空間の歪みを感じ蹲るJacob's ladder(ヤコブズ ラダー)今降(くだ)り来よ
歌集全体から、伊津野が家族の憎しみ合いに巻き込まれて生きてきたこと、その呪縛から解き放たれていないこと、そしてその苦しみを聖書の神にひたすらにぶつけて、手を伸べ続けたことが伝わってくる。
ちちあにをうちあにわたしうちなにをわたしはうてばいいの はるにれ
上の一首を一読、(うっ……)となった。私はこのことを自分語り以外で書く術を知らない。私の父と母の仲は険悪だった。父は酒を呑んで暴れ、母に物を投げたり殴ったりはほぼ毎日のことだった。暴力に必死に抗する母に父は「お前は女で年下だ。俺のお蔭でお前は食べられてるんだ。だからお前を殴ってもいい」といつも嘯いていた。私と兄は年子で、私が生意気だったこともあり、兄は私をよく殴った。そして父と(生計のこと以外は)同様の論理を振り翳した。私は兄に殴られるたびに泣いて母に助けを求めていたが、毎日の泣き喚きにうんざりした母はある時「お兄ちゃんは馬鹿なんだから、あんたが我慢すればいいのよ」と言った。それを聞いて、私の中であるものがプチンと切れた。ああ泣くのは無駄なんだ、と悟ったような気持ちになった。私はもう無駄に涙を流すことは無くなった。しかし暴力的な父は、私が兄に殴られているのを知ると、怒って兄を殴った。すると兄は「お前のせいで俺が殴られた!」とまた暴力を振るった。そのうち兄は、お前が存在するから俺が殴られるんだ、お前さえいなければいいんだ、という論理に移っていった。私は蔭で兄に暴力を振るわれつつ、それを誰にもバレないように押し殺して生活した。私は、どんな痛みにも無感覚になっていった。テレビで残虐な映像が流れようとも(人生そんなもの、世界ってそんなもの)と開き直っていった。小学校に入ってしばらくすると、仲のいい家族というのが世の中に存在することを知り、(気っ持ち悪りぃ……演技じゃねぇ?)と僻みっぽい目で見ていた。私が自分の気持ちを話すことができるようになったのは、大学3年の時身体を壊して休部していた間に聖書を勉強してからである。
創世記25章19節以降、創世記の筆はヤコブ(後のイスラエル)に焦点を定めて描かれていく。ヤコブの母リベカは兄のエサウよりも弟のヤコブを愛し、一計を案じて弟ヤコブに長子としての祝福を騙し取らせた。エサウの怒りは母リベカには全く向かわず、父イサクの死後ヤコブを殺してやろうという憎しみを腹に蓄えていった。それを知ったリベカは、ハランにいる彼女の兄ラバンの許にヤコブを逃がすことを思いつき、ヤコブは逃亡を余儀なくされた。(創世記27章41〜45節)
話が脱線するが、私は昨秋、精神症状を大きく持ち崩し、家では日々母と大喧嘩になっていた。お互いに逆上して過去を蒸し返す中で、私が中高のころ風呂に入っている最中に兄に風呂のボイラーを消されたことがたびたびあった事実に触れた。そして、兄が居間にいる気配がしなくなるまでずっとボイラーを点け直しにいくことができず、冷えていく風呂の中で約2時間耐えて待っていたが、それをずっと父母に隠してきたことを話したら、母に逆ギレされた。「そんなことある筈がない!」と言うのである。私は(そんなことわざわざ作り話で言うかよ……)と思ったし、(母は私に我慢するよう教え込んだくせに、それじゃあ訴え出れば良かったんですかい、どうせ兄の暴力がエスカレートする無限ループでしょうに……)とも思った。まぁ母にどれだけ過去の事情が伝わったかは分からないが、激闘は行けるところまで行って、年明けに終息していった。
掲出歌の「Jacob's ladder(ヤコブズ ラダー)」とは、創世記28章10〜16節に記された、所謂「ヤコブの梯子」と呼ばれているエピソードに基づくものである。少し長いが引用する。
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブは母の依怙贔屓に翻弄されて、兄の妬みと憎しみを一身に背負い、見知らぬ伯父の許に旅立った。逃亡先のハランでも二十年ただ同然で働かされ、苦渋を舐めるが、やがて時満ちて、妻子と多くの財産と共に帰還する。神はハランにたどり着くまでの道で、「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(創世記28章14節)と約束された。
暴力や諍いは弱い者に行き当たるまで止むことがない——実際の世界はそのようである。けれど、神は憎悪の捌け口とされたヤコブを祝福の基とした。聖書を熟読していた伊津野は、そのような神に食らいつくように歌で訴え出た——。今現在の伊津野に平安が訪れたかどうか、その後の消息を私は存じ上げていない。だが、私の人生に介入された神の真実さを思う時、きっと伊津野にも……!と強く思うし、そう願うのである。
伊津野重美『紙ピアノ』
歌集全体から、伊津野が家族の憎しみ合いに巻き込まれて生きてきたこと、その呪縛から解き放たれていないこと、そしてその苦しみを聖書の神にひたすらにぶつけて、手を伸べ続けたことが伝わってくる。
ちちあにをうちあにわたしうちなにをわたしはうてばいいの はるにれ
上の一首を一読、(うっ……)となった。私はこのことを自分語り以外で書く術を知らない。私の父と母の仲は険悪だった。父は酒を呑んで暴れ、母に物を投げたり殴ったりはほぼ毎日のことだった。暴力に必死に抗する母に父は「お前は女で年下だ。俺のお蔭でお前は食べられてるんだ。だからお前を殴ってもいい」といつも嘯いていた。私と兄は年子で、私が生意気だったこともあり、兄は私をよく殴った。そして父と(生計のこと以外は)同様の論理を振り翳した。私は兄に殴られるたびに泣いて母に助けを求めていたが、毎日の泣き喚きにうんざりした母はある時「お兄ちゃんは馬鹿なんだから、あんたが我慢すればいいのよ」と言った。それを聞いて、私の中であるものがプチンと切れた。ああ泣くのは無駄なんだ、と悟ったような気持ちになった。私はもう無駄に涙を流すことは無くなった。しかし暴力的な父は、私が兄に殴られているのを知ると、怒って兄を殴った。すると兄は「お前のせいで俺が殴られた!」とまた暴力を振るった。そのうち兄は、お前が存在するから俺が殴られるんだ、お前さえいなければいいんだ、という論理に移っていった。私は蔭で兄に暴力を振るわれつつ、それを誰にもバレないように押し殺して生活した。私は、どんな痛みにも無感覚になっていった。テレビで残虐な映像が流れようとも(人生そんなもの、世界ってそんなもの)と開き直っていった。小学校に入ってしばらくすると、仲のいい家族というのが世の中に存在することを知り、(気っ持ち悪りぃ……演技じゃねぇ?)と僻みっぽい目で見ていた。私が自分の気持ちを話すことができるようになったのは、大学3年の時身体を壊して休部していた間に聖書を勉強してからである。
創世記25章19節以降、創世記の筆はヤコブ(後のイスラエル)に焦点を定めて描かれていく。ヤコブの母リベカは兄のエサウよりも弟のヤコブを愛し、一計を案じて弟ヤコブに長子としての祝福を騙し取らせた。エサウの怒りは母リベカには全く向かわず、父イサクの死後ヤコブを殺してやろうという憎しみを腹に蓄えていった。それを知ったリベカは、ハランにいる彼女の兄ラバンの許にヤコブを逃がすことを思いつき、ヤコブは逃亡を余儀なくされた。(創世記27章41〜45節)
話が脱線するが、私は昨秋、精神症状を大きく持ち崩し、家では日々母と大喧嘩になっていた。お互いに逆上して過去を蒸し返す中で、私が中高のころ風呂に入っている最中に兄に風呂のボイラーを消されたことがたびたびあった事実に触れた。そして、兄が居間にいる気配がしなくなるまでずっとボイラーを点け直しにいくことができず、冷えていく風呂の中で約2時間耐えて待っていたが、それをずっと父母に隠してきたことを話したら、母に逆ギレされた。「そんなことある筈がない!」と言うのである。私は(そんなことわざわざ作り話で言うかよ……)と思ったし、(母は私に我慢するよう教え込んだくせに、それじゃあ訴え出れば良かったんですかい、どうせ兄の暴力がエスカレートする無限ループでしょうに……)とも思った。まぁ母にどれだけ過去の事情が伝わったかは分からないが、激闘は行けるところまで行って、年明けに終息していった。
掲出歌の「Jacob's ladder(ヤコブズ ラダー)」とは、創世記28章10〜16節に記された、所謂「ヤコブの梯子」と呼ばれているエピソードに基づくものである。少し長いが引用する。
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブは母の依怙贔屓に翻弄されて、兄の妬みと憎しみを一身に背負い、見知らぬ伯父の許に旅立った。逃亡先のハランでも二十年ただ同然で働かされ、苦渋を舐めるが、やがて時満ちて、妻子と多くの財産と共に帰還する。神はハランにたどり着くまでの道で、「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(創世記28章14節)と約束された。
暴力や諍いは弱い者に行き当たるまで止むことがない——実際の世界はそのようである。けれど、神は憎悪の捌け口とされたヤコブを祝福の基とした。聖書を熟読していた伊津野は、そのような神に食らいつくように歌で訴え出た——。今現在の伊津野に平安が訪れたかどうか、その後の消息を私は存じ上げていない。だが、私の人生に介入された神の真実さを思う時、きっと伊津野にも……!と強く思うし、そう願うのである。
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