に掲出歌を見てみよう。
「キング・オブ・キングス」——これは、有名なヘンデルのメサイアのハレルヤコーラスからの一節であり、聖書にもヨハネの黙示録などに「王の王」として出てくる。神に敵対する勢力と戦い、勝利する主を誉め称える賛辞である。服部はそう高らかに詠い出しておき、「死への歩みでも」と鋭角な方向転換をする。これはイエス・キリストの十字架への道行きのことを言うのであろう。下句の「踵から金の砂をこぼして」が精緻を極める。創世記3章には、天地創造の最後に造られた男と女が、蛇にそそのかされて知恵の木から実を食べてしまうエピソードが語られる。この下の句は、二人をエデンの園から追放する前に神が蛇に向かって語った言葉を思い起こさせる。曰く「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」(創世記3章15節)。創世記において始まった、蛇すなわちサタンと、人との対立は、イエスの時代にまでもつれ込む。蛇は女の子孫であるイエスの踵を砕くが、イエスは蛇の頭を砕く——。
十字架を背負って歩む道々、また十字架に架けられてからも、イエスは群衆に罵声を浴びせ続けられ、あたかも主の命運は尽きたかのように思われた。主の踵にはしっかりと蛇が食らいついていた——。しかし、服部はそのイエスの踵からまばゆいばかりの光が零れているのを、後代にあってありありと見たのである。これは目も醒めるばかりの信仰告白の歌ではないか。
服部真里子『行け広野へと』
服部は2013年の歌壇賞(本阿弥書店主催)を受賞した歌人である。受賞の数年前から短歌総合誌各誌の新人賞に精力的に応募して注目を集めていた。
服部は、『短歌』2015年4月号(KADOKAWA)には、後々まで大きな波紋を呼んだ「塩と契約」七首を、また2016年には芥川賞候補にノミネートされた今村夏子の「あひる」を収録した『文学ムック たべるのがおそい vol.1』(書肆侃侃房)に、「ルカ」という連作を、それぞれ載せている。
これらの連作タイトルからも察せられるように、服部にキリスト教のバックグラウンドがあるのは明白だが、服部自身は短歌の内に表現する場合を除いて、そのことには特に言及しない。しかしながら、自身の受賞の一年前の歌壇賞応募作「オルガンと春」(『歌壇』2012年2月号に候補作として掲載)を読むと、キリスト教の影響は主に母親との関わりによって得られたものらしいことが分かる。掲出歌を読み解くために、その「オルガンと春」からもいくつか拾ってみたい。
人々の形整った耳並ぶ深夜のミサへ遅れて入る
舶来のパイプオルガンかの国の春はまばゆい筒なのだろう
母親は譜面をめくる積もらない雪を見るときする表情で
ここでは省いた一首の詞書には、母親が教会のオルガンの奏楽者であることが明かされている。そのことを念頭に掲出歌を見てみよう。
「キング・オブ・キングス」——これは、有名なヘンデルのメサイアのハレルヤコーラスからの一節であり、聖書にもヨハネの黙示録などに「王の王」として出てくる。神に敵対する勢力と戦い、勝利する主を誉め称える賛辞である。服部はそう高らかに詠い出しておき、「死への歩みでも」と鋭角な方向転換をする。これはイエス・キリストの十字架への道行きのことを言うのであろう。下句の「踵から金の砂をこぼして」が精緻を極める。創世記3章には、天地創造の最後に造られた男と女が、蛇にそそのかされて知恵の木から実を食べてしまうエピソードが語られる。この下の句は、二人をエデンの園から追放する前に神が蛇に向かって語った言葉を思い起こさせる。曰く「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」(創世記3章15節)。創世記において始まった、蛇すなわちサタンと、人との対立は、イエスの時代にまでもつれ込む。蛇は女の子孫であるイエスの踵を砕くが、イエスは蛇の頭を砕く——。
十字架を背負って歩む道々、また十字架に架けられてからも、イエスは群衆に罵声を浴びせ続けられ、あたかも主の命運は尽きたかのように思われた。主の踵にはしっかりと蛇が食らいついていた——。しかし、服部はそのイエスの踵からまばゆいばかりの光が零れているのを、後代にあってありありと見たのである。これは目も醒めるばかりの信仰告白の歌ではないか。
屋根裏に 転がる音は ビー玉か
帰省の兄の さえぎる眠り
(とど)
2009年12月28日 作歌、2016年8月12日 改作。
帰省の兄の さえぎる眠り
(とど)
2009年12月28日 作歌、2016年8月12日 改作。
病めば人は何故と心を追いつめる 病気は誰のせいでもないよ
永田は大学の研究室で細胞生物学の研究をしている。この第三歌集に収められた歌が紡ぎだされていった期間は、永田にとって人生の一大転機であったようだ。まず目の手術を受け、それが少し落ち着いたかと思う頃、心臓の手術を受ける羽目になったらしい。
風景が見えくるまでに回復す 季節がないようだった去年は
たんたんと木が生えていて銀鼠(ぎんねず)の樹皮の光が見えてくること
拳ほどの大きさという 親指をいれて握りし手をあててみる
電子音すなわち私の脈なりと気づくまでには数時間経つ
あとがきで永田は「人間の精神というもの、生死ということを、折にふれ思った時期でもあった。それらを考えるための言葉の一助となる、生命科学を専攻したことはよい選択だったと思う」と振り返っている。
歌集中にはこんな歌も収められている。
体内の物質の量がこれほどに心を制御するものなのか
術後の経過で自分の身の内より立ち上がってくる精神の揺らぎに戸惑いを隠せない様子が見て取れる。研究者としての日々に戻りながらも、こうした動揺はふとした時に表に現れる。
瞑るとき、瞠るとき目は無防備にこころ晒しぬ白衣のうちより
その上で掲出歌を見てみたい。
ヨハネによる福音書9章に、イエスが生まれつきの盲人を癒す話が出てくる。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問う弟子達にイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになり、病気を癒された。
病気を患って、自分を深く問い詰めてしまうケースは少なくない。事によると永田自身もそのような心境に陥ったのだろうか。しかし病状から徐々に回復して、周りの病む人達の話を見聞きし、また研究者として人の生死に関わる仕事に就きつつ、永田は首掲の一首を産み落とした。《病気は誰のせいでもないよ》——独り言のようでもあり、友人に話しかけているようでもある。あるいは先のイエスの御言葉も、そんなざっくばらんな言葉であったかもしれないと、私は密かに思う。
永田紅『ぼんやりしているうちに』
永田は大学の研究室で細胞生物学の研究をしている。この第三歌集に収められた歌が紡ぎだされていった期間は、永田にとって人生の一大転機であったようだ。まず目の手術を受け、それが少し落ち着いたかと思う頃、心臓の手術を受ける羽目になったらしい。
風景が見えくるまでに回復す 季節がないようだった去年は
たんたんと木が生えていて銀鼠(ぎんねず)の樹皮の光が見えてくること
拳ほどの大きさという 親指をいれて握りし手をあててみる
電子音すなわち私の脈なりと気づくまでには数時間経つ
あとがきで永田は「人間の精神というもの、生死ということを、折にふれ思った時期でもあった。それらを考えるための言葉の一助となる、生命科学を専攻したことはよい選択だったと思う」と振り返っている。
歌集中にはこんな歌も収められている。
体内の物質の量がこれほどに心を制御するものなのか
術後の経過で自分の身の内より立ち上がってくる精神の揺らぎに戸惑いを隠せない様子が見て取れる。研究者としての日々に戻りながらも、こうした動揺はふとした時に表に現れる。
瞑るとき、瞠るとき目は無防備にこころ晒しぬ白衣のうちより
その上で掲出歌を見てみたい。
ヨハネによる福音書9章に、イエスが生まれつきの盲人を癒す話が出てくる。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問う弟子達にイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになり、病気を癒された。
病気を患って、自分を深く問い詰めてしまうケースは少なくない。事によると永田自身もそのような心境に陥ったのだろうか。しかし病状から徐々に回復して、周りの病む人達の話を見聞きし、また研究者として人の生死に関わる仕事に就きつつ、永田は首掲の一首を産み落とした。《病気は誰のせいでもないよ》——独り言のようでもあり、友人に話しかけているようでもある。あるいは先のイエスの御言葉も、そんなざっくばらんな言葉であったかもしれないと、私は密かに思う。