◆3月3日
<新共同訳 詩編119編71節>
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
↓ ↓ ↓
しばらくこれが私のテーマになりそう。でも主の前に低められるのは、呪縛からの解放なんだ。懺悔って世間からは屈辱的なものと見られてるふしがあるけど、全くそうじゃない。
◆3月10日
小3の時、クラスで男子Y君と女子Oさんが喧嘩を始めた。最初は言い争いだったが、そのうち互いに殴り始めた。それで教室中が騒ぎになり、男子生徒達が「◯◯(私)は最初から見ていた」と私に証言を求めた。私も本当に最初から見ていたかは怪しかったが「喧嘩をどちらから始めたかは分からないけど、先に手を出したのはOさんだった」と言った(本当はそれすらも分からないのに偽証したのだ)。Oさんは「違う、私じゃない」と泣いた。私がOさんの肩を持てば、後で男子連から虐めを(下手すれば暴力を)受けるのを恐れ、私はY君を立てたのである(男性がいかに暴力的か、家でよく分かってたから。そういう男性は卑劣だが、保身に走った私も卑怯だった)。私ははっきり「分からない」と言えば良かったのかもしれない。でもそれはそれで男子達から卑怯者呼ばわりされたろう。紀元1世紀、祭司長らに扇動された群衆が囚徒バラバの釈放を求め、イエスを十字架につけるよう叫んだ時、暴動が起こりそうなのを見た総督ピラトが、水を取り寄せて手を洗い、私には責任がないと言いつつ、 イエスを十字架刑のため引き渡した(マタイ福音書27:15-26)のと、私は同じだ。マルコ福音書15:15では「ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した」と(新改訳第三版)。私がもしイエスの時代・地域に生きていれば、私はその日和見で確実にイエスを十字架につけたろう。
◆3月19日
所属教会の牧師先生が罪について説教する時、「我儘」に収斂させる傾向が。まぁ究極的にはそうかもしれぬが、聴き手にあまり良い影響をもたらしてないなと。日常で(これって我儘?)と思った気持ちを押し殺して無かったかのように振る舞ったり、他人や上の人への追従を推奨する結果に終わってる感が。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ルカ福音書9章23〜25節>
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
* * *
この聖句が苦手な方は(信徒でも)多いと思う(かく言う私も長らくそうだった)。「自分を捨てる」は自分の感情・個性・趣味etc.を抹殺することではなく、我流を通すのを諦めること。その意味では「我儘」を捨て人の意見も聞くことにはなろう。だがルカ9:23を基に思考停止を促してるなら、私は抗議する。9:25「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」に注目。23節で「自分を捨て…なさい」と言いつつ、「自分自身を失」うな、と。神様は一人一人を慈しんで創造された。決して誰かの奴隷にするためじゃない。主が私に賜った特別なものを愛おしむことを神は喜んで下さるのだ。
◆3月27日
佐藤弓生さんのこの言葉(下記)には昔は反論できず。
* * *
[祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。]
* * *
祈ってるアピールして責任取ったかに思ってる信徒が多いのは事実かと。
* * *
若い頃は、何したらいいか判らなかった。目標も無かったし、何かすればしたこと全てを頭ごなしに否定されてきたから。だから、受洗し、聖書を読み祈る日課ができたのは助かった。今は色々経験も重ね、単なる我欲に拠らない、すべきこと/したいことが生じて(膨れ上がり)収拾つかなくなり、身動き取れずぶっ倒れる場合が多々。そして臥しつつ祈る(どうしたらいいですか?何が優先ですか?それとも今は思い巡らす時ですか?と)でなければ、身動きできぬ己を責め続けてしまう筈。
* * *
<新共同訳 テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
<新共同訳 詩編119編71節>
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
↓ ↓ ↓
しばらくこれが私のテーマになりそう。でも主の前に低められるのは、呪縛からの解放なんだ。懺悔って世間からは屈辱的なものと見られてるふしがあるけど、全くそうじゃない。
◆3月10日
小3の時、クラスで男子Y君と女子Oさんが喧嘩を始めた。最初は言い争いだったが、そのうち互いに殴り始めた。それで教室中が騒ぎになり、男子生徒達が「◯◯(私)は最初から見ていた」と私に証言を求めた。私も本当に最初から見ていたかは怪しかったが「喧嘩をどちらから始めたかは分からないけど、先に手を出したのはOさんだった」と言った(本当はそれすらも分からないのに偽証したのだ)。Oさんは「違う、私じゃない」と泣いた。私がOさんの肩を持てば、後で男子連から虐めを(下手すれば暴力を)受けるのを恐れ、私はY君を立てたのである(男性がいかに暴力的か、家でよく分かってたから。そういう男性は卑劣だが、保身に走った私も卑怯だった)。私ははっきり「分からない」と言えば良かったのかもしれない。でもそれはそれで男子達から卑怯者呼ばわりされたろう。紀元1世紀、祭司長らに扇動された群衆が囚徒バラバの釈放を求め、イエスを十字架につけるよう叫んだ時、暴動が起こりそうなのを見た総督ピラトが、水を取り寄せて手を洗い、私には責任がないと言いつつ、 イエスを十字架刑のため引き渡した(マタイ福音書27:15-26)のと、私は同じだ。マルコ福音書15:15では「ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した」と(新改訳第三版)。私がもしイエスの時代・地域に生きていれば、私はその日和見で確実にイエスを十字架につけたろう。
◆3月19日
所属教会の牧師先生が罪について説教する時、「我儘」に収斂させる傾向が。まぁ究極的にはそうかもしれぬが、聴き手にあまり良い影響をもたらしてないなと。日常で(これって我儘?)と思った気持ちを押し殺して無かったかのように振る舞ったり、他人や上の人への追従を推奨する結果に終わってる感が。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ルカ福音書9章23〜25節>
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
* * *
この聖句が苦手な方は(信徒でも)多いと思う(かく言う私も長らくそうだった)。「自分を捨てる」は自分の感情・個性・趣味etc.を抹殺することではなく、我流を通すのを諦めること。その意味では「我儘」を捨て人の意見も聞くことにはなろう。だがルカ9:23を基に思考停止を促してるなら、私は抗議する。9:25「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」に注目。23節で「自分を捨て…なさい」と言いつつ、「自分自身を失」うな、と。神様は一人一人を慈しんで創造された。決して誰かの奴隷にするためじゃない。主が私に賜った特別なものを愛おしむことを神は喜んで下さるのだ。
◆3月27日
佐藤弓生さんのこの言葉(下記)には昔は反論できず。
* * *
[祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。]
* * *
祈ってるアピールして責任取ったかに思ってる信徒が多いのは事実かと。
* * *
若い頃は、何したらいいか判らなかった。目標も無かったし、何かすればしたこと全てを頭ごなしに否定されてきたから。だから、受洗し、聖書を読み祈る日課ができたのは助かった。今は色々経験も重ね、単なる我欲に拠らない、すべきこと/したいことが生じて(膨れ上がり)収拾つかなくなり、身動き取れずぶっ倒れる場合が多々。そして臥しつつ祈る(どうしたらいいですか?何が優先ですか?それとも今は思い巡らす時ですか?と)でなければ、身動きできぬ己を責め続けてしまう筈。
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<新共同訳 テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
前回「最近飲んでいるもの」の記事を書いたのは、約11ヶ月前である。その時は、乳がんのホルモン療法の中断から1年3ヶ月ほど経った頃で、カフェイン入りの紅茶のまとめ買いをストップして、自分の体調への影響などを探っていた。まだまだ暗中模索感が拭えず、この11ヶ月前の記事は謂わば途中経過報告といった体であった。その後も自分の身体の情況に応じて色々試し、この半年ほどでやっと軌道に乗ってきた感覚がある。
それで、今現在私が飲んでいるものの写真をupする。
① プリムビーンズの「ウガンダ ブルーナイル」(コーヒー)
② ロプチューの「(ロプチュー茶園)ダージリン オレンジピコー」(紅茶)
③ ロプチューの「ミントティー」(紅茶+ハーブ)
④ 山陽商事の「オーガニック ルイボスティー」〈ティーバッグ〉
⑤ 伊藤園の「ジャスミン茶」〈ティーバッグ〉
⑥ 伊藤園の「お~いお茶 緑茶 ティーバッグ」
⑦ トワイニングの「ルイボス セレクション」〈ティーバッグ〉
⑧ CGCの「やさしい紅茶」〈ティーバッグ〉
一瞥して「あれ?」とお気づきになる方もいるかもしれない。実は昨年末発売の福袋から、ルピシアのそれを購入するのは止めている。どうもホルモン治療を中止してから、日中の眠気・懈さが強く出るようになり、ローカフェイン・ノンカフェインのお茶を中心に飲んでいると身体の具合が保てなくなってきたのである。それに再びロプチューでカフェイン入りの紅茶を買い出してからも、珈琲と紅茶だけでは神経がややカーッとしてしまう感じがあり、どうにもジャスミンティーが手放せなくなってきた。そうして珈琲・紅茶・ジャスミンティー……と色々飲んでいると、どうしてもローカフェイン・ノンカフェインのお茶は余ってきてしまう。そこでよくよく考えた末に福袋は止めた。今は花粉の時期なので、その対策としてルイボスティーは近所のスーパーで買っている。
最近は一日のうちにどんな感じで飲んでいるかを簡単に記しておく。まず朝起きて飲むのは、④か⑤である(花粉による頭痛・鼻水が酷い時は④から、微妙にテンションが高いながらも眠気が強いような時は⑤から淹れる)。二杯目は①を飲む。そして三杯目は、一杯目に手を出さなかった方の④or⑤を飲む。これでだいぶ体調が整ってくる。朝はこの三種を代わる代わる六、七杯飲む(それぞれを二、三煎淹れる)。出かける日は、ポットで②を淹れてマイボトルに詰めて持っていく(最高気温が20℃を超える予想が出ている時は、朝4時半〜5時程度の時点でハンディクーラーに②の水出しをセットしておき、マイボトルに入れて持っていく)。通所の場合は、併せて⑦⑧をショルダーバッグのポケットに忍ばせて行く。③⑥は、今のところは帰宅後や、一日家にいる時などに飲んでいる。
……と書いてくると、そんな計画的なのか!息が詰まりそう!!とドン引きされそうだが、これはあくまでも私の体調管理のために作り上げたペースであり、身体の声を聞きながら、時に臨機応変にやっている。
花粉症や眠気、懈さなどでお悩みの皆さん、ご自分の心身に合った健康対策を見つけてくださいね。
上手いけど(So what?)って思っちゃう 訥弁のマイルスに敵わぬ
(とど)
2022年3月20日 作歌。
*上句は題
(とど)
2022年3月20日 作歌。
*上句は題
黄昏にヘルプの声がこだまする(どうか単なる幻聴であって)
(とど)
2022年3月20日 作歌。
*上句はお題
(とど)
2022年3月20日 作歌。
*上句はお題
外出は禁止となりて二年過ぎ窓に見上ぐる雲に乗りたし
とても平明ながら胸を打つ一首である。おそらくご高齢の方で施設などに入所されていて、コロナウイルス感染症の拡大により外出の禁止が課されているのだろう。ご自分が出かけられないだけでなく、今はご家族の方々との面会もできない所が殆どと聞く。施設内に籠って鬱々と部屋の窓から外を眺め、雲が空を自在に動いていく様に遠く憧れるような情感が言い表されていて切実である。
雲は身近に神の存在を感じさせる風物だと思う。私は20代の頃から雲を眺めるのが好きだった。雲は傍目にはゆっくり動いているように見えるが、その実結構なスピードで進んでいる。神様が働かれる時というのはそれに似ていて、遅々として一向に進まぬと見えたものが急に展開する感じがする。
有名な詩編18編の10〜11節「主は天を傾けて降り 密雲を足もとに従え ケルブを駆って飛び 風の翼に乗って行かれる」は、新改訳第三版では「主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた」(9〜10節)となっている。「天を押し曲げて」でも降りて来られたというのは、相当なことではないだろうか。神様は、あまりにも私達を愛していて、その一番大切な御子を地上に降ろしてくださったのだ。18篇19節(新改訳)では「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから」と書かれている。
コロナ禍がいつ収束するか、先は見えない。閉鎖された空間の中で、ジリジリとした焦燥感に包まれて生活している方も多いに違いない。私は、その方々に何もできない無力な者である。ただ、窓から見える空の青さや陽射しの確かさ、雲の形などが、天の父なる神様から来るものとして、安らぎが感じられますようにと願うばかりである。一つ詩篇の御言葉を引いて、結びに代えたい。
* * *
主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。(新改訳第三版 詩篇33篇22節)
小林捷恵(『信徒の友』2022年2月号「読者文芸」欄より)
とても平明ながら胸を打つ一首である。おそらくご高齢の方で施設などに入所されていて、コロナウイルス感染症の拡大により外出の禁止が課されているのだろう。ご自分が出かけられないだけでなく、今はご家族の方々との面会もできない所が殆どと聞く。施設内に籠って鬱々と部屋の窓から外を眺め、雲が空を自在に動いていく様に遠く憧れるような情感が言い表されていて切実である。
雲は身近に神の存在を感じさせる風物だと思う。私は20代の頃から雲を眺めるのが好きだった。雲は傍目にはゆっくり動いているように見えるが、その実結構なスピードで進んでいる。神様が働かれる時というのはそれに似ていて、遅々として一向に進まぬと見えたものが急に展開する感じがする。
有名な詩編18編の10〜11節「主は天を傾けて降り 密雲を足もとに従え ケルブを駆って飛び 風の翼に乗って行かれる」は、新改訳第三版では「主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた」(9〜10節)となっている。「天を押し曲げて」でも降りて来られたというのは、相当なことではないだろうか。神様は、あまりにも私達を愛していて、その一番大切な御子を地上に降ろしてくださったのだ。18篇19節(新改訳)では「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから」と書かれている。
コロナ禍がいつ収束するか、先は見えない。閉鎖された空間の中で、ジリジリとした焦燥感に包まれて生活している方も多いに違いない。私は、その方々に何もできない無力な者である。ただ、窓から見える空の青さや陽射しの確かさ、雲の形などが、天の父なる神様から来るものとして、安らぎが感じられますようにと願うばかりである。一つ詩篇の御言葉を引いて、結びに代えたい。
* * *
主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。(新改訳第三版 詩篇33篇22節)
電通へ部長がわが言受け売りすなんて陽気な情報漏洩
(とど)
2021年11月7日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2021年11月7日 作歌。
*下句はお題
あなたには別の曜日があるからね土曜に行けば迷惑がる医師
(とど)
2022年1月16日 作歌。
*上句はお題
(とど)
2022年1月16日 作歌。
*上句はお題
控えめに服の裾引く小さな手(だから、私はイエスじゃないって)
(とど)
※マルコによる福音書5章25〜29節
2022年3月13日 作歌。
*上句はお題
(とど)
※マルコによる福音書5章25〜29節
2022年3月13日 作歌。
*上句はお題
アラームを止めた手でするエゴサーチ 画像のキャッシュ切り替わらない
(とど)
2022年1月30日 作歌
*上句はお題
(とど)
2022年1月30日 作歌
*上句はお題