水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2016年3月分まとめ

2016年03月31日 07時25分40秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆3月2日
詩篇71:9「年老いた時も、私を見放さないで…」。若い頃は仕事等が重要に見えたが、中年になり病気して色々失うと、主だけが共にいらしたことを痛感。15節「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが」

◆3月5日
詩篇74:22「神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください」(新改訳)。「言い分を立てて」はNIVでは〈defend your cause主張を守って〉。神様は不要な自己弁護はなさらない。

◆3月10日
ルカ6:29「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」を読んで、大崎瀬都さんの短歌「他の頬を差し出すといふ救ひあり仕返しできぬ立場の人に」を思い巡らした。苦しめる者に報復せず却って彼らのためにとりなしの祈りをした主を思って、初めてできる業。

◆3月11日
ルカ7:37~。罪深い女が主の御足を髪で拭い香油を塗ったのを、ファリサイ派の人は「主に触れている」としか思わなかった。だがイエスは「涙で足をぬらし髪で拭い、足に接吻し香油を塗ってくれた」と語る。一連の行動にこめた私達の思いの一つ一つを主は見過ごされない。

◆3月13日
詩編86:11は新共同訳の「御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください」がしっくりくる。本来は〈一つの心〉の意だろうが、「一筋」には(山をも動かす)からし種一粒ほどの信仰、に通じる含みが。一条の心から主を崇める信仰へと導かれる私達。

◆3月14日
詩篇87:4「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として」(新改訳)。旧約の時代から、神様は分け隔てなさらなかった方であるのに今更気づく。通読って大事ですね。

◆3月15日
ルカ9:10~。伝道から帰った使徒達を連れイエスはベツサイダへ密かに退く。新改訳11節には「ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしに…」と。喜んで、に瞠目

◆3月16日
詩89:14「恵みとまことは、御前に先立ちます」(新改訳)この〈まこと〉は、faithfulness忠実さ。一方、ヨハネ福音書1:14のイエスの受肉のくだりの結びの「恵みとまことに満ちておられた」は、truth真実。主の誠実を表す英語の語彙の豊かさを思う

◆3月17日
詩編90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。今日は乳癌術後4年目の検査。乳癌になって生き方が見えてきた。代読ボランティアも教会トラクトのための一首鑑賞執筆も、張り合いになっている。悔いなく生きたい。

◆3月23日
詩篇98:4「全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え」。一見ああ讃歌か…と思ったが、NIV後半「burst into jubilant song with music」に瞠目。どっと堰を切ったように喜びの歌に溢れる、とイメージが膨らむ。

◆3月30日
詩編107:20「主は御言葉を遣わして彼らを癒し破滅から彼らを救い出された」。イエスはその口の言葉で、遠く離れたところにいる病人をも癒した(マタイ8:5~13)。いま私達の許には聖書がある。イエスは時空を超えて私達を助けることがおできになる。

◆3月31日
詩編108では「神よ、わたしの心は確かです」と前置きして賛美するが「曙を呼び覚まそう」 と、夜明けを待ちかねるほど賛美への希求がほとばしっている。新改訳13節には「神によって、私たちは力ある働きをします」と。私達の手の業は、神にあって初めて意味あるものに

※ NIV … New International Version
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#通読 2016年1月~2月分まとめ

2016年03月18日 07時25分24秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
昨年8月末より、FEBCラジオのウェブサイトに掲載されている聖書通読表を使って、通読を進めています。でも、感じたことなどをノートに都度書きとめるのまではなかなか手が回りません。そんなことを思っていると、FEBCのスタッフの方が、今年から通読の感想や疑問などを気軽にシェアできるTwitterアカウントを新設してくださいました。
私のTwitterのフォロワーさんにはキリスト教が大嫌いな方もいらっしゃるので、私の通読の感想はもっぱら@febcjp宛てのリプライで呟いています。
最初は何の気なしに呟いてきたことも、後で振り返れば「ああ、こんな発見があったんだな…」と改めて得るものがありました。それで、一ヶ月分ぐらいずつまとめてブログにも通読の感想を転載することにします。
今回は、2016年1月~2月分をまとめました。


◆1月21日
新改訳を使うようになって3年5ヶ月。詩篇18:9(新共同では10節)「主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」に目を開かれました。主は天を押し曲げてでも、私達のもとにお出でなされたんですね。そして「私を喜びとされた」(19節)とも。

◆1月25日
主の十字架を思わせる詩編22編。苦難を潜って詩編作者はついに賛美の境地へ。新共同26節に「わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ」とあるのが、新改訳では「大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです」と。賛美も自分の業ではなく主が備えて下さるんですね

◆2月1日
詩33:15。新共同「人の心をすべて造られた主は彼らの業をことごとく見分けられる」と客観的。新改訳「主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方」。〈見分ける、読み取る〉はNew Int’l Ver.では〈consider思いやる〉

◆2月7日
詩編39は舌で罪を犯さぬよう黙する人が詠まれています。新共同3節「沈黙しあまりに黙していたので苦しみがつのり」は新改訳では「よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった」。間違いを避けようとしてひたすら黙り、霊的な窒息死に至るのは身に覚えあり

◆2月21日
新共同の詩編59:11「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます」は新改訳では「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる」。放蕩息子を遠くより見つけて走り寄る父は、怒って外にいる長男にも家から出てきて宥めたという深井智朗先生の指摘(信徒の友3月号)は鋭い

◆2月22日
詩篇60:2(新改訳)「あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。」東日本大震災5年を前に、ずうんと響く聖句です。地の裂け目を、そしてそれによって生じた社会の亀裂を、癒して下さいと祈ります。

◆2月23日
マルコ10:37長く従ってきたヤコブとヨハネの懇願「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」は、10:17金持ちの問い「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたら…」と大差ない気が。主は両者とも慈しみ諭す

◆2月24日
詩編62:12(新共同)「ひとつのことを神は語りふたつのことをわたしは聞いた」。神の語ることはシンプル。けれどそこには主の私達への愛が幾重にも張り巡らされており、同じ聖句を読んでもその時その時で新たなメッセージを受け取ることができる。

◆2月25日
新共同の詩編63:2「あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え水のない地のように渇き果てています」は、新改訳では「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」に。強烈!

◆2月27日
詩編66:2は英訳を見ても、新改訳の「…神への賛美を栄光に輝かせよ」が本来的な意味のよう。だが私は新共同の「…栄光に賛美を添えよ」に惹かれる。私達が主の栄光を輝かせずとも、神はご自身栄光に満ちている。私達はその主に賛美を添えるだけだ、というところが。

◆2月29日
詩編69:6「神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです」(新共同)は、十本の指に入る好きな聖句。私の頭の中でこれは「神様、バレバレだと思うけどさ、私って馬鹿なんだよね。本当に汚くってさ…」という告白として響く。
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隣の芝生。

2016年03月13日 16時22分10秒 | 人[その作品]に寄せて
暇ぼやく 友はわたしの一週を
妬みて詮なき 二言三言
(とど)

2015年11月23日 作歌。
コメント (2)
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半旗。

2016年03月11日 06時16分34秒 | 風景にあわせて
東電に 半旗の下がる 3.11(サンイチイチ)

2015年1月11日 句作。
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一首鑑賞(28):橋本喜典「amenとわれ」

2016年03月07日 09時30分50秒 | 一首鑑賞
招かれていただく午餐慎しき友の祈禱(いのり)に amen とわれ
橋本喜典『悲母像』


 橋本が特にキリストを信じているわけではないことは歌集全体から読み取れる。ただ戦中に軍事教練を一緒に受けた旧友を訪ねて昼食を共にした時に、信仰を持つ友が食前の祈りを唱えてくれたということらしい。決して贅沢ではない食事を前に、訥々と感謝の祈りを捧げる友の声が聞こえてくるようだ。その祈りの真実さに自然と、橋本の口からも「アーメン」という言葉がこぼれた。温かな一首である。
 生涯をハンセン病の患者のために尽くした医師・林文雄の句文集にも、食前の祈りを詠んだ俳句が収められている。「炬燵」という一連から二つばかり句を引く。

  祈るとき坐りなほせるこたつかな/『林文雄 句文集~天の墓標』
  食前の祈に鍋のふつふつと/ 〃

 今ではテーブルの食卓を囲むのは当たり前の光景になったが、林が生きた大戦中はまだ炬燵や卓袱台で食事をするのはごく一般的なことであったろう。炬燵ではふだん胡座をかいているか脚を伸ばしているかしているところ、食前の祈りのために姿勢を正したという描写に非常に実感が籠っている。そして、目を瞑って祈っている最中、鍋のぐつぐつと煮える音と食欲を誘う香りが漂ってくる。まさに至福の時だ。
 似たような場面の親子を描いた歌もある。岡井隆の『αの星』の中の一首である。

  飲食のまへの祈りに子と和してあたたかき汁に顔ちかづけぬ

 この歌では、岡井が食前の祈りを祈り、最後に子供と共に「アーメン」と唱和したという場面であろう。家族で一人クリスチャンである私などには、岡井のように食卓で「アーメン」を共有できる家庭は、とても眩しく思える。
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一首鑑賞(27):小中英之「欠落の部分を神に感じ始めつ」

2016年03月05日 14時32分17秒 | 一首鑑賞
枇杷の花咲く空あをし欠落の部分を神に感じ始めつ
小中英之『過客』


 小中の母親は熱心なクリスチャンであった。だが小中自身は確たる信仰を受け継げず、さりとて生まれた時から囲まれて育った聖書の言葉を完全に無視することもできなかったらしい。生涯にわたって小中の歌には「罪」「神」という言葉が登場し、その頻度にはもはや執念のようなものすら感じさせる。
 もし掲出歌の三句以降が「欠落の部分感じ始めつ」なら、がらんとした青空にふと神を感じ始めた、という非常に素直な歌に取れる。そこを「欠落の部分感じ始めつ」とするところが、小中ならではである。けれども初句から二句までの清々しさで意味がばっさり切れて、それに比して神とは何たる欠けの多いものか…!という憤怒を読み取ろうとするのは、少し無理があるように思う。
 私はこう解釈した。つまり、完全無比・全知全能の神のイメージにがんじがらめにされてきた小中が、枇杷の花が咲きこぼれる空の洞を眺めてふと、あの神にも欠落している部分があるのかもしれない、と眉間に入っていた力がスッと抜けるような感覚を抱いた瞬間があったということではないだろうか。
 コロサイの信徒への手紙1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」 という聖句がある。複数の病に苦しみながら六十四歳で命尽きた小中が、実存の煩悶から逃れ切れなかったことは、遺された数々の歌によって窺い知れる。しかし、神には欠落があると小中が洞察した時、あのキリストでさえも私達とつながるために<苦しみの欠けたところ>を残されたということを彼がどこか感受していたと考えるのは、読みが恣意的に過ぎるだろうか。
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ラリるれろ。

2016年03月04日 17時26分18秒 | 言葉に寄せて
御言葉を 繰りつつ卑語に 親しんだ
わが舌の罪 知るラリるれろ
(とど)

2011年6月27日 作歌。
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一首鑑賞(26):大崎瀬都「他の頬を差し出すといふ救ひあり」

2016年03月03日 10時02分05秒 | 一首鑑賞
他の頬を差し出すといふ救ひあり仕返しできぬ立場の人に
大崎瀬都『メロンパン』


 歌意は、信条などのために誰かの仕打ちに報復できない人でも、打たれた側と逆の頬も向けさせるという「救ひ」は持ち合わせている、となろう。被虐的に聞こえる歌かもしれない。「他の頬を差し出す」というのは、イエスの言葉を元に詠まれているのは明白である。それはこうだ。<しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい>(ルカによる福音書6章27~29節)。けれど、それがなぜ「救ひ」になるのか。一つには、ローマの信徒への手紙12章19節~20節<愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」>という御言葉を、大崎が承知していたためと思われる。
 ここまで聞いて、大崎の歌を「何だ、負け惜しみか…」と捉える方もいることだろう。しかし、この歌の直前に下記の一首が置かれることで、掲出歌は単なる虚勢とは一線を画す、強靭なバックボーンを与えられている。

   偽善者てふ語彙は十代の半ばごろ新約聖書を読みて知りたり

 私事になるが、私は幼少から十代まで兄の暴力を受けつつもそれを親に訴えず、表面的には平然とやり過ごしていた。私はそういう自分を内心誇る気持ちがあった。だが、キリスト教主義高校に入学し、毎朝授業の前に礼拝を受けるようになって、私は次の聖句に出遭って愕然とした。<たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない>(コリントの信徒への手紙 一 13章2節~3節)。 ――見透かされた!――そう思った。私はまさに偽善者だったのだ。
 イエスご自身が真心をもって「もう一方の頬を向け」た方であったと私が理解するまでには、それから何年も要した。掲出歌の心境は、あるいは理屈の上では察せられたとしても、信徒でなければ心深く迫ってくるものではないかもしれない。何故ならその「救ひ」は、「イエス様ならこの気持ちを分かって下さっている」というものだから。
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早口言葉をパロって。

2016年03月03日 04時45分05秒 | 言葉に寄せて
巧いうた いま詠うまい
痛いうた 詠い今際も うたっていたい
(とど)

2014年9月20日 作歌。
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