◆9月19日
2021年8月10日に私はTwitterで「お盆休み中に、自前の写真に聖句を添えたポストカードをいくつか作ろうかな(趣味と実益)。実益、って言っても売りませんよ。トラクトとFEBC番組表を『信徒の友』に載ってる教会宛てに発送する際の、〈便箋〉代わりにするだけで。」とツイートしていた。だが、Twitterの相互フォローの方の昨年11月初旬のツイート見て、私は2022年度計画としてウチの教会でもアドヴェント期間のミニバザーできないかと、昨年11月末に長老の一人に提案した。言い出しっぺとして、私は自作の聖句ポストカードを出品・販売しようかと(勿論、販売に当たっては日本聖書協会に許諾取り、使用料も自腹で払うつもりで)。長老会ではそのミニバザーの提案を前向きにご検討下さったが、今年の教会研修会で牧師先生が「個人の責任でチャリティバザーを」と伝道の一案として仰ってて、あぁそういう伝わり方なんだなと。まぁ私も「カード販売します」と宣言してたわけではないし、教会側に手間と経済的な負担が来るのは困るという先生の立場も解った。それで©︎をポストカードの宛名面下方に入れたり、日本聖書協会(JBS)に許可願いの連絡入れたりの作業を、8月下旬〜9月上旬に予定にしてたが、私事の進展があり、また9月初めにプリンタが作動しなくなって、著作権業務は延ばし延ばしに。でも何とか純正インクを購入して、トラクト+FEBC番組表の発送が軌道に乗ってきたので、さぁJBSへの連絡もそろそろ……と思ってた矢先に、ウチの教会の計画性の無いメッセージカード封入(長期欠席者への週報発送時に)の思いつきが。そもそも誰がそのカードを作るかとか考えて議決してるの?まぁ牧師先生も数名の教会員も私のblogの存在に気付いてる風だから(自作ポストカードのことも知ってて)、いざとなれば私を拝み倒せばいいと思ってるのかもしれんが……全く教会は人使いが荒いよ。ハッキリ言っておくが、人使い荒いのはカルトだけじゃないよ。コリントの信徒への手紙 一 6章7節に、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(新共同訳)ってあるし、必要あれば要求に応じてもいいけど、少しは印刷時間の捻出などのことも考えてほしい。
◆9月21日
所属教会の9月18日の礼拝説教を聴いて実はモヤモヤした。献金の祈りの言葉について牧師先生がややキツいことを。どうも私などが数年前から献金の祈りで「今ここに献げましたものは、あなたからいただいたもの一部です」と祈ってるのがお気に召さぬらしく、「ここに献げましたものは私達の献身の証しです」と祈らないとご不満な様子。元々は私も他の教会員に倣って「〜献身の証しです」と祈ってたが、それを真似てたのはぶっちゃけ(カッコいいフレーズ!)と思ったから。でもある時「あなたからいただいたもの一部です」と某教会員が祈ってたのを聞き、ハッとした。(そうだ!「献身の証し」なんて、見せつけ感が強くて烏滸がましい……)と思って変えたのだ。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 マタイによる福音書6章 3-4節>
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
……とあるしなぁ、と。でも「一部です」祈りに対する牧師先生のやや侮蔑的な口調に反発を覚えたが、少し祈って、次の聖句が浮かんだ。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 コリントの信徒への手紙二 9章7〜8節>
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
* * *
<新共同訳 コリントの信徒への手紙二9章10節>
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
↓ ↓ ↓
それで、私は「今こうして献げられましたのは、あなたが私達に十分に恵みを下さったからです。どうぞご用のためにお用い下さい」と祈ると決めた。
2021年8月10日に私はTwitterで「お盆休み中に、自前の写真に聖句を添えたポストカードをいくつか作ろうかな(趣味と実益)。実益、って言っても売りませんよ。トラクトとFEBC番組表を『信徒の友』に載ってる教会宛てに発送する際の、〈便箋〉代わりにするだけで。」とツイートしていた。だが、Twitterの相互フォローの方の昨年11月初旬のツイート見て、私は2022年度計画としてウチの教会でもアドヴェント期間のミニバザーできないかと、昨年11月末に長老の一人に提案した。言い出しっぺとして、私は自作の聖句ポストカードを出品・販売しようかと(勿論、販売に当たっては日本聖書協会に許諾取り、使用料も自腹で払うつもりで)。長老会ではそのミニバザーの提案を前向きにご検討下さったが、今年の教会研修会で牧師先生が「個人の責任でチャリティバザーを」と伝道の一案として仰ってて、あぁそういう伝わり方なんだなと。まぁ私も「カード販売します」と宣言してたわけではないし、教会側に手間と経済的な負担が来るのは困るという先生の立場も解った。それで©︎をポストカードの宛名面下方に入れたり、日本聖書協会(JBS)に許可願いの連絡入れたりの作業を、8月下旬〜9月上旬に予定にしてたが、私事の進展があり、また9月初めにプリンタが作動しなくなって、著作権業務は延ばし延ばしに。でも何とか純正インクを購入して、トラクト+FEBC番組表の発送が軌道に乗ってきたので、さぁJBSへの連絡もそろそろ……と思ってた矢先に、ウチの教会の計画性の無いメッセージカード封入(長期欠席者への週報発送時に)の思いつきが。そもそも誰がそのカードを作るかとか考えて議決してるの?まぁ牧師先生も数名の教会員も私のblogの存在に気付いてる風だから(自作ポストカードのことも知ってて)、いざとなれば私を拝み倒せばいいと思ってるのかもしれんが……全く教会は人使いが荒いよ。ハッキリ言っておくが、人使い荒いのはカルトだけじゃないよ。コリントの信徒への手紙 一 6章7節に、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(新共同訳)ってあるし、必要あれば要求に応じてもいいけど、少しは印刷時間の捻出などのことも考えてほしい。
◆9月21日
所属教会の9月18日の礼拝説教を聴いて実はモヤモヤした。献金の祈りの言葉について牧師先生がややキツいことを。どうも私などが数年前から献金の祈りで「今ここに献げましたものは、あなたからいただいたもの一部です」と祈ってるのがお気に召さぬらしく、「ここに献げましたものは私達の献身の証しです」と祈らないとご不満な様子。元々は私も他の教会員に倣って「〜献身の証しです」と祈ってたが、それを真似てたのはぶっちゃけ(カッコいいフレーズ!)と思ったから。でもある時「あなたからいただいたもの一部です」と某教会員が祈ってたのを聞き、ハッとした。(そうだ!「献身の証し」なんて、見せつけ感が強くて烏滸がましい……)と思って変えたのだ。
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<新共同訳 マタイによる福音書6章 3-4節>
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
……とあるしなぁ、と。でも「一部です」祈りに対する牧師先生のやや侮蔑的な口調に反発を覚えたが、少し祈って、次の聖句が浮かんだ。
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<新共同訳 コリントの信徒への手紙二 9章7〜8節>
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
* * *
<新共同訳 コリントの信徒への手紙二9章10節>
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
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それで、私は「今こうして献げられましたのは、あなたが私達に十分に恵みを下さったからです。どうぞご用のためにお用い下さい」と祈ると決めた。
ギリギリで見えないようにできているギフト・バイブルNLTのノド
(とど)
*NLT…New Living Translation
2022年7月31日 作歌。
(とど)
*NLT…New Living Translation
2022年7月31日 作歌。
今までの低賃金を晒し合うそれは自慢と思っていいの
(とど)
2022年4月17日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2022年4月17日 作歌。
*下句はお題
あの場所で生きのびる技は分かってた 多い船頭に生き血吸われて
(とど)
2022年8月14日 作歌。
*上句はお題
(とど)
2022年8月14日 作歌。
*上句はお題
売れ行きの良い飲むゼリーの発注に年配パートが「ウィンタミン」とメモ
(とど)
2014年5月3日 作歌、2022年8月17日 改作。
(とど)
2014年5月3日 作歌、2022年8月17日 改作。