◆8月14日
コリント⑵12:7「…啓示された事があまりにもすばらしいから…そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」。パウロさえ素晴らしい啓示に思い上がる誘惑があった。水島和夫の歌〈喉元すぎれば忘れるわれにむしろ痛みは疼きつづけよ〉も浮かぶ。
◆8月22日
エレミヤ17:11「しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て ついには、神を失った者となる」。このしゃこは甲殻類と思っていて、意味が取りにくい箇所だなぁと常々。NIVではpartridge(ヤマウズラ・イワシャコ)。鳥か!合点
◆8月26日
新改訳エレミヤ22:15-16「…あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった…」王が正義を以て統治すれば民は幸福だが、そう行う王自身も幸福と主。これは私達にも当てはまるだろう
◆8月30日
エフェソ6:12「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの…」。日曜礼拝で解き明かされたコリント⑴12:27-13章。互いの役割を尊重せず優劣をつけるのは分裂を生む、愛以外の賜物は滅びる、にハッとした
コリント⑵12:7「…啓示された事があまりにもすばらしいから…そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」。パウロさえ素晴らしい啓示に思い上がる誘惑があった。水島和夫の歌〈喉元すぎれば忘れるわれにむしろ痛みは疼きつづけよ〉も浮かぶ。
◆8月22日
エレミヤ17:11「しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て ついには、神を失った者となる」。このしゃこは甲殻類と思っていて、意味が取りにくい箇所だなぁと常々。NIVではpartridge(ヤマウズラ・イワシャコ)。鳥か!合点
◆8月26日
新改訳エレミヤ22:15-16「…あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった…」王が正義を以て統治すれば民は幸福だが、そう行う王自身も幸福と主。これは私達にも当てはまるだろう
◆8月30日
エフェソ6:12「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの…」。日曜礼拝で解き明かされたコリント⑴12:27-13章。互いの役割を尊重せず優劣をつけるのは分裂を生む、愛以外の賜物は滅びる、にハッとした
前半を時候の話題に費して尻切れとんぼなCメール果つ
(とど)
2013年10月25日 作歌、2018年8月30日 改訂。
(とど)
2013年10月25日 作歌、2018年8月30日 改訂。
百日紅の白い花咲く生け垣の道を通って許していった
何気ない歌だが、こういうことあるなぁと頷ける。掲出歌は屹立性が高く、この一首を含む連作を見渡しても、誰の何を許していったのかを示唆する情報は見当たらない。そのことが歌の深度を増すのに一役買っている。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」(マタイによる福音書6章12節)。社会人一年目の頃、私はこの主の祈りの中の有名な一節を繰り返し心の内に叫んだ。社会で揉まれて何かあるごとに、親兄弟を赦せず癒えていない憤怒が思い出されて再燃してしまい、途方に暮れたからだ。古傷が疼くたびにこの御言葉に必死に食らいついていく日々だったが、ある時ふと肉親への憎悪が薄らいでいることに気づいた。主への叫びは聞かれていた。私が主の祈りに取り縋るたびに主イエスも共に祈ってくださっていたのだと解り、癒されるとはこういうことなのかと身をもって感じた。
竹内の歌の下句「道を通って許していった」からも、許すのにいくばくかの時間を要した様が窺える。歩みを進めつつ、少しずつ解き放たれていったという様が。
しかし、人間は罪深い。一つの隔てが取り除かれても、赦していくことは一生続けるべき業(わざ)だ。昨夏ご迷惑をかけたことを引きずる私に「何かあったっけね。気にしなくていいんだよ」と某教会員さんは仰った。後日の聖書通読で開いたイザヤ書43章で、私はハッとした。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(新改訳イザヤ書43章18〜19節)
神様も人も赦して下さっていたのに、私はいつまでも自分を赦さず拘っていた。私も自分自身を赦さなくては……。
掲出歌をもう一度よく見る。竹内が許していったのは誰なのか、言明されていない。自分に許せないことを為した誰かとも取れるし、自分でも許せないようなことを人に対して為してしまった自分とも取れる。どちらかの解釈を選びどちらかを棄却することは、おそらく適切でない。許されながら、許していく——背景にはひっそりと百日紅の白い花々があった。何と美しい光景だろうか。
竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』
何気ない歌だが、こういうことあるなぁと頷ける。掲出歌は屹立性が高く、この一首を含む連作を見渡しても、誰の何を許していったのかを示唆する情報は見当たらない。そのことが歌の深度を増すのに一役買っている。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」(マタイによる福音書6章12節)。社会人一年目の頃、私はこの主の祈りの中の有名な一節を繰り返し心の内に叫んだ。社会で揉まれて何かあるごとに、親兄弟を赦せず癒えていない憤怒が思い出されて再燃してしまい、途方に暮れたからだ。古傷が疼くたびにこの御言葉に必死に食らいついていく日々だったが、ある時ふと肉親への憎悪が薄らいでいることに気づいた。主への叫びは聞かれていた。私が主の祈りに取り縋るたびに主イエスも共に祈ってくださっていたのだと解り、癒されるとはこういうことなのかと身をもって感じた。
竹内の歌の下句「道を通って許していった」からも、許すのにいくばくかの時間を要した様が窺える。歩みを進めつつ、少しずつ解き放たれていったという様が。
しかし、人間は罪深い。一つの隔てが取り除かれても、赦していくことは一生続けるべき業(わざ)だ。昨夏ご迷惑をかけたことを引きずる私に「何かあったっけね。気にしなくていいんだよ」と某教会員さんは仰った。後日の聖書通読で開いたイザヤ書43章で、私はハッとした。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(新改訳イザヤ書43章18〜19節)
神様も人も赦して下さっていたのに、私はいつまでも自分を赦さず拘っていた。私も自分自身を赦さなくては……。
掲出歌をもう一度よく見る。竹内が許していったのは誰なのか、言明されていない。自分に許せないことを為した誰かとも取れるし、自分でも許せないようなことを人に対して為してしまった自分とも取れる。どちらかの解釈を選びどちらかを棄却することは、おそらく適切でない。許されながら、許していく——背景にはひっそりと百日紅の白い花々があった。何と美しい光景だろうか。