直くのみ生き来しならず千万の露をおとして竹そよぐなり
「直く」は、まっすぐに、正しく、ほどの意味である。実は安永は、女学校時代に母と教会へ通っている。聖書にも「直く」という言葉が出てきて、口語訳聖書(1954年訳)と文語訳聖書に見られるが、安永の年齢を考えると、女学校時代に教会で読んでいたのは文語訳だろう。掲出歌は、1987年刊行の歌集『水の門』に収められている。古稀を前にして人生を振り返った安永の、まっすぐには歩んでこられなかったとの述懐が、この歌には込められているようだ。
文語訳とはやや異なるが、口語訳聖書において見れば「直く」「直き」が現れる箇所は詩篇に集中している。その殆どが、神様の前にまっすぐに歩む者、正しい者を神様はお喜びになる、といった意味で用いられていて、私などはどこか居心地の悪さを感じてしまう。
しかし、安永の視点は少し違う。竹は空に向かってまっすぐに伸びているように見える。だが生長の過程には雨風に晒される日もあり、時にたわみながら葉についた露を払い落として、天を目指していったのだ、と。
旧約聖書の箴言3章5~6節に、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず/常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(新共同訳)という聖句がある。私達は、どうあがいても完全に「直く」あることはできない。けれど、神様を見つめて自分の道を歩んでいく時、神様ご自身がその道筋をまっすぐにしてくださるという。これは、大きな恵みではないだろうか。
安永蕗子『水の門』
「直く」は、まっすぐに、正しく、ほどの意味である。実は安永は、女学校時代に母と教会へ通っている。聖書にも「直く」という言葉が出てきて、口語訳聖書(1954年訳)と文語訳聖書に見られるが、安永の年齢を考えると、女学校時代に教会で読んでいたのは文語訳だろう。掲出歌は、1987年刊行の歌集『水の門』に収められている。古稀を前にして人生を振り返った安永の、まっすぐには歩んでこられなかったとの述懐が、この歌には込められているようだ。
文語訳とはやや異なるが、口語訳聖書において見れば「直く」「直き」が現れる箇所は詩篇に集中している。その殆どが、神様の前にまっすぐに歩む者、正しい者を神様はお喜びになる、といった意味で用いられていて、私などはどこか居心地の悪さを感じてしまう。
しかし、安永の視点は少し違う。竹は空に向かってまっすぐに伸びているように見える。だが生長の過程には雨風に晒される日もあり、時にたわみながら葉についた露を払い落として、天を目指していったのだ、と。
旧約聖書の箴言3章5~6節に、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず/常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(新共同訳)という聖句がある。私達は、どうあがいても完全に「直く」あることはできない。けれど、神様を見つめて自分の道を歩んでいく時、神様ご自身がその道筋をまっすぐにしてくださるという。これは、大きな恵みではないだろうか。
むかつきを 紛らわそうと 外を見る
薄明にある 菜の花の黄(きい)
(とど)
2014年5月上旬 作歌。
薄明にある 菜の花の黄(きい)
(とど)
2014年5月上旬 作歌。
欠席者わが歌は遂につひにしも朗詠されざりき淋しかりにき
谷川秋夫氏は若くしてハンセン病にかかり、岡山県の療養施設「長島愛生園」に入園。後に特効薬プロミンのおかげで病気は完治したが、後遺症で失明してしまった。手足も不自由になり、皮膚感覚が残ったのは唇や舌など一部だけだという。
そんな谷川氏に光が当たったのは、1993年1月のこと。宮中歌会始に詠進した歌が入選したのである。短歌を詠み始めて35年ほど経った頃のことだった。しかし障害の程度の重い谷川は、歌会始の儀への出席を断念せざるを得なかった。すると歌会始の前夜、宮内庁の侍従から「欠席者の歌は朗詠されません」という電話が入った。
身障度軽からば吾も出席しわが歌朗詠さるるを聴かむに/谷川秋夫
ハンセン病は、「重い皮膚病」という表記で聖書の中にもたびたび登場する。ルカによる福音書17章11節~19節に「重い皮膚病」を患った十人の人がイエスに遠くから「わたしたちを憐れんでください」と懇願するシーンがある。イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と答え、十人は道の途中で病気が癒された。この内の一人はイエスのもとに戻ってきて足元にひれ伏して感謝した。
谷川氏は歌会始に行きたくても行けなかった。全盲・手足不自由の身、介護者なしには宮中に出向くことができない…それが正式な理由で、谷川氏自身の偽らざる本心でもあっただろう。けれど、私には「身障度軽からば…」の歌を読むと、イエス様に遠くからしか声をかけられなかった皮膚病の人達の「遠慮」の気持ちと谷川氏が自分をグッと押しとどめた内心が二重写しになって仕方ない。ハンセン病は伝染する病気と長いこと信じられ、それ故に隔離もされてきたのだ。
その後、歌会始で谷川氏の歌が朗詠されなかった件に疑問を抱いた岡山市の主婦が、宮内庁へ抗議の手紙を出した。また、山陽女子高等学校放送部は、谷川氏やかの主婦にインタヴューしてドキュメンタリー番組を制作。このラジオ番組『この短歌(うた)が空に響くまで』がNHK杯全国高校放送コンテストで優勝するに及んでと程なく、宮内庁は欠席者の歌も朗詠することを正式に発表した。
*記事を書くにあたって、東京新聞サイトの【一首のものがたり:歌会始の「差別」が消えるまで】を参考にしました。
谷川秋夫『祈る』
谷川秋夫氏は若くしてハンセン病にかかり、岡山県の療養施設「長島愛生園」に入園。後に特効薬プロミンのおかげで病気は完治したが、後遺症で失明してしまった。手足も不自由になり、皮膚感覚が残ったのは唇や舌など一部だけだという。
そんな谷川氏に光が当たったのは、1993年1月のこと。宮中歌会始に詠進した歌が入選したのである。短歌を詠み始めて35年ほど経った頃のことだった。しかし障害の程度の重い谷川は、歌会始の儀への出席を断念せざるを得なかった。すると歌会始の前夜、宮内庁の侍従から「欠席者の歌は朗詠されません」という電話が入った。
身障度軽からば吾も出席しわが歌朗詠さるるを聴かむに/谷川秋夫
ハンセン病は、「重い皮膚病」という表記で聖書の中にもたびたび登場する。ルカによる福音書17章11節~19節に「重い皮膚病」を患った十人の人がイエスに遠くから「わたしたちを憐れんでください」と懇願するシーンがある。イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と答え、十人は道の途中で病気が癒された。この内の一人はイエスのもとに戻ってきて足元にひれ伏して感謝した。
谷川氏は歌会始に行きたくても行けなかった。全盲・手足不自由の身、介護者なしには宮中に出向くことができない…それが正式な理由で、谷川氏自身の偽らざる本心でもあっただろう。けれど、私には「身障度軽からば…」の歌を読むと、イエス様に遠くからしか声をかけられなかった皮膚病の人達の「遠慮」の気持ちと谷川氏が自分をグッと押しとどめた内心が二重写しになって仕方ない。ハンセン病は伝染する病気と長いこと信じられ、それ故に隔離もされてきたのだ。
その後、歌会始で谷川氏の歌が朗詠されなかった件に疑問を抱いた岡山市の主婦が、宮内庁へ抗議の手紙を出した。また、山陽女子高等学校放送部は、谷川氏やかの主婦にインタヴューしてドキュメンタリー番組を制作。このラジオ番組『この短歌(うた)が空に響くまで』がNHK杯全国高校放送コンテストで優勝する
*記事を書くにあたって、東京新聞サイトの【一首のものがたり:歌会始の「差別」が消えるまで】を参考にしました。
イヤフォンに 響くブラスが
点滴の 落ちる速度に 呼応している
(とど)
2012年4月13日 作歌、2014年5月上旬 改訂。
点滴の 落ちる速度に 呼応している
(とど)
2012年4月13日 作歌、2014年5月上旬 改訂。
どうしようかなと主治医が呟いた
白血球の わずかに足りず
(とど)
2012年3月17日 作歌、2014年5月上旬 改訂。
白血球の わずかに足りず
(とど)
2012年3月17日 作歌、2014年5月上旬 改訂。