◆9月16日
この前の日曜礼拝後、先輩教会員Sさんから、バザーに向けて作ろうとお考えの物について相談を受けた(あるものにちょっと和める短い聖句を添えたいが、ご本人は聖書に詳しくないので、適当に聖句を見繕ってほしいというお願いだった)。トラクト前号や直近号をお読みになって、また私が月例封書に同封してきた聖句ポストカードをご覧になって着想されたのは明白だったし、素直なお心ばえが嬉しかったが、私は昨年のアドヴェントのミニバザーではカード販売に当たり事前に日本聖書協会(JBS)に著作権許諾を取って、契約に基づいて使用料を払ったことを伝えた。Sさんはタダでないことに驚いて「でも、みんな結構いろいろやっているようだけど」と仰った。私は自分の新共同訳聖書の前付の ©︎ の箇所を見せ、私の作成したポストカードにも宛名面の下方に最小サイズで、この©︎以下を印字したこと、それぞれのカードについて一枚ずつ見本を、JBSに郵送したことを話した。そして「問題は売るか売らないかですよね。売るんだったら、許諾取らないとまずいです。Sさんが善意で安価な商品を作成して献品されようとしてるのは解りますが、それを見ていて案をパクって儲けようとする人達もいますからね」と申し添えた(東京時代のBGM会社は、まさにそういう感じの上役がわんさか居た)。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 エゼキエル書33章30〜33節>
人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」
* * *
BGM会社の常務は、私のことを「凄いアレンジャーだ(音楽の編曲の意味でなく、聖句を日常生活の事柄に翻案する意味において)」と仰ってたけど、結局は金に目が眩んでただけだったと思う。まぁあの会社の殆どの方々はそうだったが。
◆9月20日
BGM会社は2002年5月に正式に退職。2003年1月17日にBGM会社より私物が返却され『讃美歌・讃美歌第2編』や音楽関係の本などが戻ってきたが、聖書のNew International Versionは第一便には無し。NIVは第二便で返却されたが、6年ほど前に断捨離した日記(1,2冊/闇の時代)を付けてた頃に返却されたか、日付までは確かめられず。おそらくBGM会社の方々は、聖書を何とか利用したかったのだろう。でも多分、サムエル記第一5章〜6章のようなことが起こったのだろう。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 サムエル記第一5章1〜12節>
ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱 をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。それがガテに移されて後、主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。
* * *
ペリシテ人らは災いに恐怖に陥っていたが、祭司らと話し合って、主の箱をイスラエルの元に戻した。[6章要約]
↓ ↓ ↓
聖句って一見甘やかだから、BGM会社の方々もパクりたかったんだろうけどね。まぁ、私にNIVを含む第二便を送らずバックレて聖書を捨てても良かっただろうに、わざわざ返却してきたところを見ると、多分おっそろしい目に遭ったんだろうね。まぁ神のみぞ知る……だが。
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<新共同訳 ヨハネの黙示録10章10節>
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
◆9月22日
これまでもツイートで仄めかしてきたが、BGM会社はS価の溜まり場だった。BGM会社に勤め出した頃は自宅から通勤してたが、残業も多かったし、通勤に時間かかり過ぎるしで、会社に一本の電車で通勤できるアパートに移った。アパートには途中から盗聴器が仕掛けられたっぽい(色々細かいエピソードがあるが、書き出すと切りが無いので省略)。BGM会社は警備保障のための監視システムの販売もしてたし、器具・人員の手配は簡単だったろう。ある時、会社のパンフレットを作る件で、総務の方から意見を求められた。キャッチコピー「空間バリューを創造する」を提示され、「意味を付与する」では?と私は答えた。BGMはあっても無くても良いもの。それが価値を創造するとは傲慢では、と思った。BGMは彩り程度でしかない、と。私が発病してから寛解するまでには数年かかったし、その後もあわや入院か、という状態になったことが幾度かあった。少し正気を取り戻した時にBGM会社のサイト見たら「空間バリュー」とかキャッチコピーにしてて、私はあららと思い(ダッセー!)とも思った。でもI田D作とかも「I田先生」とか崇められつつも、実際は自分の頭で考えたくない人にいいように利用されてる被害者かもね(何でも「I田先生が仰ったから」で、各人の全ての行動の責任をなすりつけてるように見える)。 BGM会社の方々は、私にI田先生の後釜でもしてほしくて、私を集団ストーカーしてたんだろうか?(それともただの欲得のため?)冗談じゃない。私は食えれば良いだけだ。金儲けや名声には興味がないんだ。私はイエス狂いで一生を全うするつもりなんだ。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 テモテへの手紙一6章8〜10節>
食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
* * *
<新共同訳 ルカによる福音書5章15〜16節>
しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
この前の日曜礼拝後、先輩教会員Sさんから、バザーに向けて作ろうとお考えの物について相談を受けた(あるものにちょっと和める短い聖句を添えたいが、ご本人は聖書に詳しくないので、適当に聖句を見繕ってほしいというお願いだった)。トラクト前号や直近号をお読みになって、また私が月例封書に同封してきた聖句ポストカードをご覧になって着想されたのは明白だったし、素直なお心ばえが嬉しかったが、私は昨年のアドヴェントのミニバザーではカード販売に当たり事前に日本聖書協会(JBS)に著作権許諾を取って、契約に基づいて使用料を払ったことを伝えた。Sさんはタダでないことに驚いて「でも、みんな結構いろいろやっているようだけど」と仰った。私は自分の新共同訳聖書の前付の ©︎ の箇所を見せ、私の作成したポストカードにも宛名面の下方に最小サイズで、この©︎以下を印字したこと、それぞれのカードについて一枚ずつ見本を、JBSに郵送したことを話した。そして「問題は売るか売らないかですよね。売るんだったら、許諾取らないとまずいです。Sさんが善意で安価な商品を作成して献品されようとしてるのは解りますが、それを見ていて案をパクって儲けようとする人達もいますからね」と申し添えた(東京時代のBGM会社は、まさにそういう感じの上役がわんさか居た)。
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<新改訳第三版 エゼキエル書33章30〜33節>
人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」
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BGM会社の常務は、私のことを「凄いアレンジャーだ(音楽の編曲の意味でなく、聖句を日常生活の事柄に翻案する意味において)」と仰ってたけど、結局は金に目が眩んでただけだったと思う。まぁあの会社の殆どの方々はそうだったが。
◆9月20日
BGM会社は2002年5月に正式に退職。2003年1月17日にBGM会社より私物が返却され『讃美歌・讃美歌第2編』や音楽関係の本などが戻ってきたが、聖書のNew International Versionは第一便には無し。NIVは第二便で返却されたが、6年ほど前に断捨離した日記(1,2冊/闇の時代)を付けてた頃に返却されたか、日付までは確かめられず。おそらくBGM会社の方々は、聖書を何とか利用したかったのだろう。でも多分、サムエル記第一5章〜6章のようなことが起こったのだろう。
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<新改訳第三版 サムエル記第一5章1〜12節>
ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱 をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。それがガテに移されて後、主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。
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ペリシテ人らは災いに恐怖に陥っていたが、祭司らと話し合って、主の箱をイスラエルの元に戻した。[6章要約]
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聖句って一見甘やかだから、BGM会社の方々もパクりたかったんだろうけどね。まぁ、私にNIVを含む第二便を送らずバックレて聖書を捨てても良かっただろうに、わざわざ返却してきたところを見ると、多分おっそろしい目に遭ったんだろうね。まぁ神のみぞ知る……だが。
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<新共同訳 ヨハネの黙示録10章10節>
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
◆9月22日
これまでもツイートで仄めかしてきたが、BGM会社はS価の溜まり場だった。BGM会社に勤め出した頃は自宅から通勤してたが、残業も多かったし、通勤に時間かかり過ぎるしで、会社に一本の電車で通勤できるアパートに移った。アパートには途中から盗聴器が仕掛けられたっぽい(色々細かいエピソードがあるが、書き出すと切りが無いので省略)。BGM会社は警備保障のための監視システムの販売もしてたし、器具・人員の手配は簡単だったろう。ある時、会社のパンフレットを作る件で、総務の方から意見を求められた。キャッチコピー「空間バリューを創造する」を提示され、「意味を付与する」では?と私は答えた。BGMはあっても無くても良いもの。それが価値を創造するとは傲慢では、と思った。BGMは彩り程度でしかない、と。私が発病してから寛解するまでには数年かかったし、その後もあわや入院か、という状態になったことが幾度かあった。少し正気を取り戻した時にBGM会社のサイト見たら「空間バリュー」とかキャッチコピーにしてて、私はあららと思い(ダッセー!)とも思った。でもI田D作とかも「I田先生」とか崇められつつも、実際は自分の頭で考えたくない人にいいように利用されてる被害者かもね(何でも「I田先生が仰ったから」で、各人の全ての行動の責任をなすりつけてるように見える)。 BGM会社の方々は、私にI田先生の後釜でもしてほしくて、私を集団ストーカーしてたんだろうか?(それともただの欲得のため?)冗談じゃない。私は食えれば良いだけだ。金儲けや名声には興味がないんだ。私はイエス狂いで一生を全うするつもりなんだ。
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<新共同訳 テモテへの手紙一6章8〜10節>
食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
* * *
<新共同訳 ルカによる福音書5章15〜16節>
しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
どの策が効果的かと試しては「ヴィジュアル系」の結論に至る
(とど)
*伝道で(主に集客の観点からは)
2023年5月8日 作歌。
※ 上句はお題
(とど)
*伝道で(主に集客の観点からは)
2023年5月8日 作歌。
※ 上句はお題
作りすぎちゃって良ければこれどうぞとは言えない深刻なる歌集
(とど)
2023年4月2日 作歌。
*上句はお題
(とど)
2023年4月2日 作歌。
*上句はお題
反時計回りで徐々に剥ぎ取られ離脱の果てに行きつく譫妄
(とど)
2022年10月16日 作歌。
*上句はお題
(とど)
2022年10月16日 作歌。
*上句はお題
習慣にできない努力あてにして新たな委員会作るだけ
(とど)
2023年9月24日 作歌。
*上句はお題
(とど)
2023年9月24日 作歌。
*上句はお題
矢野顕子の「電話線」を奏でてくれた リハーサルのみのサービスとして
(とど)
*教会でのコンサートにて
2023年7月1日 作歌。
(とど)
*教会でのコンサートにて
2023年7月1日 作歌。
天井から讃美が降ってくるようだ 恍惚としてマリンバ奏者は
(とど)
2023年6月29日 作歌。
(とど)
2023年6月29日 作歌。
〈他人事〉の信徒の中で責任を。「オレが一番知ってる」ムーブ
(とど)
2023年9月17日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2023年9月17日 作歌。
*下句はお題
生産性かけらも無いと言わんばかり少しの読書してる私に
(とど)
2023年8月15日 作歌。
(とど)
2023年8月15日 作歌。
眠るな、と言わんばかりの仕事量 息つく暇はあったけれども
(とど)
2023年9月10日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2023年9月10日 作歌。
*下句はお題
誤魔化していずれはみんな共倒れの優しい嘘は聞きたくないから
(とど)
2023年3月12日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2023年3月12日 作歌。
*下句はお題
著作権を軽く見られて荒ぶった呼吸に合わせ心臓動く
(とど)
2022年12月11日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2022年12月11日 作歌。
*下句はお題
嫌われているとわかっているけれど©︎(マルシー)代わりにいちいち署名
/とど
2022年12月18日 作歌。
*上句はお題
/とど
2022年12月18日 作歌。
*上句はお題