水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2019年2月分まとめ

2019年02月28日 07時29分23秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆2月6日
マタイ26:12-13。ベタニアのマリアが主に香油を塗布したことについて「この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とイエス。NLTでは〈this woman’s deed will be remembered and discussed〉。後代まで議論を呼ぶと主は分かっていたんだな。

◆2月8日
マルコ1:7。ヨハネがイエスについて「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言ったが、NLTでは〈I’m not even worthy to stoop down like a slave〉。奴隷ほどの値打ちもないに「?」。考えてみれば創世記でヤコブの側女となったのは奴隷。近しい間柄という事か

◆2月14日
新改訳マルコ5:7。沢山の悪霊に憑かれたゲラサ人は「いと高き神の子、イエスさま。…神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください」 と叫んだ。悪霊の支配下にあるのに御名によって懇願。造物主を信じない人でも、大災害に遭うと唯一神を呪うのに似ている。

◆2月16日
マルコ6章。群衆に食べ物を自ら与えよと言われ困惑する弟子達に「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とイエス。NLT38節では “Go and find out.(行って探し出しなさい)”。私達は主に求められて、不可能と即答していないか?探した結果、主の仰らなかった魚も見つけ出せた。

◆2月24日
出エジプト18:2-3。舅エトロが宿営のモーセを訪問。同伴のモーセの子ゲルショムは、異国にいる寄留者の自らを顧みて命名。生後まもなくファラオの養子となり、本来の同胞を庇ったためエジプトを追われたにも拘らず、荒野で反抗するイスラエル人を率いた。根無し草の実感が偲ばれる。

◆2月24日
出エジプト21:32に「もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない」とある。銀三十シェケルは、ユダが祭司長らにイエスを売った値。牛が奴隷を突く不慮の事故と同額で主が売られ、十字架刑に処されたのに驚愕

◆2月25日
出エジプト20章以降の律法の一言一句が刺さる。いかに神に背いて生きているか!だがモーセが律法を授けられたのは、エトロの助言により民の間を裁く千人隊長〜十人隊長を任命後。モーセや各隊長にも指針が必要だったのでは。同時に、律法に溺れ死にせぬようイエスが来られたのにも合点
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一首鑑賞(64):榎本麻央 “「世界中」と言つてしまふとき”

2019年02月06日 14時21分17秒 | 一首鑑賞
「世界中」と言つてしまふとき夕暮れは神のまぶたの裏側となる
榎本麻央『一杯の水』


 榎本の掲出歌を一読、すぐに光森裕樹の下記の歌が浮かんだ。

  あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず /光森裕樹『鈴を産むひばり』

 地上の光景をリアルタイムではないとはいえ、映像化して見せてくれるストリートビューを実現したGoogle Earth。その映像には夜はない——いつも白昼の風景である。この歌が発表された2008年にはまだ目新しかったこの技術との出会いに、光森は世界を縦横に眺めわたせるかのごときある種の全能感に興奮冷めやらぬ様子だった。それと比して榎本の歌は、闇も光も併存するものとして世界を描き出している。
 「世界中」と口にするのは少し危うい。あたかも、皓々とした光源が全てを隈なく照らし「世界中」に散らばっている多種多様な個性を削ぎ落としてゆくのを眺めている感が付きまとう。また、一日を終える「夕暮れ」の休息も、人には許されていないかのような含みもある。榎本はそれに対し本能的に抗っているのではないか。
 讃美歌1篇に、「きけや愛の言葉を」(453番)という歌がある。第1節の歌詞を引用してみよう。

   きけや愛の言葉を、もろ国人らの
   罪とがをのぞく主の御言葉を、
   主のみことばを。
   やがて時は来らん、神のみ光りの
   あまねく世をてらす あしたは来らん。


 あまねく世をてらすあした、とあるが、これは《明日》ではなく《朝》の意の「あした」である。神は自らの瞼の内側に光を留めおかず、朝の光として人々の上に満たす。讃美歌に拠れば、それは世界中の人々の罪とがを取り去る光である。
 掲出歌には次の一首が続く。

  めぐりゆく血を隠してゐる人間よ名もなきものに光はきざす

 人間を流れている血液は、体内に隠されている。謂わば闇の部分にあり、通常取り沙汰されることもない。そうした部分にも神は光を注ぐ。平然とした表情の下に人が必死に押し留めている呻きにも——。イエスは「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネによる福音書3章20〜21節)と仰った。
 人間は、ありのままの自分を照らし出されたら、竦まざるを得ない者である。しかし、主のみ光は「罪とがをのぞく」御言葉なのだ。創世記1章では「夕べがあり、朝があった」と繰り返しつつ、世界が形造られていく様が述べられる。神が休まれたように、被造物にも休息の時がある。これは深い慰めである。
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