◆7月3日
ルツ記4:7の、買い戻しや権利の譲渡の際に履き物を脱いで相手に渡す習慣は、申命記25:7-10に基づくものなんだな。筋を通さないと、権利の最優先者の顔に泥を塗るということなんだな。ボアズってカッコいいな。
◆7月4日
3週ぶりに礼拝へ。花の日(6/13)に発送の寄書きへのお礼葉書が掲示板に。箸も使えず字を書くのも歩くのもままならぬというSさんは、左手で右手を動かしながらお書きになったとか。生きるのに疲れる時もあるけれど(主よ、御心を悟る知恵をお恵み下さい)と祈り、朝夕に聖書と祈りに励まされているそうです。
この寄書きに牧師先生は、聖句のみ引き写ししていらっしゃいました。それを真似て、私も聖句のみ書きました。相手が信徒なら、人間的な慰めより、そのほうが心の中で生きることを知っているからです。ちなみにこの方には、私はこれを書き写しました。
↓ ↓ ↓
<コリントの信徒への手紙一 12章 26節>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
◆7月6日
サムエル⑴1章。不妊のハンナは子のいるペニンナにいびられ、神殿での毎年の礼拝のたび苦悶。泣きつつ心の中で祈ってたハンナは祭司エリに酔いをさますよう窘められる。取り乱しての祈りが自己中になり裁かれたのって私も経験。それが牧師からだったら尚辛い筈。でも神は全てご存知で祈りを聞く
◆7月7日
クリスチャンになってから、神を否定する(あるいは呪う)言説が苦しかった。神を悪し様に言われるのは自分を悪く言われてるのと同義だった(そのくらい自分には何も無かった。基本的には今もそう)。でも今は、昔に比べ神の大きさにもっと確信が持てるようになった。
↓ ↓ ↓
サムエル記下16:5-12。ダビデが息子に逆らわれ都落ちした時、前王サウルの一族の出のシムイがダビデと家臣に石を投げて呪った。曰く、サウル家の血を流して王位を奪ったから神が報復されてるのだ、と。ダビデの家臣はシムイに立ち向かうことを申し出るが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」と家臣を諫め、「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」 とも言った。
◆7月24日
最近、通読のコピペも礼拝聖句箇所のコピペも殆どしてなかったのが遠因で(←私ってとことん自意識過剰!)バテバテ気味に見えるフォロワーさんがいらっしゃるので、6月中旬〜下旬にかけて発送した手紙に添えた聖句をネタバレ。
* * *
<新共同訳 イザヤ書64章3節>
あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。
* * *
<新共同訳 詩編139編11節>
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
◆7月24日
(私って聖書博士だろ?ハッハッハ)的に聖句をあれこれ引用するよりは、その時々で送る相手に相応しい聖句であれば、使い回しでも心の籠った聖句がいいだろうと『信徒の友』3月号分は、だいぶ同じ聖句を書きました。でもネタバレしちゃったし、ずっと同じのだと祈りの気持ちが薄れてきてしまいます。
それで(礼拝時以外で久々に)紙の新共同訳を開き、とんでもない聖句を発見してしまいました。
↓ ↓ ↓
<詩編129編8節>
傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。
↓ ↓ ↓
こういう安手の祝福、お仕着せ的な聖句選んでないだろうか…?
◆7月27日
今日は午後、作業所で就労B利用のための計画相談の半期モニタリングがあった。私はabcNotesに予めメモしておいたことを元に、就労Bから地域活動支援センター(無給)への利用に移行したいと伝えたが、結局まだ時期尚早とのことで就労Bを継続することになった。
半年前のモニタリングの際に、この引用ツイートの件も伝えてたつもりだったが、指導員には初耳だったようだ。別に私は今も基本的に変わっていない。ただ義務のために生きてる、楽しみはないと言った。
*【1月30日のツイート】
(母との喧嘩は大なり小なり日々続いていたが、母があまりしつこく追求してくるので私は「もう世の中にはせいせいしてる。正直早くお迎えが来てほしい」と本音を言ったところ、母には相当ダメージだった模様。昨晩〜今朝は夢見が良くなかったらしく、午睡でもうなされてた。今も夕飯作りながら泣いてる。)
* * *
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙1章21-24節>
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
↓ ↓ ↓
某フォロイーさんが以前、綾小路きみまろの「人生ひまつぶし」のことを呟いてたけど、私もある意味それだよなぁ……ただ自己肯定感低いので、メンタルがかすかすになりながらアウトプットに走るという。。。
◆7月28日
弟の部屋を掃除してた母が『怒りに負ける人 怒りを生かす人』を弟が読んでることを足掛かりに、私を貶し始めた。「信徒のくせにあんたは…!」というありがちな迫害。でも、委員長に対する愚痴に関しても「◯◯さんだって善意で言ってるのに…!」と詰ってきたので、キレた(確かに怒りには負けてるよ)。
正直私には、委員長が相手を褒めちぎればその人を奴隷みたいに扱って良いかのように思ってるとしか見えない。(教会にとって伝道は必要✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧そして若者が教会に来たら、褒めちぎって重い責任を負わせよう)とでも思ってるようにしか見えない、と言った。母は「呆れた!」を連発。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コリント⑵5:12-13>
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
* * *
<同箇所 New Living Translation>
Are we commending ourselves to you again? No, we are giving you a reason to be proud of us, so you can answer those who brag about having a spectacular ministry rather than having a sincere heart. If it seems we are crazy, it is to bring glory to God. And if we are in our right minds, it is for your benefit.
↓ ↓ ↓
うわべのことで委員長が人を褒めちぎってるのは確かだし、神は私の怒りを解ってらっしゃる。でもその上で「神の和解を受け入れなさい」[コリント⑵5:20]と仰るのだな。聖書は毎日読んでるけど、ウルっときたのは久々。神様ありがとう
◆7月31日
サムエル⑵5章。初代王サウル死後サウル家は弱体化。ついにはイスラエル全部族がダビデにイスラエルの王となるよう請う。ヘブロンからエルサレムに来たダビデに対し住民のエブス人は「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」(新改訳第三版6節)と蔑む。だがダビデは攻略に成功。
* * *
<新改訳第三版 サムエル⑵5:8>
その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った。このため、「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」と言われている。
↓ ↓ ↓
ダビデの発言は、エブス人が自分を見くびったことを受けてのもので、障害者差別推奨の意味ではない。だが後世には王の命令として、発言の一部分のみが意図を歪曲されて伝わってしまった。悲しいかなこういうことって多々。権威ある立場の人の言葉の重み、その結論的な部分に群がる民衆の有り様を思う
ルツ記4:7の、買い戻しや権利の譲渡の際に履き物を脱いで相手に渡す習慣は、申命記25:7-10に基づくものなんだな。筋を通さないと、権利の最優先者の顔に泥を塗るということなんだな。ボアズってカッコいいな。
◆7月4日
3週ぶりに礼拝へ。花の日(6/13)に発送の寄書きへのお礼葉書が掲示板に。箸も使えず字を書くのも歩くのもままならぬというSさんは、左手で右手を動かしながらお書きになったとか。生きるのに疲れる時もあるけれど(主よ、御心を悟る知恵をお恵み下さい)と祈り、朝夕に聖書と祈りに励まされているそうです。
この寄書きに牧師先生は、聖句のみ引き写ししていらっしゃいました。それを真似て、私も聖句のみ書きました。相手が信徒なら、人間的な慰めより、そのほうが心の中で生きることを知っているからです。ちなみにこの方には、私はこれを書き写しました。
↓ ↓ ↓
<コリントの信徒への手紙一 12章 26節>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
◆7月6日
サムエル⑴1章。不妊のハンナは子のいるペニンナにいびられ、神殿での毎年の礼拝のたび苦悶。泣きつつ心の中で祈ってたハンナは祭司エリに酔いをさますよう窘められる。取り乱しての祈りが自己中になり裁かれたのって私も経験。それが牧師からだったら尚辛い筈。でも神は全てご存知で祈りを聞く
◆7月7日
クリスチャンになってから、神を否定する(あるいは呪う)言説が苦しかった。神を悪し様に言われるのは自分を悪く言われてるのと同義だった(そのくらい自分には何も無かった。基本的には今もそう)。でも今は、昔に比べ神の大きさにもっと確信が持てるようになった。
↓ ↓ ↓
サムエル記下16:5-12。ダビデが息子に逆らわれ都落ちした時、前王サウルの一族の出のシムイがダビデと家臣に石を投げて呪った。曰く、サウル家の血を流して王位を奪ったから神が報復されてるのだ、と。ダビデの家臣はシムイに立ち向かうことを申し出るが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」と家臣を諫め、「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」 とも言った。
◆7月24日
最近、通読のコピペも礼拝聖句箇所のコピペも殆どしてなかったのが遠因で(←私ってとことん自意識過剰!)バテバテ気味に見えるフォロワーさんがいらっしゃるので、6月中旬〜下旬にかけて発送した手紙に添えた聖句をネタバレ。
* * *
<新共同訳 イザヤ書64章3節>
あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。
* * *
<新共同訳 詩編139編11節>
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
◆7月24日
(私って聖書博士だろ?ハッハッハ)的に聖句をあれこれ引用するよりは、その時々で送る相手に相応しい聖句であれば、使い回しでも心の籠った聖句がいいだろうと『信徒の友』3月号分は、だいぶ同じ聖句を書きました。でもネタバレしちゃったし、ずっと同じのだと祈りの気持ちが薄れてきてしまいます。
それで(礼拝時以外で久々に)紙の新共同訳を開き、とんでもない聖句を発見してしまいました。
↓ ↓ ↓
<詩編129編8節>
傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。
↓ ↓ ↓
こういう安手の祝福、お仕着せ的な聖句選んでないだろうか…?
◆7月27日
今日は午後、作業所で就労B利用のための計画相談の半期モニタリングがあった。私はabcNotesに予めメモしておいたことを元に、就労Bから地域活動支援センター(無給)への利用に移行したいと伝えたが、結局まだ時期尚早とのことで就労Bを継続することになった。
半年前のモニタリングの際に、この引用ツイートの件も伝えてたつもりだったが、指導員には初耳だったようだ。別に私は今も基本的に変わっていない。ただ義務のために生きてる、楽しみはないと言った。
*【1月30日のツイート】
(母との喧嘩は大なり小なり日々続いていたが、母があまりしつこく追求してくるので私は「もう世の中にはせいせいしてる。正直早くお迎えが来てほしい」と本音を言ったところ、母には相当ダメージだった模様。昨晩〜今朝は夢見が良くなかったらしく、午睡でもうなされてた。今も夕飯作りながら泣いてる。)
* * *
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙1章21-24節>
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
↓ ↓ ↓
某フォロイーさんが以前、綾小路きみまろの「人生ひまつぶし」のことを呟いてたけど、私もある意味それだよなぁ……ただ自己肯定感低いので、メンタルがかすかすになりながらアウトプットに走るという。。。
◆7月28日
弟の部屋を掃除してた母が『怒りに負ける人 怒りを生かす人』を弟が読んでることを足掛かりに、私を貶し始めた。「信徒のくせにあんたは…!」というありがちな迫害。でも、委員長に対する愚痴に関しても「◯◯さんだって善意で言ってるのに…!」と詰ってきたので、キレた(確かに怒りには負けてるよ)。
正直私には、委員長が相手を褒めちぎればその人を奴隷みたいに扱って良いかのように思ってるとしか見えない。(教会にとって伝道は必要✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧そして若者が教会に来たら、褒めちぎって重い責任を負わせよう)とでも思ってるようにしか見えない、と言った。母は「呆れた!」を連発。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コリント⑵5:12-13>
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
* * *
<同箇所 New Living Translation>
Are we commending ourselves to you again? No, we are giving you a reason to be proud of us, so you can answer those who brag about having a spectacular ministry rather than having a sincere heart. If it seems we are crazy, it is to bring glory to God. And if we are in our right minds, it is for your benefit.
↓ ↓ ↓
うわべのことで委員長が人を褒めちぎってるのは確かだし、神は私の怒りを解ってらっしゃる。でもその上で「神の和解を受け入れなさい」[コリント⑵5:20]と仰るのだな。聖書は毎日読んでるけど、ウルっときたのは久々。神様ありがとう
◆7月31日
サムエル⑵5章。初代王サウル死後サウル家は弱体化。ついにはイスラエル全部族がダビデにイスラエルの王となるよう請う。ヘブロンからエルサレムに来たダビデに対し住民のエブス人は「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」(新改訳第三版6節)と蔑む。だがダビデは攻略に成功。
* * *
<新改訳第三版 サムエル⑵5:8>
その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った。このため、「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」と言われている。
↓ ↓ ↓
ダビデの発言は、エブス人が自分を見くびったことを受けてのもので、障害者差別推奨の意味ではない。だが後世には王の命令として、発言の一部分のみが意図を歪曲されて伝わってしまった。悲しいかなこういうことって多々。権威ある立場の人の言葉の重み、その結論的な部分に群がる民衆の有り様を思う
ライブラリより同期した説教を懈怠の様に聴き流してる
(とど)
2019年6月27日 作歌。
(とど)
2019年6月27日 作歌。
ご厚意で本を貸そうとなさるのは危険ですのでご遠慮ください
(とど)
2021年7月18日 作歌。
*下句はお題。
(とど)
2021年7月18日 作歌。
*下句はお題。
味見してください先生 いえわたし障害者です 告(の)らざるを得ぬ
(とど
2019年8月23日 作歌。
(とど
2019年8月23日 作歌。
作業所に休む連絡する前は無駄に自分を攻撃してる
(とど)
2021年7月11日 作歌。
*下句がお題
(とど)
2021年7月11日 作歌。
*下句がお題
不調より欠席事由、他の用を今日していいか悩む八時半
(とど)
2021年7月8日 作歌、2021年7月11日 改作。
(とど)
2021年7月8日 作歌、2021年7月11日 改作。
愚痴の聞き役として産み落とされた君の笑顔を初めて見たよ
(とど)
2021年7月11日 作歌。
*付句のお題は下句だが、元々の題は<初めて君の笑顔を見たよ>。当ブログ掲載に当たり、改変。
(とど)
2021年7月11日 作歌。
*付句のお題は下句だが、元々の題は<初めて君の笑顔を見たよ>。当ブログ掲載に当たり、改変。
北村先生は、私の通う精神科の医師である。一時期、【アフタークリニック】という会員制のネット心療相談室を主宰されていたこともあり(三年間)、私のことは日常生活・服薬状況・趣味・信仰心など、定期的な精神科通院だけでは知り得ない面までご存知なので、月一の受診の際は打てば響くような対応をしていただけており、こう言っては何だが《共闘関係》のような良い関係を築けている。
この本は、山梨日日新聞に三年間連載されていた『Dr.あやこ 精神科医のしあわせ論』というコラムを纏めたものである。本が出版された当初、実は私は買わなかった。リアルタイムの連載で読んでいたし、まぁいいよな……と思ったのである。私は昨年秋から冬にかけて精神症状が激昂し、作業所・家・受診の各所において日々バトルが繰り広げられ、不眠・幻聴・睡眠中の静臥不能症・脈拍数の高騰・運転もままならぬ程のふらつき・薬の管理も覚束なくなるほどの前後不覚感などによって文字通りヘロヘロになっていた。そんな昨年末に母が、「北村先生が以前書いていたという〈疲労度の測り方〉の表を作ってみたらどうか」と言ってきた。母は日々テレビに齧り付いていて、ニュースバラエティ等でよく目にしていたコロナウイルスの感染拡大状況のステージの図を参考に、その提案を私に持ちかけたのである。そうか、なるほど……と素直に従い、最寄り図書館でこの本を借りてきて年末年始で読み、作成したのが下の写真の表だ。
生活力のある方々には色々ツッコミどころ満載の表であろうがそれはまぁ措いておいて、先生のご著書の中でこの表作成の参考にした箇所は26ページからの[「得意が面倒」が過労の兆候]という章である。少し引用・抜粋する。
さて、一日の暮らしは家事をはじめ、多数の作業の集まりで成り立っている。例えば朝起きてからの身支度に始まり、食事の支度、洗い物、洗濯、掃除、整理、運転、買い物、子どもの世話、世間付き合い、草むしり、花の手入れ、テレビや新聞で情報を得るなどである。
この中から自分にとって「好きで得意なこと」は何だろうと考えてみてほしい。次に「苦手で不得意なこと」も同様に考えてみよう。つまりはそれらをものさしとして疲労度を測るやり方なのだ。
この際、「やらねばならない」かどうかは横に置いといて。自分にとって、好きで得意で割合自然にやれてしまうことと、苦手で不得意なので無理してやっている家事や雑用を、自覚的にしっかり分けることだ。その自覚がまず大事である。
そして先生は、好きなことは少々疲れていてもできる、それが億劫になるのは相当疲れている時なので、無理せず休むことが必要、と説く。私はこの表を作成したことにより自分自身の中で今の疲れ具合を客観的に判断できるようになったし、プリントアウトしたものを病院と作業所に提出したことで、作業所職員に不調による遅刻・欠席などを伝える際、また相談事をする際の話のベースとなってくれていて、大いに役立っている。
今回この書評を書くに当たってまた本を捲ってみて、もう一点だけ書いておきたいポイントがあったので、その箇所を探すべく隈なく本を行きつ戻りつ三往復くらいしたのだが、そのものズバリの箇所は見当たらなかった。もしかしたらちゃんと書籍中に存在するけれど私がそのピンポイントを発見できていないだけかもしれないが、所々にその要素を含む箇所は見つかったので、それらを総合し私の頭の中に焼き付いていた文言をおおよそ再現してみたい。
人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないか。その交通整理をお手伝いすることではないか。もし私自身が患者さんの課題を本人に成り代わって解決する役割を求められるなら、潔く精神科医の現役を降りたいと思います。
マルコによる福音書10章46節〜52節に、物乞いとして道端に座っていたバルティマイという盲人がイエスに目を癒されるシーンがある。51節に〈イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉と書いてある。これを読んで「目が見えるようになりたいに決まってるじゃん!当たり前のこと訊くなっつーの!!」と内心お怒りになる方も多くいることだろう。でも、物乞いだったバルティマイはもしかしたら「金持ちになって、物乞いしなくて済むようになりたいです」と答えても良かったのかもしれない(イエスがそれを叶えてくださったかは別だが)。
私は精神科を受診している方の話を聞いていて時々(自分の生きる意味がどこにあるか、先生に見定めてほしいと思ってるのかなぁ……)と感じてしまうことがある。精神科医は精神の病気の症状を和らげるのに手を貸してくださる、そのために必要な処方をしてくださる方である。未分化な問題を聞いてもらって、交通整理していただくのが必要な時もあろう。でもそれ以上の方ではないのである。イエス様でさえ、「何をしてほしいのか」とお聞きになるのである。人間である医師なら尚更のことである。
この本は、山梨日日新聞に三年間連載されていた『Dr.あやこ 精神科医のしあわせ論』というコラムを纏めたものである。本が出版された当初、実は私は買わなかった。リアルタイムの連載で読んでいたし、まぁいいよな……と思ったのである。私は昨年秋から冬にかけて精神症状が激昂し、作業所・家・受診の各所において日々バトルが繰り広げられ、不眠・幻聴・睡眠中の静臥不能症・脈拍数の高騰・運転もままならぬ程のふらつき・薬の管理も覚束なくなるほどの前後不覚感などによって文字通りヘロヘロになっていた。そんな昨年末に母が、「北村先生が以前書いていたという〈疲労度の測り方〉の表を作ってみたらどうか」と言ってきた。母は日々テレビに齧り付いていて、ニュースバラエティ等でよく目にしていたコロナウイルスの感染拡大状況のステージの図を参考に、その提案を私に持ちかけたのである。そうか、なるほど……と素直に従い、最寄り図書館でこの本を借りてきて年末年始で読み、作成したのが下の写真の表だ。
生活力のある方々には色々ツッコミどころ満載の表であろうがそれはまぁ措いておいて、先生のご著書の中でこの表作成の参考にした箇所は26ページからの[「得意が面倒」が過労の兆候]という章である。少し引用・抜粋する。
さて、一日の暮らしは家事をはじめ、多数の作業の集まりで成り立っている。例えば朝起きてからの身支度に始まり、食事の支度、洗い物、洗濯、掃除、整理、運転、買い物、子どもの世話、世間付き合い、草むしり、花の手入れ、テレビや新聞で情報を得るなどである。
この中から自分にとって「好きで得意なこと」は何だろうと考えてみてほしい。次に「苦手で不得意なこと」も同様に考えてみよう。つまりはそれらをものさしとして疲労度を測るやり方なのだ。
この際、「やらねばならない」かどうかは横に置いといて。自分にとって、好きで得意で割合自然にやれてしまうことと、苦手で不得意なので無理してやっている家事や雑用を、自覚的にしっかり分けることだ。その自覚がまず大事である。
そして先生は、好きなことは少々疲れていてもできる、それが億劫になるのは相当疲れている時なので、無理せず休むことが必要、と説く。私はこの表を作成したことにより自分自身の中で今の疲れ具合を客観的に判断できるようになったし、プリントアウトしたものを病院と作業所に提出したことで、作業所職員に不調による遅刻・欠席などを伝える際、また相談事をする際の話のベースとなってくれていて、大いに役立っている。
今回この書評を書くに当たってまた本を捲ってみて、もう一点だけ書いておきたいポイントがあったので、その箇所を探すべく隈なく本を行きつ戻りつ三往復くらいしたのだが、そのものズバリの箇所は見当たらなかった。もしかしたらちゃんと書籍中に存在するけれど私がそのピンポイントを発見できていないだけかもしれないが、所々にその要素を含む箇所は見つかったので、それらを総合し私の頭の中に焼き付いていた文言をおおよそ再現してみたい。
人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないか。その交通整理をお手伝いすることではないか。もし私自身が患者さんの課題を本人に成り代わって解決する役割を求められるなら、潔く精神科医の現役を降りたいと思います。
マルコによる福音書10章46節〜52節に、物乞いとして道端に座っていたバルティマイという盲人がイエスに目を癒されるシーンがある。51節に〈イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉と書いてある。これを読んで「目が見えるようになりたいに決まってるじゃん!当たり前のこと訊くなっつーの!!」と内心お怒りになる方も多くいることだろう。でも、物乞いだったバルティマイはもしかしたら「金持ちになって、物乞いしなくて済むようになりたいです」と答えても良かったのかもしれない(イエスがそれを叶えてくださったかは別だが)。
私は精神科を受診している方の話を聞いていて時々(自分の生きる意味がどこにあるか、先生に見定めてほしいと思ってるのかなぁ……)と感じてしまうことがある。精神科医は精神の病気の症状を和らげるのに手を貸してくださる、そのために必要な処方をしてくださる方である。未分化な問題を聞いてもらって、交通整理していただくのが必要な時もあろう。でもそれ以上の方ではないのである。イエス様でさえ、「何をしてほしいのか」とお聞きになるのである。人間である医師なら尚更のことである。
返金を責付(せつ)ける老いに自腹きる 反則技も使うんですね
(とど)
2021年7月4日 作歌。
*社会人一年目の実話(下句はお題)
(とど)
2021年7月4日 作歌。
*社会人一年目の実話(下句はお題)