◆12月11日
作業所には(私を含めてだろうが)仕事・生活をする上で実際どう手順を組むか分かっていない人が多い(まぁそういう人達だから指導されに来てるとも言えるが)。メンバーには昂奮して喋り続け、作業の手が疎かになってしまう人も数人(私もそういう時もある)。一年ほど前に父君を亡くした某メンバーが、最近あまり眠れずハイテンションになって方々へ出かけてるらしい。その人の支離滅裂なお喋りが過度で、周りは皆んな憔悴してる。その人のエロ妄想の標的にされてる感もあり、私も内面を掻き乱され作業中に軽めの鎮静剤服用する場面も生じてる。以前は単なる憎悪の対象でしかなかったその人だが、ぶっ飛んだお喋りに混じる具体的な事柄[お兄様や近所の人に命じられて為したことが見当違いで相手にキレられたが、本人としては(従ったのに…)みたいな齟齬で終わってしまってること]が見えてくるにつけ、マルコによる福音書5章のゲラサの人の話が浮かんだり、箴言29章1節の「懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない」(新共同訳)が浮かんだりする。箴言29:1は他の訳だと《本人が頑固だからいけない》的なニュアンス。新共同訳も「もう癒すことはできない」と言い切りが相当キツいが、マルコ福音書5:15みたいな奇跡もイエスなら起こせるのだろうなぁ、と。私のできることは当人の激情に呑まれぬよう距離を取りつつ、次の御言葉がその人と共にありますように、と祈るぐらい。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇85:4-7>
われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
(※12月12日礼拝の交読詩篇より)
◆12月22日
昨日は通所日。クリスマス礼拝で貰った菓子袋の写真を色んな方に見せ自慢してた。昼休みに、神様を信じてるUさんにも見せた。ミニカード裏面の聖句を見たUさんは少し考え「相談したいことがある」と。Uさんはグループホームと同じ団地に住む知的と思われる若い男性に付き纏われて困ってるのだとか。どうも、いかがわしいことを言いながら寄ってくるらしい。私の見せた写真の「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙3:14)に、そういう手合いも受け入れなくてはいけないのか、と葛藤したよう。私は「毅然としてるのも愛ですよ」と答え、「人に罪をおかさせないのも愛です」と言い、箴言27:6「愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」(新共同訳)を見せた。そして「Uさんが守られるよう私も祈りますね」と言った。「お願いします」とUさん。実は午前の作業の途中からFさんのトラウマトークが炸裂していて、昼休みの始まる時も仲の良いAさんに被害妄想をぶつけていたりしたのだが、昼休み終わり頃の私とUさんの会話が何となく場を律した感じで、職員に対して管を巻いてたFさんも急に大人しくなり、午後は皆んな黙々と作業に励んだ。
◆12月31日
<新共同訳 マタイによる福音書7:1-2>
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(※この聖句には長いこと勘違いがあった。威圧感ある処世術のように感じていたのだ。)
↓ ↓ ↓
<新共同訳 ヨハネによる福音書5:2-9>
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
* * *
私は小学校3年生頃まで兄と同室だった。物心ついた頃には兄に暴力を振るわれる日常だったから、部屋でもビクビクしてた。兄のテリトリーは青の絨毯、私のテリトリーはオレンジの絨毯。兄は私が青の絨毯に少しでも触れると激怒。机まで行くにはベッドが塞がっていて、それがちょうどオレンジの絨毯幅いっぱい。初め私は青の絨毯の縁を歩いて自分の机に行っていたが兄が烈火のごとく怒ったので、ベッドの上をスタスタ上って行くように。そしたら母が「スリッパで汚い!」と怒った。(じゃあレイアウト変えてよ)と言う知恵もまだなく、私は膝をついてベッドを渡るようになった。そんな調子だったので、兄が部屋にいる間は私は存在感を消すことに必死。自然、ベッドの中で身を横たえて過ごすことが多くなった。
↓ ↓ ↓
ヨハネによる福音書5章の話は、私は長らく理解できていなかったなと。母教会でもイエスの「床を担いで歩きなさい」は、(言い訳するな!)的なニュアンスで語られていて、(優しいイエス様が?)と私には疑問で仕方なかった。でもイエスは38年伏せっていた人を裁かなかったのではないだろうか?
* * *
先日作業所で、箱の折りかセットかどちらかの作業を選ぶよう言われた。セットはサイドの仕切りを入れるのに力が要り、指がむくんでき易い(リンパ浮腫を防ぐため避けたい作業)。折りは、しっかり折って尚且つ皺の寄らないようにとのこと。私は握力弱いが「工夫してやってみます」と折りに挑戦。一生懸命に折りの作業をしながら、私はナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた女性(マルコ福音書14章)や、財産の半分を貧しい人々に施し誰かから騙し取ってた分は四倍にして返すと言った徴税人ザアカイ(ルカ福音書19章)を侮らなかったイエスのことを考えた。主は私の自発的な行いを少しも裁かないのだなと。
作業所には(私を含めてだろうが)仕事・生活をする上で実際どう手順を組むか分かっていない人が多い(まぁそういう人達だから指導されに来てるとも言えるが)。メンバーには昂奮して喋り続け、作業の手が疎かになってしまう人も数人(私もそういう時もある)。一年ほど前に父君を亡くした某メンバーが、最近あまり眠れずハイテンションになって方々へ出かけてるらしい。その人の支離滅裂なお喋りが過度で、周りは皆んな憔悴してる。その人のエロ妄想の標的にされてる感もあり、私も内面を掻き乱され作業中に軽めの鎮静剤服用する場面も生じてる。以前は単なる憎悪の対象でしかなかったその人だが、ぶっ飛んだお喋りに混じる具体的な事柄[お兄様や近所の人に命じられて為したことが見当違いで相手にキレられたが、本人としては(従ったのに…)みたいな齟齬で終わってしまってること]が見えてくるにつけ、マルコによる福音書5章のゲラサの人の話が浮かんだり、箴言29章1節の「懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない」(新共同訳)が浮かんだりする。箴言29:1は他の訳だと《本人が頑固だからいけない》的なニュアンス。新共同訳も「もう癒すことはできない」と言い切りが相当キツいが、マルコ福音書5:15みたいな奇跡もイエスなら起こせるのだろうなぁ、と。私のできることは当人の激情に呑まれぬよう距離を取りつつ、次の御言葉がその人と共にありますように、と祈るぐらい。
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<新改訳第三版 詩篇85:4-7>
われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
(※12月12日礼拝の交読詩篇より)
◆12月22日
昨日は通所日。クリスマス礼拝で貰った菓子袋の写真を色んな方に見せ自慢してた。昼休みに、神様を信じてるUさんにも見せた。ミニカード裏面の聖句を見たUさんは少し考え「相談したいことがある」と。Uさんはグループホームと同じ団地に住む知的と思われる若い男性に付き纏われて困ってるのだとか。どうも、いかがわしいことを言いながら寄ってくるらしい。私の見せた写真の「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙3:14)に、そういう手合いも受け入れなくてはいけないのか、と葛藤したよう。私は「毅然としてるのも愛ですよ」と答え、「人に罪をおかさせないのも愛です」と言い、箴言27:6「愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」(新共同訳)を見せた。そして「Uさんが守られるよう私も祈りますね」と言った。「お願いします」とUさん。実は午前の作業の途中からFさんのトラウマトークが炸裂していて、昼休みの始まる時も仲の良いAさんに被害妄想をぶつけていたりしたのだが、昼休み終わり頃の私とUさんの会話が何となく場を律した感じで、職員に対して管を巻いてたFさんも急に大人しくなり、午後は皆んな黙々と作業に励んだ。
◆12月31日
<新共同訳 マタイによる福音書7:1-2>
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(※この聖句には長いこと勘違いがあった。威圧感ある処世術のように感じていたのだ。)
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<新共同訳 ヨハネによる福音書5:2-9>
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
* * *
私は小学校3年生頃まで兄と同室だった。物心ついた頃には兄に暴力を振るわれる日常だったから、部屋でもビクビクしてた。兄のテリトリーは青の絨毯、私のテリトリーはオレンジの絨毯。兄は私が青の絨毯に少しでも触れると激怒。机まで行くにはベッドが塞がっていて、それがちょうどオレンジの絨毯幅いっぱい。初め私は青の絨毯の縁を歩いて自分の机に行っていたが兄が烈火のごとく怒ったので、ベッドの上をスタスタ上って行くように。そしたら母が「スリッパで汚い!」と怒った。(じゃあレイアウト変えてよ)と言う知恵もまだなく、私は膝をついてベッドを渡るようになった。そんな調子だったので、兄が部屋にいる間は私は存在感を消すことに必死。自然、ベッドの中で身を横たえて過ごすことが多くなった。
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ヨハネによる福音書5章の話は、私は長らく理解できていなかったなと。母教会でもイエスの「床を担いで歩きなさい」は、(言い訳するな!)的なニュアンスで語られていて、(優しいイエス様が?)と私には疑問で仕方なかった。でもイエスは38年伏せっていた人を裁かなかったのではないだろうか?
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先日作業所で、箱の折りかセットかどちらかの作業を選ぶよう言われた。セットはサイドの仕切りを入れるのに力が要り、指がむくんでき易い(リンパ浮腫を防ぐため避けたい作業)。折りは、しっかり折って尚且つ皺の寄らないようにとのこと。私は握力弱いが「工夫してやってみます」と折りに挑戦。一生懸命に折りの作業をしながら、私はナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた女性(マルコ福音書14章)や、財産の半分を貧しい人々に施し誰かから騙し取ってた分は四倍にして返すと言った徴税人ザアカイ(ルカ福音書19章)を侮らなかったイエスのことを考えた。主は私の自発的な行いを少しも裁かないのだなと。
切除したリンパのゆえにあきらめた編みものの本さらにて譲る
(とど)
2015年4月8日 作歌。
(とど)
2015年4月8日 作歌。
会食も茶会も中止の降誕節クリスマスカラーの菓子袋受く
今年の9月上旬、コロナ禍の教会でのクリスマスについて一本は一首鑑賞を書いておきたいと思って、『信徒の友』のバックナンバーの文芸欄を見直していた。角田の掲出歌もそのうちの一首で、ああ2020年のわがN教会も同じことをしたよなぁと感慨にふけった。自然と今年のクリスマスの祝会は開催するのか否かなどに思いが及び、どう考えても愛餐会・祝会は無理ではないだろうかと考えを巡らすうちに、今年のクリスマス礼拝後に配るお菓子袋に入れる俳句のミニカードを思いついて、半ば操られるかのようにパソコンを起動し、その原案をすぐ作ってしまった。
その俳句は、高田たづ子氏の「クリスマス地球にリボンかけるかな」という句である。私は俳句は余技程度の嗜みしかないが、2018年のバザー向けに俳句のアドヴェントカレンダーを作成・出品した関係で、クリスマスの俳句だけはネットを駆使して調べ尽くしていたので、俳句のミニカードの案を思いついた時には高田の俳句がパッと浮かんだ。翌週半ばに教会へ週報などを取りに行った際に、牧師先生にクリスマス礼拝関係の事柄の見込みをお尋ねした上で、一応形になった原案をワープロソフトで開いた状態のパソコン画面をスマホで撮影した写真をお目にかけ、「もし祝会ができそうもなかったら、こういうミニカードを菓子袋に入れるのもいいんじゃないかと、勝手に作りました。ただご提案です」と申し上げた。牧師先生は少し煙に包まれたかのような顔つきをなさっていたが、とりあえず話はそこまでにして私は帰った。
2020年春先からのコロナウイルスの急速な感染拡大に伴い、イースター愛餐会・祝会も中止になったが、実はその祝会は私の所属する委員会が計画していた。2019年の年末の委員会で私は目玉企画「イースター俳句穴埋めクイズ」を提案し、俳句選び・出題の仕方など着々と準備を進めていたので、出鼻を挫かれた感が強かったが勿論このようなご時世では仕方ない。感染者数は上下しつつも状況は収束に向かわず、2020年のクリスマスも、2021年のイースターも、結局愛餐会・祝会は行われず、今年の11月の長老会で2021年のクリスマスも愛餐会・祝会は行われないことが決定した。私はクリスマス菓子袋用のミニカード原案を完成させ、そのプリントアウトを三枚、牧師先生・牧師夫人・委員長にご確認いただくために11月最後の礼拝に持参した。お菓子の準備・ラッピングは牧師夫人と委員長でするということだった。私はクリスマス礼拝の当日を楽しみに待った。
クリスマス礼拝は“密”を避けるために、二回に分けて行われた。私は二回目の礼拝に出席した。二回目の礼拝の当番で受付をなさっていた委員長が開口一番「凄く可愛いよ!」と仰った。帰りに一つお土産のお菓子をいただいた。それがこれである。
ミニカードの裏面には、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」 (コロサイの信徒への手紙3章14節)という聖句も印字した。——コロナウイルス感染症がいつ収束するのかは分からない。けれど、地球上の皆さんをイエスの愛が包んでいてくださいますように、との願いをささやかなカードに込めた。
『信徒の友』2021年11月号文芸欄に、八ヶ岳というペンネームの方の「教会で集いて川柳作りたい」という川柳が掲載されていたが、まさに我が意を得たり、と思った。教会の祝会で俳句穴埋めクイズができる日が早く来ますように、と心から願う。
角田靜恵(『信徒の友』2021年4月号「読者文芸」欄より)
今年の9月上旬、コロナ禍の教会でのクリスマスについて一本は一首鑑賞を書いておきたいと思って、『信徒の友』のバックナンバーの文芸欄を見直していた。角田の掲出歌もそのうちの一首で、ああ2020年のわがN教会も同じことをしたよなぁと感慨にふけった。自然と今年のクリスマスの祝会は開催するのか否かなどに思いが及び、どう考えても愛餐会・祝会は無理ではないだろうかと考えを巡らすうちに、今年のクリスマス礼拝後に配るお菓子袋に入れる俳句のミニカードを思いついて、半ば操られるかのようにパソコンを起動し、その原案をすぐ作ってしまった。
その俳句は、高田たづ子氏の「クリスマス地球にリボンかけるかな」という句である。私は俳句は余技程度の嗜みしかないが、2018年のバザー向けに俳句のアドヴェントカレンダーを作成・出品した関係で、クリスマスの俳句だけはネットを駆使して調べ尽くしていたので、俳句のミニカードの案を思いついた時には高田の俳句がパッと浮かんだ。翌週半ばに教会へ週報などを取りに行った際に、牧師先生にクリスマス礼拝関係の事柄の見込みをお尋ねした上で、一応形になった原案をワープロソフトで開いた状態のパソコン画面をスマホで撮影した写真をお目にかけ、「もし祝会ができそうもなかったら、こういうミニカードを菓子袋に入れるのもいいんじゃないかと、勝手に作りました。ただご提案です」と申し上げた。牧師先生は少し煙に包まれたかのような顔つきをなさっていたが、とりあえず話はそこまでにして私は帰った。
2020年春先からのコロナウイルスの急速な感染拡大に伴い、イースター愛餐会・祝会も中止になったが、実はその祝会は私の所属する委員会が計画していた。2019年の年末の委員会で私は目玉企画「イースター俳句穴埋めクイズ」を提案し、俳句選び・出題の仕方など着々と準備を進めていたので、出鼻を挫かれた感が強かったが勿論このようなご時世では仕方ない。感染者数は上下しつつも状況は収束に向かわず、2020年のクリスマスも、2021年のイースターも、結局愛餐会・祝会は行われず、今年の11月の長老会で2021年のクリスマスも愛餐会・祝会は行われないことが決定した。私はクリスマス菓子袋用のミニカード原案を完成させ、そのプリントアウトを三枚、牧師先生・牧師夫人・委員長にご確認いただくために11月最後の礼拝に持参した。お菓子の準備・ラッピングは牧師夫人と委員長でするということだった。私はクリスマス礼拝の当日を楽しみに待った。
クリスマス礼拝は“密”を避けるために、二回に分けて行われた。私は二回目の礼拝に出席した。二回目の礼拝の当番で受付をなさっていた委員長が開口一番「凄く可愛いよ!」と仰った。帰りに一つお土産のお菓子をいただいた。それがこれである。
ミニカードの裏面には、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」 (コロサイの信徒への手紙3章14節)という聖句も印字した。——コロナウイルス感染症がいつ収束するのかは分からない。けれど、地球上の皆さんをイエスの愛が包んでいてくださいますように、との願いをささやかなカードに込めた。
『信徒の友』2021年11月号文芸欄に、八ヶ岳というペンネームの方の「教会で集いて川柳作りたい」という川柳が掲載されていたが、まさに我が意を得たり、と思った。教会の祝会で俳句穴埋めクイズができる日が早く来ますように、と心から願う。
局員はパネルに「星…」と呟きつつ冬の切手の完売を告ぐ
(とど)
2016年12月8日 作歌、2021年12月23日 改訂。
(とど)
2016年12月8日 作歌、2021年12月23日 改訂。
親指にペンだこ作りカード書きやっと終わったとひとまず休む
(とど)
2021年12月5日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2021年12月5日 作歌。
*下句はお題
この鑑賞が各方面の方々を傷つけることにならないか恐れつつもパソコンに向かっている。曲タイトル「I Give You My Friendship」に、私は社会人一年目の秋の母教会の学び会リーダーの言葉を思い出す。
その頃の私は、会社の人や教会のクリスチャンなど周りの一挙手一投足によって、家族関係のトラウマを無造作に触られるような悲痛な疼きに苦しめられていた。社会人一年目の出来事については詳述しない。ここでは「I Give You My Friendship(あなたに友情をあげるよ)」の言葉と、それと関わるトラウマについて書くことにする。
私は、単に社交性が無かったとも言えるが、昔から群れずに生きてきた。しかしそんな私でも中学に入った頃には無性に人恋しくなり、友達を渇望するようになっていった。だがどういう風に友達を作っていいか分からない私は、向こうから声をかけてくる人の聞き役になるのが精々だった。中二の時にクラスに転入してきたMちゃんは漫画を描く人で、下手ながらも漫画やイラストを描いていた私はそのうち彼女の家によく遊びに行くようになった。彼女に影響されて「キャプテン翼」や少年ジャンプを読むようになり、遊びに行った時はいつもただ楽しかったことを覚えている。小学生の頃は友達の家に入り浸りになるなんてことがなかったからか、母は物凄く心配して神経を尖らせた。実は彼女は、ご両親が離婚されていて、一緒に住んでいるお母様はお勤めに出ていた。彼女はたびたび私の家にも電話をかけてきたが、母はその都度外野で大声で電話に割り込んできた。そしてある時私達の電話中に、「Mちゃんと付き合うと、○○(私)が不良になる。親が離婚しているんだから!」と言い放った。Mちゃんと私は押し黙り、電話を切った。後日彼女に聞いたら、あの電話の後、皿を二枚投げつけて割ったということであった。Mちゃんとの交友関係は自然に消滅した。
父を早くに亡くし女手一つで育った母は、経済的な事情から兄(私の伯父)に進学の道を譲り、大学進学を諦めたという経緯があったため、私を何としてでも大学に入れたい気持ちが強かった。高校受験で失敗した私に大学の推薦入学を取らせたこともその一方途だった。そのため母は、高二になった私に毎週日曜の朝になると教会へ行けと追い立てた。私は女性が経済的に自立しないと、結婚相手に暴力を振るわれても我慢するしかないのだと強力に刷り込まれていたため、嫌々ながら仕方なく従った。そして死に物狂いで掴んだ推薦入学だった。合格が決まって少し経った頃、母は私に専攻は何にするのかと訊いた。私が政治学だと答えると、「くだらない!」と侮蔑。じゃあ何なら良かったのよ?と問い詰めていくと、母自身が好きだった建築学か、化学など理系の学問だったら良かったようだ。私は数学も理科も大の苦手。元々が「美大に行きたい」と高一の時に母に言ったら「あんた程度の実力で……!」とせせら笑われ、美大なんて入るのに金ばっかりかかるだけと却下されたのである。専攻だって、理系は無理だけど社会科学系の方が就職に良かろうと判断して決めたのに、結局母は私を自分の夢の実現の駒としか思っていなかったのだな、と悔しくてやり切れなくて、入学前から虚無感に襲われた。
そんな思春期を過ごした私は、好きになった人・ものは何でも奪い上げられるという思い込みが強くなり、自分が何かに思い入れることに対して大層臆病になっていった。何かに心が傾き始めると(好きになればなるだけ自分が傷つく……)と防衛反応が働いた。人に好かれ始めると、嫌われようと相手を傷つける言動に出てしまう。——こうした傾向は徐々に薄れてきたとは言え、本当につい最近まで尾を引いていたように思う。
ひっそりとした午後の公園で
とりとめのない話をした
言葉が途切れても君を見たら
微笑んでたから安心だった
今もわからずにいる
私が君の友達で良かったか
約束守っている
今にも壊れそうだけど
「I Give You My Friendship」に話を戻す。社会人一年目の秋の学び会リーダーは、近づこうとする人を斬って捨てるような態度に出やすい私に「神様は『○○ちゃんに友達をあげるよ』と言っているんだよ」と言った。それがどういうことなのか、その当時の私にはあまり理解できていなかった気がする。人を好きになること、何かを好きになることへのハードルが低くなるまでには、私自身の傷が癒されること、そして長い時間が必要だった。
気を緩めたら沈みそうな船で
私たちは航海を続けた
今もわからないまま
私が君の友達であるために
約束守っている
今もわからないまま
明日も視えないけど
大丈夫、まかせてと笑って
辻褄のあうシンパシー
視えない明日を見るため
その頃の私は、会社の人や教会のクリスチャンなど周りの一挙手一投足によって、家族関係のトラウマを無造作に触られるような悲痛な疼きに苦しめられていた。社会人一年目の出来事については詳述しない。ここでは「I Give You My Friendship(あなたに友情をあげるよ)」の言葉と、それと関わるトラウマについて書くことにする。
私は、単に社交性が無かったとも言えるが、昔から群れずに生きてきた。しかしそんな私でも中学に入った頃には無性に人恋しくなり、友達を渇望するようになっていった。だがどういう風に友達を作っていいか分からない私は、向こうから声をかけてくる人の聞き役になるのが精々だった。中二の時にクラスに転入してきたMちゃんは漫画を描く人で、下手ながらも漫画やイラストを描いていた私はそのうち彼女の家によく遊びに行くようになった。彼女に影響されて「キャプテン翼」や少年ジャンプを読むようになり、遊びに行った時はいつもただ楽しかったことを覚えている。小学生の頃は友達の家に入り浸りになるなんてことがなかったからか、母は物凄く心配して神経を尖らせた。実は彼女は、ご両親が離婚されていて、一緒に住んでいるお母様はお勤めに出ていた。彼女はたびたび私の家にも電話をかけてきたが、母はその都度外野で大声で電話に割り込んできた。そしてある時私達の電話中に、「Mちゃんと付き合うと、○○(私)が不良になる。親が離婚しているんだから!」と言い放った。Mちゃんと私は押し黙り、電話を切った。後日彼女に聞いたら、あの電話の後、皿を二枚投げつけて割ったということであった。Mちゃんとの交友関係は自然に消滅した。
父を早くに亡くし女手一つで育った母は、経済的な事情から兄(私の伯父)に進学の道を譲り、大学進学を諦めたという経緯があったため、私を何としてでも大学に入れたい気持ちが強かった。高校受験で失敗した私に大学の推薦入学を取らせたこともその一方途だった。そのため母は、高二になった私に毎週日曜の朝になると教会へ行けと追い立てた。私は女性が経済的に自立しないと、結婚相手に暴力を振るわれても我慢するしかないのだと強力に刷り込まれていたため、嫌々ながら仕方なく従った。そして死に物狂いで掴んだ推薦入学だった。合格が決まって少し経った頃、母は私に専攻は何にするのかと訊いた。私が政治学だと答えると、「くだらない!」と侮蔑。じゃあ何なら良かったのよ?と問い詰めていくと、母自身が好きだった建築学か、化学など理系の学問だったら良かったようだ。私は数学も理科も大の苦手。元々が「美大に行きたい」と高一の時に母に言ったら「あんた程度の実力で……!」とせせら笑われ、美大なんて入るのに金ばっかりかかるだけと却下されたのである。専攻だって、理系は無理だけど社会科学系の方が就職に良かろうと判断して決めたのに、結局母は私を自分の夢の実現の駒としか思っていなかったのだな、と悔しくてやり切れなくて、入学前から虚無感に襲われた。
そんな思春期を過ごした私は、好きになった人・ものは何でも奪い上げられるという思い込みが強くなり、自分が何かに思い入れることに対して大層臆病になっていった。何かに心が傾き始めると(好きになればなるだけ自分が傷つく……)と防衛反応が働いた。人に好かれ始めると、嫌われようと相手を傷つける言動に出てしまう。——こうした傾向は徐々に薄れてきたとは言え、本当につい最近まで尾を引いていたように思う。
ひっそりとした午後の公園で
とりとめのない話をした
言葉が途切れても君を見たら
微笑んでたから安心だった
今もわからずにいる
私が君の友達で良かったか
約束守っている
今にも壊れそうだけど
〜 Monkeymind You Cube Band 「I Give You My Friendship」より
「I Give You My Friendship」に話を戻す。社会人一年目の秋の学び会リーダーは、近づこうとする人を斬って捨てるような態度に出やすい私に「神様は『○○ちゃんに友達をあげるよ』と言っているんだよ」と言った。それがどういうことなのか、その当時の私にはあまり理解できていなかった気がする。人を好きになること、何かを好きになることへのハードルが低くなるまでには、私自身の傷が癒されること、そして長い時間が必要だった。
気を緩めたら沈みそうな船で
私たちは航海を続けた
今もわからないまま
私が君の友達であるために
約束守っている
今もわからないまま
明日も視えないけど
大丈夫、まかせてと笑って
辻褄のあうシンパシー
視えない明日を見るため
冠助の話題だったと気づくまで もしや無視などされてるのかと
(とど)
2021年10月17日 作歌。
*下句はお題
(とど)
2021年10月17日 作歌。
*下句はお題