◆1月2日
創世2:17、神は人に善悪の知識の木の実は食べぬよう命じた。食べると必ず死んでしまうと。だが蛇は決して死なぬと断言(3:4)。果たして知識の木の実を食べた二人はすぐには死ななかった。しかしいずれ死すべき寿命を持つことに。かくの如くサタンは巧妙に私達を欺く
◆1月6日
創世記7:15〜16「命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。…主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」神ご自身が皆の乗船を確認し、箱舟の扉を閉ざされたのに注目。主は救おうとお定めになったものを洩らさず生かすべく、最後まで見守って下さる
◆1月9日
マタイ6:1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と5:16「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、…天の父をあがめるように…」 は矛盾ではと疑問だった。だが5章は内に棲む主の光。動機が違う
◆1月13日
創世記16章。サライの許から逃げた女奴隷ハガルに御使いが現れ、あなたの子孫を大いに増やす、と語ると同時に「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」と仰る(新改訳9-10節)。主は私達に悔い改めを迫る時にも、祝福を携えている
◆1月14日
創世記18章、ソドムとゴモラのために執り成すアブラハムの言葉にハッとする。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」(新改訳18:27)。神様に祈る時に、私はこのような慎ましくしかも率直な態度で申し上げられているだろうか?
◆1月16日
噂されるのが嫌で籠ってると話す老婦人を健診で見た。後日作業所で「足を引っ張り合う噂話は止めればいいのに」と言うと「僕は健診も終了間際に行く。色々言われるから。女性はまだいい」と某メンバー。大食漢で酒飲みと噂された主(マタイ11:19)は彼の切なさもご存知
◆1月17日
マタイ12:33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい」。《木》と《実》が逆でなくて良かった。実=自分の言葉が悪ければ、木=心も悪いと決めつけられたら、悔い改めようも無い。職場で怖がられているようだが、心を清めるのに集中しよう
◆1月22日
創世記28:11以下は、雲の切れ間から放射状に光が射す〈ヤコブの梯子〉の語源。私がそれを初めて目撃したのは、今の持病を発症し山梨へ連れて来られる車中より。その光景が忘れられず約6年後に結実した拙歌/患いて街を離れた身をもなおやさしく照らす〈ヤコブの梯子〉
◆1月25日
新改訳マタイ18:10「小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。…彼らの天の御使いたちは…父の御顔をいつも見ているからです」作業所にいる怖がりの子に丁寧に応えていたら、くどい質問に匙を投げていた他の人も気遣ってくれるように。主が働かれた
◆1月31日
8年前に夫君を亡くした年配のご婦人の夫婦仲は睦まじかった。今は「独りで生きていても侘しい。早く向こうに行きたい」とよく仰る。だが私の頭には、マタイ22:30「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」が浮かんでしまう。冷たいだろうか
創世2:17、神は人に善悪の知識の木の実は食べぬよう命じた。食べると必ず死んでしまうと。だが蛇は決して死なぬと断言(3:4)。果たして知識の木の実を食べた二人はすぐには死ななかった。しかしいずれ死すべき寿命を持つことに。かくの如くサタンは巧妙に私達を欺く
◆1月6日
創世記7:15〜16「命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。…主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」神ご自身が皆の乗船を確認し、箱舟の扉を閉ざされたのに注目。主は救おうとお定めになったものを洩らさず生かすべく、最後まで見守って下さる
◆1月9日
マタイ6:1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と5:16「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、…天の父をあがめるように…」 は矛盾ではと疑問だった。だが5章は内に棲む主の光。動機が違う
◆1月13日
創世記16章。サライの許から逃げた女奴隷ハガルに御使いが現れ、あなたの子孫を大いに増やす、と語ると同時に「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」と仰る(新改訳9-10節)。主は私達に悔い改めを迫る時にも、祝福を携えている
◆1月14日
創世記18章、ソドムとゴモラのために執り成すアブラハムの言葉にハッとする。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」(新改訳18:27)。神様に祈る時に、私はこのような慎ましくしかも率直な態度で申し上げられているだろうか?
◆1月16日
噂されるのが嫌で籠ってると話す老婦人を健診で見た。後日作業所で「足を引っ張り合う噂話は止めればいいのに」と言うと「僕は健診も終了間際に行く。色々言われるから。女性はまだいい」と某メンバー。大食漢で酒飲みと噂された主(マタイ11:19)は彼の切なさもご存知
◆1月17日
マタイ12:33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい」。《木》と《実》が逆でなくて良かった。実=自分の言葉が悪ければ、木=心も悪いと決めつけられたら、悔い改めようも無い。職場で怖がられているようだが、心を清めるのに集中しよう
◆1月22日
創世記28:11以下は、雲の切れ間から放射状に光が射す〈ヤコブの梯子〉の語源。私がそれを初めて目撃したのは、今の持病を発症し山梨へ連れて来られる車中より。その光景が忘れられず約6年後に結実した拙歌/患いて街を離れた身をもなおやさしく照らす〈ヤコブの梯子〉
◆1月25日
新改訳マタイ18:10「小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。…彼らの天の御使いたちは…父の御顔をいつも見ているからです」作業所にいる怖がりの子に丁寧に応えていたら、くどい質問に匙を投げていた他の人も気遣ってくれるように。主が働かれた
◆1月31日
8年前に夫君を亡くした年配のご婦人の夫婦仲は睦まじかった。今は「独りで生きていても侘しい。早く向こうに行きたい」とよく仰る。だが私の頭には、マタイ22:30「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」が浮かんでしまう。冷たいだろうか
積ん読本と借りる予定の本リストにしばし背を向け爪切っている
(とど)
2014年11月11日 作歌、2016年7月下旬 改訂。
(とど)
2014年11月11日 作歌、2016年7月下旬 改訂。
閉架より出された本の番号が大きく点る頭上の画面
(とど)
2013年5月6日 作歌、2015年4月下旬頃 改訂。
(とど)
2013年5月6日 作歌、2015年4月下旬頃 改訂。
おほきなるみ手あらはれてわれの手にはつかなるかなや月光を賜ぶ
葛原妙子は周りは皆クリスチャンという家系に育ち、自身若い時よりイエスに対して並ならぬ関心を抱きつつも、洗礼を受けたのは死の五ヶ月前の78歳であった。葛原は、 日常のうちに見てはならぬものを視、聞いてはならぬものを聴きだし、自在に詠む歌風から、「幻視の女王」と歌人の塚本邦雄に称された。
葛原の生涯の歌を一つ一つ追っていくと、短歌を詠み始めてさほど経っていない頃から少しずつ視力の弱まっていったことが見て取れる。掲出歌の収められた連作の序盤には次の歌があり、目の衰えた葛原にとって既に亡き大作曲家の存在が慕わしく感じられていたことが分かる。
郭公の啼く聲きこえ 晩年のヘンデル盲目バッハ盲目
また、「天使」のモチーフは葛原の初期の歌から見られたものであるが、歌歴の後半になるとその頻度は増す。さらに特筆すべきは、盲目や弱視の天使を詠み込んだ歌が散見されるようになることである。
石塊を抉り刻める天使像直陽(ちよくやう)のもとまなこをうしなふ『朱靈』
雙眼のふかく盲ひたる石(せき)天使劃然(かくぜん)と移る西日に立てり『朱靈』
めがねかけし天使天上に翔びゐたり月のごときちちぶさみえて『をがたま』
視力を失いゆく葛原にとって、人を愛しているという神の遣いを自らの境遇に引き寄せて想像を膨らませたのはごく自然なことだったに違いない。
その上で掲出歌を改めて見てみよう。「おほきなるみ手」は、神ご自身の御手もしくは天使の手ということであろう。その御手が葛原に微かな月光を零すのだという。闇に包まれた葛原の視野に淡い月光が注ぐように感じられることは、どれほどの慰めであろうか。
あるいは葛原の脳裏には、次の聖句が浮かんでいたのかもしれない。〈イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 何か見えるか」とお尋ねになった。 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。〉(マルコによる福音書8章22〜25節)この盲人は、イエスに触れられてすぐに病が癒えたわけではなかった。再び触れていただく必要があったのである。
『鷹の井戸』は、葛原自身が編集上梓した最後の歌集である。長く目を病んだ葛原の晩年に射してきた光——。それは、たとえ仄かなものであったとしても、主ご自身の御手に包まれるような思いがしたのではないか。
葛原妙子『鷹の井戸』
葛原妙子は周りは皆クリスチャンという家系に育ち、自身若い時よりイエスに対して並ならぬ関心を抱きつつも、洗礼を受けたのは死の五ヶ月前の78歳であった。葛原は、 日常のうちに見てはならぬものを視、聞いてはならぬものを聴きだし、自在に詠む歌風から、「幻視の女王」と歌人の塚本邦雄に称された。
葛原の生涯の歌を一つ一つ追っていくと、短歌を詠み始めてさほど経っていない頃から少しずつ視力の弱まっていったことが見て取れる。掲出歌の収められた連作の序盤には次の歌があり、目の衰えた葛原にとって既に亡き大作曲家の存在が慕わしく感じられていたことが分かる。
郭公の啼く聲きこえ 晩年のヘンデル盲目バッハ盲目
また、「天使」のモチーフは葛原の初期の歌から見られたものであるが、歌歴の後半になるとその頻度は増す。さらに特筆すべきは、盲目や弱視の天使を詠み込んだ歌が散見されるようになることである。
石塊を抉り刻める天使像直陽(ちよくやう)のもとまなこをうしなふ『朱靈』
雙眼のふかく盲ひたる石(せき)天使劃然(かくぜん)と移る西日に立てり『朱靈』
めがねかけし天使天上に翔びゐたり月のごときちちぶさみえて『をがたま』
視力を失いゆく葛原にとって、人を愛しているという神の遣いを自らの境遇に引き寄せて想像を膨らませたのはごく自然なことだったに違いない。
その上で掲出歌を改めて見てみよう。「おほきなるみ手」は、神ご自身の御手もしくは天使の手ということであろう。その御手が葛原に微かな月光を零すのだという。闇に包まれた葛原の視野に淡い月光が注ぐように感じられることは、どれほどの慰めであろうか。
あるいは葛原の脳裏には、次の聖句が浮かんでいたのかもしれない。〈イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 何か見えるか」とお尋ねになった。 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。〉(マルコによる福音書8章22〜25節)この盲人は、イエスに触れられてすぐに病が癒えたわけではなかった。再び触れていただく必要があったのである。
『鷹の井戸』は、葛原自身が編集上梓した最後の歌集である。長く目を病んだ葛原の晩年に射してきた光——。それは、たとえ仄かなものであったとしても、主ご自身の御手に包まれるような思いがしたのではないか。
「聖顔」の黄の人はまなこ瞑りおりそこ過ぐるときただようわれは
この歌は、三枝が清春美術館に立ち寄っての感懐を詠んだものである。一連の詞書から、「聖顔」の絵はジョルジュ・ルオーの手に成るものの一つと判る。
インターネットで「ルオー 聖顔」を画像検索すると、ルオーによる「聖顔」を幾つか見ることができる。かっと目を見開いた作品もあるが、三枝が見かけた「聖顔」のイエスの眼は沈黙のうちに閉ざされていたという。三枝は「こんな哀しみに充ちた人間の顔を私は知らなかった」と詞書に洩らしているが、「聖顔」の閉ざした主の眼は通りかかる者を射すくめるかのような、それでいて温かい、深い面差しであるのを私も感じた。
一連中には、次の歌も置かれている。
三度(みたび)否み三度応えし使徒をおもいしばしばも眼を閉ざしたまわん
とすると、眼を瞑った「聖顔」の前の三枝を捉えたのは、十字架に架けられる前の深夜、イエスを三度「知らない」と否定したペトロを振り向いて見つめられた主イエスの眼差しであろう。ルカによる福音書22章60〜62節に『だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』とある。ペトロを見つめた後イエスがゆっくり瞬きしたことを、私は想像した。その時ペトロは、イエスがそこに居ても居なくても自分を見つめ続けている方だと瞬時に悟ったに違いない。早鐘のように胸は鳴り、大きな後悔がペトロに押し寄せた。しかし、主の十字架刑を免れさせることは叶わなかった。
ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン……と三度(みたび)問いましき
これは、掲出歌のすぐ後に続く一首である。ヨハネによる福音書21章にある、復活後のイエスが食事の後ペトロに三度「わたしを愛しているか」と問うた場面を掬い上げているのは明白だ。同章17節にはこう書かれている。『ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。』
私達の変わり身の速さに、主はしばしば「眼を閉ざしたまわ」れるかもしれない。それは、私達を慈しみ、それゆえ悲しむからでもある。イエスは目を瞑るときも、私達を心の眼でご覧になっている。私達はその前に立ち止まることしかできない。
三枝浩樹『みどりの揺籃』
この歌は、三枝が清春美術館に立ち寄っての感懐を詠んだものである。一連の詞書から、「聖顔」の絵はジョルジュ・ルオーの手に成るものの一つと判る。
インターネットで「ルオー 聖顔」を画像検索すると、ルオーによる「聖顔」を幾つか見ることができる。かっと目を見開いた作品もあるが、三枝が見かけた「聖顔」のイエスの眼は沈黙のうちに閉ざされていたという。三枝は「こんな哀しみに充ちた人間の顔を私は知らなかった」と詞書に洩らしているが、「聖顔」の閉ざした主の眼は通りかかる者を射すくめるかのような、それでいて温かい、深い面差しであるのを私も感じた。
一連中には、次の歌も置かれている。
三度(みたび)否み三度応えし使徒をおもいしばしばも眼を閉ざしたまわん
とすると、眼を瞑った「聖顔」の前の三枝を捉えたのは、十字架に架けられる前の深夜、イエスを三度「知らない」と否定したペトロを振り向いて見つめられた主イエスの眼差しであろう。ルカによる福音書22章60〜62節に『だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』とある。ペトロを見つめた後イエスがゆっくり瞬きしたことを、私は想像した。その時ペトロは、イエスがそこに居ても居なくても自分を見つめ続けている方だと瞬時に悟ったに違いない。早鐘のように胸は鳴り、大きな後悔がペトロに押し寄せた。しかし、主の十字架刑を免れさせることは叶わなかった。
ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン……と三度(みたび)問いましき
これは、掲出歌のすぐ後に続く一首である。ヨハネによる福音書21章にある、復活後のイエスが食事の後ペトロに三度「わたしを愛しているか」と問うた場面を掬い上げているのは明白だ。同章17節にはこう書かれている。『ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。』
私達の変わり身の速さに、主はしばしば「眼を閉ざしたまわ」れるかもしれない。それは、私達を慈しみ、それゆえ悲しむからでもある。イエスは目を瞑るときも、私達を心の眼でご覧になっている。私達はその前に立ち止まることしかできない。
昨年はつかみ損ねた(つまり一昨年に注文のタイミングを逸した)TEAPOND(ティーポンド)のお茶の福袋を、今年は無事購入することができました!!
前もって告知されていた第一回目の予約開始日時は、何と12月上旬の金曜日の深夜0時。そのため、前日の木曜日の日中は無理せずダラダラし、普段なら20時頃に飲んでいる眠剤も服用しないまま、時間を待ちました。
定刻5分前にパソコンを起動し、0時きっかりに【バラエティー】の福袋(紅茶本来の味わいの銘柄に加え、フレーバーティーやフルーツティーなど様々な香りが楽しめるセット)を予約申込み。どうにか注文できてHOME画面に戻ってみると、福袋の全商品が品切れ表示!!時間は0時10分頃のこと。約10分ほどの間に注文が殺到したのですね。ビックリです(◎_◎;)!
福袋の現物が届いたのは元日の午前中。私は教会の新年礼拝に出かけていたので、母が受け取ってくれました。
こういう内容でした!
◆インド ダージリン セカンドフラッシュ《シンブリ農園 クローナルサンダー》(缶)
◆セイロン キャンディ《アンクーンブラ茶園》
◆シッキム セカンドフラッシュ《テミ茶園》
◆ネパール イラム ファーストフラッシュ《ミストバレー茶園 ティッピー》
◆インド ニルギリ《チャムラジ茶園》
◎アールグレイ オーセンティック
◎チェリーパフェ
◎ハニーハーベスト
★サンシャイン デイズ
★ハイダウェイ マンゴー
以上、10点。◎はフレーバーティー、★はフルーツティーです。
まだ開封していませんが、楽しみだ〜〜♡♥♡
前もって告知されていた第一回目の予約開始日時は、何と12月上旬の金曜日の深夜0時。そのため、前日の木曜日の日中は無理せずダラダラし、普段なら20時頃に飲んでいる眠剤も服用しないまま、時間を待ちました。
定刻5分前にパソコンを起動し、0時きっかりに【バラエティー】の福袋(紅茶本来の味わいの銘柄に加え、フレーバーティーやフルーツティーなど様々な香りが楽しめるセット)を予約申込み。どうにか注文できてHOME画面に戻ってみると、福袋の全商品が品切れ表示!!時間は0時10分頃のこと。約10分ほどの間に注文が殺到したのですね。ビックリです(◎_◎;)!
福袋の現物が届いたのは元日の午前中。私は教会の新年礼拝に出かけていたので、母が受け取ってくれました。
こういう内容でした!
◆インド ダージリン セカンドフラッシュ《シンブリ農園 クローナルサンダー》(缶)
◆セイロン キャンディ《アンクーンブラ茶園》
◆シッキム セカンドフラッシュ《テミ茶園》
◆ネパール イラム ファーストフラッシュ《ミストバレー茶園 ティッピー》
◆インド ニルギリ《チャムラジ茶園》
◎アールグレイ オーセンティック
◎チェリーパフェ
◎ハニーハーベスト
★サンシャイン デイズ
★ハイダウェイ マンゴー
以上、10点。◎はフレーバーティー、★はフルーツティーです。
まだ開封していませんが、楽しみだ〜〜♡♥♡