◆12月2日
黙示録2:25「わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」。〈固く守れ〉はNIVでは〈hold on to〜〉で、〜にしっかりしがみついている、の意。私達の信仰が強靭だから御教えを守れるのでなく、堅固なイエス様にしがみつくのだと考えると荷が軽い。
◆12月4日
新改訳ミカ3:5〈預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する〉。《聖戦》の語にドキリ。教職者も平信徒も御言葉の剣を振り回してはいないか?
◆12月5日
新改訳ミカ4:7「わたしは足のなえた者を、残りの者とし…」の〈残りの民〉がピンと来ず英訳を当たった。The Message Bible(MSG)では、同箇所が〈a company of the elite 選ばれた精鋭の一団〉とあった。主の期待は桁違い!
◆12月11日
新改訳ハバクク3:2「主よ。私はあなたのうわさを聞き…みわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください…怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」〈この年のうちに〉は新共同では〈数年のうちにも〉だが、新改訳の切迫感も年末に読むと感慨深い。
◆12月12日
新改訳ゼパニヤ1:12「主は良いことも、悪いこともしない」と心の中で言っている者。こういう人達は確かにいて、つい私達も、ヤコブやヨハネの「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」に似た心を抱き易い。が、報いるのは神ご自身と弁えたい
◆12月14日
新改訳ゼパニヤ2:15〈これが、安らかに過ごし、心の中で、「私だけは特別だ」と言ったあのおごった町なのか。ああ、その町は荒れ果てて、獣の伏す所となる〉。ここで指しているのはアッシリアやニネベの人々だろうが、〈特別〉との自尊は主に選ばれた人も陥り易い罠では
◆12月14日
ゼファニヤ3:18「わたしは 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ お前の重い恥となっていた」。レビ記等で汚れた者と規定された人達、主を共に礼拝したくても叶わなかった人達を集める、ということか。赦されて御前に立ち、賛美できる恵み
◆12月21日
ゼカリヤ4:10「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て 喜び祝うべきである」 井ノ川勝著『教会』では、7節「大いなる山」を瓦礫の山と解説。そこより「恵みあれ」と唱えて親石を運び始めた日を蔑むなと仰るのも合点がいく
◆12月22日
ゼカリヤ8:23〈その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』〉。人々が誘い合って主を尋ね求めに行く、こんな日が来れば…!と心底願う
◆12月30日
新改訳マラキ2:2「…あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら…」。【今日の静聴】というメルマガに、主の命令をすぐ実行できなくとも、心に留めて祈り時を待ち、後日成果が出て賞賛されても、誉は主に返すべきとあった。甚く同感
黙示録2:25「わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」。〈固く守れ〉はNIVでは〈hold on to〜〉で、〜にしっかりしがみついている、の意。私達の信仰が強靭だから御教えを守れるのでなく、堅固なイエス様にしがみつくのだと考えると荷が軽い。
◆12月4日
新改訳ミカ3:5〈預言者たちについて、主はこう仰せられる。彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、「平和があるように」と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する〉。《聖戦》の語にドキリ。教職者も平信徒も御言葉の剣を振り回してはいないか?
◆12月5日
新改訳ミカ4:7「わたしは足のなえた者を、残りの者とし…」の〈残りの民〉がピンと来ず英訳を当たった。The Message Bible(MSG)では、同箇所が〈a company of the elite 選ばれた精鋭の一団〉とあった。主の期待は桁違い!
◆12月11日
新改訳ハバクク3:2「主よ。私はあなたのうわさを聞き…みわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください…怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」〈この年のうちに〉は新共同では〈数年のうちにも〉だが、新改訳の切迫感も年末に読むと感慨深い。
◆12月12日
新改訳ゼパニヤ1:12「主は良いことも、悪いこともしない」と心の中で言っている者。こういう人達は確かにいて、つい私達も、ヤコブやヨハネの「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」に似た心を抱き易い。が、報いるのは神ご自身と弁えたい
◆12月14日
新改訳ゼパニヤ2:15〈これが、安らかに過ごし、心の中で、「私だけは特別だ」と言ったあのおごった町なのか。ああ、その町は荒れ果てて、獣の伏す所となる〉。ここで指しているのはアッシリアやニネベの人々だろうが、〈特別〉との自尊は主に選ばれた人も陥り易い罠では
◆12月14日
ゼファニヤ3:18「わたしは 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ お前の重い恥となっていた」。レビ記等で汚れた者と規定された人達、主を共に礼拝したくても叶わなかった人達を集める、ということか。赦されて御前に立ち、賛美できる恵み
◆12月21日
ゼカリヤ4:10「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て 喜び祝うべきである」 井ノ川勝著『教会』では、7節「大いなる山」を瓦礫の山と解説。そこより「恵みあれ」と唱えて親石を運び始めた日を蔑むなと仰るのも合点がいく
◆12月22日
ゼカリヤ8:23〈その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』〉。人々が誘い合って主を尋ね求めに行く、こんな日が来れば…!と心底願う
◆12月30日
新改訳マラキ2:2「…あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら…」。【今日の静聴】というメルマガに、主の命令をすぐ実行できなくとも、心に留めて祈り時を待ち、後日成果が出て賞賛されても、誉は主に返すべきとあった。甚く同感
読み違う若き朗読奉仕者の漢字瞼に記しつつ聞く
目の不自由な方への代読ボランティアをかれこれ三年三ヶ月続けてきたが、つい先日「卒業」させていただいた。小さい頃から朗読が好きだった他は別段そうした経験があったわけではなく、代読サービス開始の8ヶ月ほど前に開かれた「代読ボランティア養成講座」に参加し一から勉強して臨んだのだった。
約三年間サービスの利用者の方はお一人きりだった。しかしこの方は向学心旺盛で、私達ボランティアも様々なジャンルの本を読ませていただき、途中からはメールで、全盲や弱視のみならず様々な障害について、また癌や認知症などの研究・医療に関する最新の情報も頂戴し、大変有り難かった。
『まなざし〜盲目の俳句・短歌集』は、私がボランティアを続けるうちに徐々に視覚障害への関心を深め、隣市の図書館で借りて読んだ本で、全盲および弱視の方々がお作りになった俳句と短歌が集められている。掲出歌は、私どものような代読の奉仕者との間での機微を詠んだもの。状況が手に取るように伝わる巧みな一首だ。
代読サービスが私の住む市の図書館でスタートして間もない頃、その利用者の方は「一言一句正確に、というよりは大意を掴めればいい」といったことを仰った。しばらく代読をこなすうちに、実際問題そのような気構えでいないと対面朗読は成り立たないのだということが分かってきた。毎度あらかじめ「下読み」できるわけではなく、ぶっつけ本番で読むこともあったから、時々読めない漢字などが出てくる。その場合は、漢字の部首や旁(つくり)などを説明したり、文脈から語義を推測して言葉を言い換えて読んだりした。また、「なるべく速く読んで下さい」というご希望だったので、視線と滑舌が追いつく限りの速いスピードで読んだが、そうすると読んで通過してから単語の読み違いに気付くこともしばしばだった。(あ。。。)と内心思いつつもどんどん先へと読み進める方が大切。そういう時は密かに冷や汗をかいたが、回を重ねるに従い、段々物怖じしなくなっていった。
代読の時間は一回1時間半。三人のボランティアが付き、一人30分ぶっ通しで読み上げる。これが結構なハードワーク。そのため、発声や早口言葉の練習はいつしか毎日行うようになっていった。お蔭でスタミナはついたが、果たして聞き取りやすい発音になっていたかどうか。最近、郵便局の休日窓口に行って、発売されて3日の「冬のグリーティング切手を下さい」と言ったところ、局員の方は「星のグリーティング…」とかもごもご呟いて、切手の引き出しを探し、レジパネルを凝視した上で「売り切れました」とキッパリ述べた。もう?そんなことが??と頭に沢山の疑問符を並べつつもすごすご引き下がり、翌日の月曜日に別の局へ行ったら無事購入できた。そんな調子だから、私の代読に耳を傾けて下さるのも、実はかなり注意力を要することだったのかもしれない。
こうした拙い読み手だったにも拘らず、利用者の方は不平一つこぼさず辛抱強く聴いて下さった。乳がんを患って精神的支柱がぐらぐらしていた頃に折よく代読ボランティアの募集があり、それに意識を向けられたから、私は五年間の集中的な治療の間にも生活の張り合いを得て、何とか乗り切れたのだと思う。代読にとりあえず区切りをつけた私の頭に浮かぶのは次の聖句である。「だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(コリントの信徒への手紙 二 8章11〜12節)
寺下雨鈴(大森理恵・辺見じゅん編『まなざし〜盲目の俳句・短歌集』より)
目の不自由な方への代読ボランティアをかれこれ三年三ヶ月続けてきたが、つい先日「卒業」させていただいた。小さい頃から朗読が好きだった他は別段そうした経験があったわけではなく、代読サービス開始の8ヶ月ほど前に開かれた「代読ボランティア養成講座」に参加し一から勉強して臨んだのだった。
約三年間サービスの利用者の方はお一人きりだった。しかしこの方は向学心旺盛で、私達ボランティアも様々なジャンルの本を読ませていただき、途中からはメールで、全盲や弱視のみならず様々な障害について、また癌や認知症などの研究・医療に関する最新の情報も頂戴し、大変有り難かった。
『まなざし〜盲目の俳句・短歌集』は、私がボランティアを続けるうちに徐々に視覚障害への関心を深め、隣市の図書館で借りて読んだ本で、全盲および弱視の方々がお作りになった俳句と短歌が集められている。掲出歌は、私どものような代読の奉仕者との間での機微を詠んだもの。状況が手に取るように伝わる巧みな一首だ。
代読サービスが私の住む市の図書館でスタートして間もない頃、その利用者の方は「一言一句正確に、というよりは大意を掴めればいい」といったことを仰った。しばらく代読をこなすうちに、実際問題そのような気構えでいないと対面朗読は成り立たないのだということが分かってきた。毎度あらかじめ「下読み」できるわけではなく、ぶっつけ本番で読むこともあったから、時々読めない漢字などが出てくる。その場合は、漢字の部首や旁(つくり)などを説明したり、文脈から語義を推測して言葉を言い換えて読んだりした。また、「なるべく速く読んで下さい」というご希望だったので、視線と滑舌が追いつく限りの速いスピードで読んだが、そうすると読んで通過してから単語の読み違いに気付くこともしばしばだった。(あ。。。)と内心思いつつもどんどん先へと読み進める方が大切。そういう時は密かに冷や汗をかいたが、回を重ねるに従い、段々物怖じしなくなっていった。
代読の時間は一回1時間半。三人のボランティアが付き、一人30分ぶっ通しで読み上げる。これが結構なハードワーク。そのため、発声や早口言葉の練習はいつしか毎日行うようになっていった。お蔭でスタミナはついたが、果たして聞き取りやすい発音になっていたかどうか。最近、郵便局の休日窓口に行って、発売されて3日の「冬のグリーティング切手を下さい」と言ったところ、局員の方は「星のグリーティング…」とかもごもご呟いて、切手の引き出しを探し、レジパネルを凝視した上で「売り切れました」とキッパリ述べた。もう?そんなことが??と頭に沢山の疑問符を並べつつもすごすご引き下がり、翌日の月曜日に別の局へ行ったら無事購入できた。そんな調子だから、私の代読に耳を傾けて下さるのも、実はかなり注意力を要することだったのかもしれない。
こうした拙い読み手だったにも拘らず、利用者の方は不平一つこぼさず辛抱強く聴いて下さった。乳がんを患って精神的支柱がぐらぐらしていた頃に折よく代読ボランティアの募集があり、それに意識を向けられたから、私は五年間の集中的な治療の間にも生活の張り合いを得て、何とか乗り切れたのだと思う。代読にとりあえず区切りをつけた私の頭に浮かぶのは次の聖句である。「だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(コリントの信徒への手紙 二 8章11〜12節)
紅茶淹れ割ったポットの蓋に代え載せた急須の蓋のちぐはぐ
(とど)
2011年9月23日 作歌、2016年12月19日 改訂。
(とど)
2011年9月23日 作歌、2016年12月19日 改訂。
狗尾草(えのころ)に射す晩夏光うしなったものを今ではおもいかえさず
(とど)
2014年9月9日 作歌。
*参照…フィリピの信徒への手紙4章11節
(とど)
2014年9月9日 作歌。
*参照…フィリピの信徒への手紙4章11節