◆1月1日
新改訳ヨブ33:13-14「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない」。刺さる。昨日の礼拝でも二点程小さな気づきが。それを思い出せるかは祈りにかかっている
◆1月3日
バプテスマのヨハネの言葉(NIVマタイ3:8)「Produce fruit in keeping with repentance」に目が留まる。実を結ぶのは、悔い改めの連続のうちに起こるのだな。
◆1月4日
マタイ4:19、ペトロとアンデレを召し出したイエスの言葉「人間をとる漁師にしよう」は、NIVでは“I will send you out to fish for people.” 〈send you out〉に注目した。従うよう呼びかけた時から、既に主は彼らを送り出すというはっきりしたご意志をお持ちだったのだな。
◆1月7日
ヨブ40-41章。ベヘモット(河馬)とレビヤタン(わに)の頑強さ・精巧さを、神は微に入り細に入り説いている。今までは、ご自分の創造がいかに素晴らしいか主が力説していると捉えていた。だが今回、一つ一つの被造物に対して語り尽くせぬほど神は愛情をお持ちなのだ、と目を開かれた。
◆1月11日
マタイ9章。中風の人に「あなたの罪は赦される」と仰るイエスに内心「神を冒涜している」と思った律法学者。それを見抜いた主の「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」はNIVでは“Why do you entertain evil thoughts in your hearts?” 悪意を抱くとは、それを弄んでいる様なものか
◆1月12日
新改訳詩篇4:1「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」。苦しみの原因そのものが取り除かれにくい場合は、少なくない。そんな時、ゆとりを与えてください、という祈りは現実的で唱え易い。憶えておきたいフレーズ。
◆1月13日
詩編6:4「わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」の二文目、NIV(6:3)では〈How long, Lord, how long?〉となっている。まるで幼子が親に甘えるかのようだ。〈この苦しみはいつまでなの?ねぇ、いつまで?〉——そんな率直さで祈っていいんだな。
◆1月15日
マタイ11:15「耳のある者は聞きなさい」、NIVでは〈Whoever has ears, let them hear. 〉耳を持つ者は誰でも、その耳が聞くよう心を開きなさい、という意味か。主の御教えに心を寄せる者だけでなく、全ての人にイエスは呼びかけているのだな。
◆1月16日
マタイ12:43-45。汚れた霊が元いた人のところに戻ってみると綺麗に片づいていたので、他の悪い諸霊を連れてきて住み着く話。最近ふとした折に、昔憶えた占いの記憶が呼び覚まされた。暫く記憶をなぞってから、これは罪だ!と愕然。祈りで必死に追い出したが、私の心は空家だったのか?
◆1月17日
マタイ13章、種蒔きの譬え。石だらけの所に落ちた種は、土が浅いのですぐ芽を出したが、日が昇ると根がないため枯れた。発芽の様をNIVはsprang up quicklyと表記、弾け飛ぶ程の勢いが明らか。聖句への反応がゆっくりでも、心に根を下ろしている最中かも。己も人も拙速に裁かぬよう自戒
◆1月21日
新改訳詩篇17:8,10「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。…彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。」一般就労では性的な目に晒されることは少なかった。今の作業所では割とその手のトラブルが。瞳のように守って、は切実な願い。
◆1月23日
口語訳詩篇19:14「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが あなたの前に喜ばれますように」。〈心の思い〉はNIVでは〈meditation of my heart〉。私の日々の黙想が主に喜ばれていますように、と心から願う。
◆1月26日
詩編22:10「わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。後半はNIVで〈you made me trust in you, even at my mother’s breast〉(母の胸にいても貴方は私を貴方に信頼するようにされた)。神がお与えになった親を信頼する心を幼児に育むのも神なんだな
◆1月28日
新改訳詩篇25:6〜7「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください」。人に対してこんなご都合主義な懇願をしたらキレられそうだ。だが、主の誠実さを信じるこの祈りを神は顧みたんだな。
◆1月29日
詩編27:6「わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう」。後半はNIVでは〈I will sing and make music to the Lord.〉ただ歌うのでなく、主に対して音楽を作るのだ、と。塩谷達也氏の下記サイトはそんな実に溢れている。 https://morningsongs.tokyo
新改訳ヨブ33:13-14「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない」。刺さる。昨日の礼拝でも二点程小さな気づきが。それを思い出せるかは祈りにかかっている
◆1月3日
バプテスマのヨハネの言葉(NIVマタイ3:8)「Produce fruit in keeping with repentance」に目が留まる。実を結ぶのは、悔い改めの連続のうちに起こるのだな。
◆1月4日
マタイ4:19、ペトロとアンデレを召し出したイエスの言葉「人間をとる漁師にしよう」は、NIVでは“I will send you out to fish for people.” 〈send you out〉に注目した。従うよう呼びかけた時から、既に主は彼らを送り出すというはっきりしたご意志をお持ちだったのだな。
◆1月7日
ヨブ40-41章。ベヘモット(河馬)とレビヤタン(わに)の頑強さ・精巧さを、神は微に入り細に入り説いている。今までは、ご自分の創造がいかに素晴らしいか主が力説していると捉えていた。だが今回、一つ一つの被造物に対して語り尽くせぬほど神は愛情をお持ちなのだ、と目を開かれた。
◆1月11日
マタイ9章。中風の人に「あなたの罪は赦される」と仰るイエスに内心「神を冒涜している」と思った律法学者。それを見抜いた主の「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」はNIVでは“Why do you entertain evil thoughts in your hearts?” 悪意を抱くとは、それを弄んでいる様なものか
◆1月12日
新改訳詩篇4:1「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」。苦しみの原因そのものが取り除かれにくい場合は、少なくない。そんな時、ゆとりを与えてください、という祈りは現実的で唱え易い。憶えておきたいフレーズ。
◆1月13日
詩編6:4「わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」の二文目、NIV(6:3)では〈How long, Lord, how long?〉となっている。まるで幼子が親に甘えるかのようだ。〈この苦しみはいつまでなの?ねぇ、いつまで?〉——そんな率直さで祈っていいんだな。
◆1月15日
マタイ11:15「耳のある者は聞きなさい」、NIVでは〈Whoever has ears, let them hear. 〉耳を持つ者は誰でも、その耳が聞くよう心を開きなさい、という意味か。主の御教えに心を寄せる者だけでなく、全ての人にイエスは呼びかけているのだな。
◆1月16日
マタイ12:43-45。汚れた霊が元いた人のところに戻ってみると綺麗に片づいていたので、他の悪い諸霊を連れてきて住み着く話。最近ふとした折に、昔憶えた占いの記憶が呼び覚まされた。暫く記憶をなぞってから、これは罪だ!と愕然。祈りで必死に追い出したが、私の心は空家だったのか?
◆1月17日
マタイ13章、種蒔きの譬え。石だらけの所に落ちた種は、土が浅いのですぐ芽を出したが、日が昇ると根がないため枯れた。発芽の様をNIVはsprang up quicklyと表記、弾け飛ぶ程の勢いが明らか。聖句への反応がゆっくりでも、心に根を下ろしている最中かも。己も人も拙速に裁かぬよう自戒
◆1月21日
新改訳詩篇17:8,10「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。…彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。」一般就労では性的な目に晒されることは少なかった。今の作業所では割とその手のトラブルが。瞳のように守って、は切実な願い。
◆1月23日
口語訳詩篇19:14「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが あなたの前に喜ばれますように」。〈心の思い〉はNIVでは〈meditation of my heart〉。私の日々の黙想が主に喜ばれていますように、と心から願う。
◆1月26日
詩編22:10「わたしを母の胎から取り出し その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。後半はNIVで〈you made me trust in you, even at my mother’s breast〉(母の胸にいても貴方は私を貴方に信頼するようにされた)。神がお与えになった親を信頼する心を幼児に育むのも神なんだな
◆1月28日
新改訳詩篇25:6〜7「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください」。人に対してこんなご都合主義な懇願をしたらキレられそうだ。だが、主の誠実さを信じるこの祈りを神は顧みたんだな。
◆1月29日
詩編27:6「わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう」。後半はNIVでは〈I will sing and make music to the Lord.〉ただ歌うのでなく、主に対して音楽を作るのだ、と。塩谷達也氏の下記サイトはそんな実に溢れている。 https://morningsongs.tokyo
くるぶしの高さの靴に押し込めるたびに中指(ちゅうし)の甘皮剥けて
(とど)
2014年2月20日 作歌、2017年11月初旬 改訂。
(とど)
2014年2月20日 作歌、2017年11月初旬 改訂。
めぐみ幼稚園ばら組のおいらには呪文だつたぜ〈シュワキマセリ〉は
昨年の12月初旬、わが教会で【0才からのおやこコンサート〜えほんでクリスマス音楽会】を開催した。大型絵本の読み聞かせと音楽を取り合わせたクリスマスの催しで、実は企画を持ちかけたのは私だった。N教会では初めての試みであり、絵本の読み手や演奏者の招聘から、近隣の保育園などでのチラシ配り、クリスマスらしいお菓子のお土産の用意まで、今までのコンサートとはかなり勝手が違い、それなりに苦労もあった。演奏したのは二組で、一つは教会とゆかりの深いDこども園のお母さん方のグループ。もう一つは私がネットで探してきたフルートとピアノのデュオだった。
何しろ場はクリスマスコンサートだから、曲目の重複が起きないよう密に連絡を取った。最後に一曲、会場のみんなで歌える歌があるといいよね、と委員会で決まって、私からデュオのピアノ担当の方にその旨伝えたが、曲の選定は難航したようだ。キリスト教主義のこども園に通っているお子さん達は普段からクリスマス讃美歌にも親しみがあるが、それ以外のところからお越しの方には全くピンと来ないだろう。周りが皆歌えているのに自分だけ歌えなくて、疎外感を味わわせてしまっては申し訳ない。デュオの方から(となりのトトロの)「さんぽ」はどうですか、と提案もあったが、委員会で「やはりクリスマス曲がいいよね」という意見でまとまった。クリスマスソングの有名どころはデュオの演るメドレーに既に含まれている。初めこども園のお母さん方で演目に数えていた「もろびとこぞりて」が、調整の上トリの曲に決まったのはコンサートの四ヶ月前だった。
メロディは聴いたことがあっても歌詞を覚えている人はまず殆どいないだろうから、と全てひらがなで表記した「もろびとこぞりて」の歌詞原稿を準備した。当日、牧師先生より「もろびとこぞりて」の4番まで歌いきった後に「メリークリスマス!」と皆さんで言いましょうと発案があった。そして「もろびとこぞりて」を歌う直前、フルートの方の音頭で何度か掛け声の練習をしている間に、歌詞プリントを配付。大きな声で「もろびとこぞりて」が歌われ、「メリークリスマス!」もバッチリ決まった。その瞬間、ある男の子が「Thank you!」と発声。大笑いで幕切れとなった。
首掲の斎藤の歌を読んだ時、全くそうだよなぁ、と思わず吹き出してしまった。私自身、公立小学校の2年生の頃、クラスで「もろびとこぞりて」を歌う機会があったが、意味も分からず〈シュワキマセリ、シュワキマセリ…♪〉と歌っていたのを思い出す。そう言えば、何だかウルトラマンの決め台詞「シュワッチ!」に似ていなくもない。くだんの男の子にも〈シュワキマセリ〉は呪文めいていたことだろう。でも、「そう、主はいらっしゃったのです!」と讃美した後、「Thank you!」と言い放った男の子に、イエス様もニッコリ笑って一緒に喜んでくださったのではないかと思うと、私も微笑まずにはいられない。
斎藤寛『アルゴン』
昨年の12月初旬、わが教会で【0才からのおやこコンサート〜えほんでクリスマス音楽会】を開催した。大型絵本の読み聞かせと音楽を取り合わせたクリスマスの催しで、実は企画を持ちかけたのは私だった。N教会では初めての試みであり、絵本の読み手や演奏者の招聘から、近隣の保育園などでのチラシ配り、クリスマスらしいお菓子のお土産の用意まで、今までのコンサートとはかなり勝手が違い、それなりに苦労もあった。演奏したのは二組で、一つは教会とゆかりの深いDこども園のお母さん方のグループ。もう一つは私がネットで探してきたフルートとピアノのデュオだった。
何しろ場はクリスマスコンサートだから、曲目の重複が起きないよう密に連絡を取った。最後に一曲、会場のみんなで歌える歌があるといいよね、と委員会で決まって、私からデュオのピアノ担当の方にその旨伝えたが、曲の選定は難航したようだ。キリスト教主義のこども園に通っているお子さん達は普段からクリスマス讃美歌にも親しみがあるが、それ以外のところからお越しの方には全くピンと来ないだろう。周りが皆歌えているのに自分だけ歌えなくて、疎外感を味わわせてしまっては申し訳ない。デュオの方から(となりのトトロの)「さんぽ」はどうですか、と提案もあったが、委員会で「やはりクリスマス曲がいいよね」という意見でまとまった。クリスマスソングの有名どころはデュオの演るメドレーに既に含まれている。初めこども園のお母さん方で演目に数えていた「もろびとこぞりて」が、調整の上トリの曲に決まったのはコンサートの四ヶ月前だった。
メロディは聴いたことがあっても歌詞を覚えている人はまず殆どいないだろうから、と全てひらがなで表記した「もろびとこぞりて」の歌詞原稿を準備した。当日、牧師先生より「もろびとこぞりて」の4番まで歌いきった後に「メリークリスマス!」と皆さんで言いましょうと発案があった。そして「もろびとこぞりて」を歌う直前、フルートの方の音頭で何度か掛け声の練習をしている間に、歌詞プリントを配付。大きな声で「もろびとこぞりて」が歌われ、「メリークリスマス!」もバッチリ決まった。その瞬間、ある男の子が「Thank you!」と発声。大笑いで幕切れとなった。
首掲の斎藤の歌を読んだ時、全くそうだよなぁ、と思わず吹き出してしまった。私自身、公立小学校の2年生の頃、クラスで「もろびとこぞりて」を歌う機会があったが、意味も分からず〈シュワキマセリ、シュワキマセリ…♪〉と歌っていたのを思い出す。そう言えば、何だかウルトラマンの決め台詞「シュワッチ!」に似ていなくもない。くだんの男の子にも〈シュワキマセリ〉は呪文めいていたことだろう。でも、「そう、主はいらっしゃったのです!」と讃美した後、「Thank you!」と言い放った男の子に、イエス様もニッコリ笑って一緒に喜んでくださったのではないかと思うと、私も微笑まずにはいられない。
流れくる葦の十字架目に見えぬ罪負うは誰橋くぐりゆく
歌集を読み通すと、根本が特に信仰を持ち合わせていたわけではないことが分かる。それだけに標題となった一首は唐突にも見えなくもない。だが、老母の介護を長く続けての鬱積を吐露した次の歌からも、自らの「目に見えぬ罪」が意識にふと上ってくる瞬間があったことが窺える。
母の病やっと癒えればわが精神(こころ)バランス崩し禁句を吐きぬ
憶測であからさまな言い回しを限定することは少し躊躇われるが、おそらくは「散々わずらわせて…!」とか「早く逝けば良かったのに…!」とかいった類の言葉であったのだろう。口から出てしまった自分の本音に驚き、後悔に苛まれる根本の姿が浮かぶ。
詩編19編13節にこういう祈りの言葉がある。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。」
私が大学の卒論でお世話になった教授が、卒業前にぽつりと仰った言葉が記憶に残っている。「君ははっきりしているから。」私はそれまで人にそう言われたことはなかったし、自分で意識したこともなかった。でもそれから四半世紀が過ぎ、先生の仰ったことは本当だったなとつくづく思う。最近、20歳ばかり年下の作業所メンバーが会話の中でおどおどしていた挙動が他のメンバーの仕草に似ていたのを、あまり考えなしに身振りを交えつつ指摘してしまったのだ。似ているとされた当人は穏やかな人柄で何の抗弁もしなかった。しかし、彼の仕草は不随意のもの。帰宅後に振り返った私は、どれほど無神経な発言をしてしまったか一頻り悔いたのだった。詩編19編の祈りは時折私自身も裡に叫ぶものだが、もしかしたら根本も似たような呻きを心に抱いたかもしれない。
根本の掲出歌は、眼前に川があり、葦がたまたま十字架のような形に組み合わさって流れていったのを詠んだと思われる。根本は、自分の気づいていない罪も負ってくれる誰かがいるのだろうかと思いを巡らす。勿論、根本も知識としてイエスが全ての人の罪を負って十字架に架かったことは知っていた筈だ。けれど、確信のないまま葦の十字架を見つめていた彼女を、イエスご自身も見つめてくださっていたと私は思う。ルカによる福音書23章に、イエスが十字架につけられる経緯が詳述されている。そして十字架に架けられたまさにその時、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言った(34節)。イエスは、彼を信じる者の目に見えぬ罪も、また信じていない人の目に見えぬ罪についても、神がお赦しくださるように執り成してくださる。その愛は計り知れない。
根本亮子『葦の十字架』
歌集を読み通すと、根本が特に信仰を持ち合わせていたわけではないことが分かる。それだけに標題となった一首は唐突にも見えなくもない。だが、老母の介護を長く続けての鬱積を吐露した次の歌からも、自らの「目に見えぬ罪」が意識にふと上ってくる瞬間があったことが窺える。
母の病やっと癒えればわが精神(こころ)バランス崩し禁句を吐きぬ
憶測であからさまな言い回しを限定することは少し躊躇われるが、おそらくは「散々わずらわせて…!」とか「早く逝けば良かったのに…!」とかいった類の言葉であったのだろう。口から出てしまった自分の本音に驚き、後悔に苛まれる根本の姿が浮かぶ。
詩編19編13節にこういう祈りの言葉がある。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。」
私が大学の卒論でお世話になった教授が、卒業前にぽつりと仰った言葉が記憶に残っている。「君ははっきりしているから。」私はそれまで人にそう言われたことはなかったし、自分で意識したこともなかった。でもそれから四半世紀が過ぎ、先生の仰ったことは本当だったなとつくづく思う。最近、20歳ばかり年下の作業所メンバーが会話の中でおどおどしていた挙動が他のメンバーの仕草に似ていたのを、あまり考えなしに身振りを交えつつ指摘してしまったのだ。似ているとされた当人は穏やかな人柄で何の抗弁もしなかった。しかし、彼の仕草は不随意のもの。帰宅後に振り返った私は、どれほど無神経な発言をしてしまったか一頻り悔いたのだった。詩編19編の祈りは時折私自身も裡に叫ぶものだが、もしかしたら根本も似たような呻きを心に抱いたかもしれない。
根本の掲出歌は、眼前に川があり、葦がたまたま十字架のような形に組み合わさって流れていったのを詠んだと思われる。根本は、自分の気づいていない罪も負ってくれる誰かがいるのだろうかと思いを巡らす。勿論、根本も知識としてイエスが全ての人の罪を負って十字架に架かったことは知っていた筈だ。けれど、確信のないまま葦の十字架を見つめていた彼女を、イエスご自身も見つめてくださっていたと私は思う。ルカによる福音書23章に、イエスが十字架につけられる経緯が詳述されている。そして十字架に架けられたまさにその時、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言った(34節)。イエスは、彼を信じる者の目に見えぬ罪も、また信じていない人の目に見えぬ罪についても、神がお赦しくださるように執り成してくださる。その愛は計り知れない。