日本語版には,
「新羅人もしくは新羅人二世あたりの人が新羅で勉強してから帰国し,新羅式漢文を取り混ぜて〈日本書紀〉を書いたという推定が可能だ。」
なんてことは書いていなかった。
もしかして,森教授が韓国に来て得た新しい知見が韓国語版に反映しているのかもしれないと思い,韓国語版と日本語版を比較してみました。
ところが,まえがきなどを読んでも,本文に関しては1999年の本に加筆が行われたという説明はなく,巻末付録として次の三つの文献が掲載されているだけでした。
「文章より観た『日本書紀』成立区分論――日本書紀箚記・その三――」
「「日本書紀」はだれが執筆したか」(2001年6月15日,韓国東方文化比較研究会発表要旨文)
「長屋王邸跡の木簡に「大宝律令」制定者の名」(1989年6月24日の朝日新聞記事)
これら3編を読んでも,別に「山田史御方」に関する新情報はありません。
結局,ハンギョレ新聞の
「新羅人もしくは新羅人二世あたりの人が新羅で勉強してから帰国し,新羅式漢文を取り混ぜて〈日本書紀〉を書いたという推定が可能だ。」
という記述の根拠は,韓国語版序文の次の記述だと思われます。
(前略)
「日本書紀」β群の漢文には音韻・語彙・文法にわたって,日本語の発想に基づく誤りがたいへん多い。すなわち,ベータ群(巻1~13,22~23,28~29)の漢文は,純粋な漢文ではなく日本式漢文だ。このβ群の執筆者は文章博士である山田史御方(やまだのふひとみがた)であると,私は推定した。御方(みがた)は「史(ふひと)」という姓からわかるように,韓半島からの渡来人が祖先だ。彼は若くして新羅に留学し仏教を修めた。その経歴を考慮すれば,β群の表記と文章には新羅漢文の影響が表れているのではないか。
実際にβ群の歌謡に使われている「弓(弓の下の一あり)」という文字は「氏(氏の下の一あり)」の異体字で,中国にはなく韓半島の三国時代に作られた異体字だ。また,「甲子七月中」だとか「秋九月中」の「中」は時制格を表す吏読の用法と一致する。
(後略)
「(山田史御方)韓半島からの渡来人が祖先だ。彼は若くして新羅に留学し仏教を修めた。」
から,
「新羅人もしくは新羅人二世あたりの人が新羅で勉強してから帰国し,新羅式漢文を取り混ぜて〈日本書紀〉を書いた」
と推定するのは,私には不可能です。アンスチャン記者の造作(=捏造)でしょう。
韓半島からの渡来人には新羅以外にも百済系,高句麗系などがあったろうし,一世や二世じゃなく,何代も前に渡来して言語的に日本人になりきったからこそ,日本人特有の誤りを犯したんではないでしょうかね。
「新羅人もしくは新羅人二世あたりの人が新羅で勉強してから帰国し,新羅式漢文を取り混ぜて〈日本書紀〉を書いたという推定が可能だ。」
なんてことは書いていなかった。
もしかして,森教授が韓国に来て得た新しい知見が韓国語版に反映しているのかもしれないと思い,韓国語版と日本語版を比較してみました。
ところが,まえがきなどを読んでも,本文に関しては1999年の本に加筆が行われたという説明はなく,巻末付録として次の三つの文献が掲載されているだけでした。
「文章より観た『日本書紀』成立区分論――日本書紀箚記・その三――」
「「日本書紀」はだれが執筆したか」(2001年6月15日,韓国東方文化比較研究会発表要旨文)
「長屋王邸跡の木簡に「大宝律令」制定者の名」(1989年6月24日の朝日新聞記事)
これら3編を読んでも,別に「山田史御方」に関する新情報はありません。
結局,ハンギョレ新聞の
「新羅人もしくは新羅人二世あたりの人が新羅で勉強してから帰国し,新羅式漢文を取り混ぜて〈日本書紀〉を書いたという推定が可能だ。」
という記述の根拠は,韓国語版序文の次の記述だと思われます。
(前略)
「日本書紀」β群の漢文には音韻・語彙・文法にわたって,日本語の発想に基づく誤りがたいへん多い。すなわち,ベータ群(巻1~13,22~23,28~29)の漢文は,純粋な漢文ではなく日本式漢文だ。このβ群の執筆者は文章博士である山田史御方(やまだのふひとみがた)であると,私は推定した。御方(みがた)は「史(ふひと)」という姓からわかるように,韓半島からの渡来人が祖先だ。彼は若くして新羅に留学し仏教を修めた。その経歴を考慮すれば,β群の表記と文章には新羅漢文の影響が表れているのではないか。
実際にβ群の歌謡に使われている「弓(弓の下の一あり)」という文字は「氏(氏の下の一あり)」の異体字で,中国にはなく韓半島の三国時代に作られた異体字だ。また,「甲子七月中」だとか「秋九月中」の「中」は時制格を表す吏読の用法と一致する。
(後略)
「(山田史御方)韓半島からの渡来人が祖先だ。彼は若くして新羅に留学し仏教を修めた。」
から,
「新羅人もしくは新羅人二世あたりの人が新羅で勉強してから帰国し,新羅式漢文を取り混ぜて〈日本書紀〉を書いた」
と推定するのは,私には不可能です。アンスチャン記者の造作(=捏造)でしょう。
韓半島からの渡来人には新羅以外にも百済系,高句麗系などがあったろうし,一世や二世じゃなく,何代も前に渡来して言語的に日本人になりきったからこそ,日本人特有の誤りを犯したんではないでしょうかね。
『日本書紀の謎を解く』の著者です。
実は初めてではなく、以前に幾度かYAHOO掲示板に別名で書き込んだことがあります。
今日、たまたまこのブログを見つけ、久しぶりに犬鍋さんの文章を読むことができたので、思い切って正体を現した次第です。
私は2001年の春からソウルへ研修に行き、1年間梨大の語学堂に通っていました。そのとき掲示板で犬鍋さんを知り、ファンになりました。
拙著の巻末の「森博達」は、ご推測の通りです。この本では幾つか言葉遊びをしました。(②へ続く)
先月、ソウル大奎章閣韓國學研究院主宰で「韓日國際 Work-shop」が開かれ、「古代韓日の言語文化比較研究」という全体テーマの下、私は指定された題目「『日本書紀』―その典拠(資料)研究の方法と實際―」で、口頭発表しました。
下手な韓国語での発表でしたが、幸い好評で、山場ではしっかり笑いも取れました。そのとき、冒頭で御方の出自について話しました。(③へ続く)
拙著が韓国語で翻訳されたのは、まことに光栄で意義深いことです。私がβ群の執筆者に擬している文章博士の山田史御方は倭人ですが、若くして新羅に留学し新羅の漢文や仏教を学びました。それのみではありません。
「山田史」は『新撰(しんせん)姓氏録(しょうじろく)』では「諸蕃」に分類されています。すなわち、祖先が韓半島から渡来し、日本に帰化した氏族なのです。その氏名は一族の居住地である河内国(かわちのくに)交野郡(かたのぐん)山田郷(やまだごう)の地名に基づきます。
山田史御方の出自と経歴から考えて、β群の文章は古代韓国の言語文化の影響を受けている可能性が小さくありません。またα群でも韓半島関係記事などは百済系史料によって述作されたものもあります。今後は、さらに多くの韓国の先生方も『日本書紀』を研究してくださるよう願っております。(④へ続く)
今回の発表では、折角なので書紀の百済資料の資料価値に言及しました。ただし今回はジャブです。内容は以下の通り。
【Ⅷ】韓半島関係記事の資料問題
α群は基本的に正格漢文で書かれています。漢文の誤用や奇用はβ群よりはるかに少ないのです。α群の誤用や奇用はほぼ引用文と後人による加筆という2種のケースに分けられました。最大の問題は韓半島関係記事です。
前述したように、接続詞「縦」は8例すべてβ群に偏在しています。しかも譲歩ではなく仮定に用いられた確実な誤用が5例ありました。そのうち潤色文の誤りが1例、巻25「孝徳紀」の大化の詔勅が2例で、これらは後人の加筆です。残りの2例はいずれも次のように韓半島関係記事です。
(19)縦削賜他、違本区域。〈縦(もし)し削きて他に賜はば、〉(巻17「継体紀」6年12月条、任那割譲問題での物部(もののべ)大連(おおむらじ)の妻の発話)
(20)縦使能用耆老之言、豈至於此。〈縦使(もし)能く耆老の言を用ゐば、〉(巻19「欽明紀」16年8月条、百済王子余昌に対する諸臣たちの発話)
(20)は百済の群臣が余昌の出家を諌める記事ですが、この段落の最後は「云々」で終わっています。「云々」は「以下省略」という意味であり、この記事は百済史料の引用文ではないかと推測されます。この巻19「欽明紀」の分注には『百済本記』の記事が14件引用されています。(20)も『百済本記』による記載でしょう。古代韓国の漢文にも、このような接続詞「縦」の誤用があるのでしょうか? お教え頂ければ幸いです。
ここで、前述した巻19「欽明紀」5年3月条に載せられた百済聖明王の「上表文」を検討しましょう。この上表文は四字句でリズムを整えた美文ですが、(9)のような副詞「即」の語順の誤りが見られました。他にも次のような誤用や奇用が混じっています。
(21) [口+彔]国雖少、未必亡也。至於卓淳、亦復然之。〈[口+彔]国は少(すこ)しと雖(いふと)も、未必(うたがた)も亡びましじきなり。卓淳に至りても、亦復然り〉
正格漢文としては「少」は誤用で、句末の「之」は奇用といえます。この「少」字は「小」字でなければなりません。同様の「少」の誤用は他にβ群に3例、α群(巻25の大化の詔勅)に1例あります。
句末の「之」は書紀ではβ群に偏在し、α群では巻19の韓半島関係記事に集中します。このような「之」の用法は周知の如く、古代韓国の文章では句の終結を示す吏讀的表現の一種で、しばしば用いられています。次は高句麗廣開土王碑の末尾に見える例です(訓読は森)。
ⓔ其有違令賣者刑之、買人制令守墓之。〈其れ令に違いて賣る者は之を刑し、買う人は制して墓を守らしむ〉
百済聖明王の「上表文」に見られた誤用(「即」と「少」)は、古代韓国人の文章にも現れます。8世紀の新羅人、慧超の『往五天竺國傳』から例を挙げましょう(1992年、桑山(くわやま)正進(しょうしん)編『慧超往五天竺國傳研究』の図版による、訓読は森)。
ⓕ此中天竺大小乗倶行。即此中天界内有四大塔。 〈此の中天竺は大小乗倶に行わる。即ち此の中天界 内に四大塔あり〉(第41行)
ⓖ衣着言音食飲。與吐火羅國大同少異。〈衣着言音 食飲、吐火羅國と大同少異なり〉(第142行)
【Ⅸ】百済上表文の史料批判
このように巻19「欽明紀」5年3月条の百済聖明王の「上表文」には、古代韓国の文章と共通した誤用や奇用が見られます。これは「任那復興問題」についての長い「上表文」で、内容は「日本府」の官人の退去を要請するものです。もちろん文中には「任那」や「日本府」という言葉が何度も出てきます。
それではこれは本当の上表文を引用しているのでしょうか?「そのとおり」と答えると、私は無事に帰国できないかも知れませんね。しかしその心配は杞憂だと思います。この「上表文」には、「日本」や「天皇」という言葉がありますが、欽明5年すなわち西暦544年には日本列島に「日本」は無く「天皇」もいません。この「上表文」は「日本」や「天皇」という言葉ができてから造られた文章です。(⑤に続く)
それではこれは本当の上表文を引用しているのでしょうか?「そのとおり」と答えると、私は無事に帰国できないかも知れませんね。
続けて、「しかしその心配は杞憂だと思います」と言いましたが、「聖明王上表文」が巻19述作者の完全な作文ではなく、原史料があったことはその文体などから明らかです。私は歴史学者よりも韓国語研究者の冷静な分析に期待して、韓国語研究者に書紀研究を呼びかけたのです。
長くなってしまいました。これからも犬鍋さんのご活躍を楽しみにしております。
接続詞「縦」は8例すべてβ群に偏在しています。
⇒接続詞「縦」は8例すべてα群に偏在しています。
申し訳ありません。
ブログをやっていて,これほど驚いたことはありません。
なんと,著者直々にコメントをいただけるなんて。
今,書棚から本を出してみると,私がこの本を貸した友人からの礼状がはさまっていました。
やはり掲示板を通じて,教授がソウルにいらっしゃるとの噂を聞き,某放送局の特派員(ディレクター)だった友人に本を貸しつつ,森教授を取材してはどうかとけしかけたのです。まもなく彼は帰任となり,本を返してくれたのですが,末尾に「森先生を囲む会を開けなくて心残りです」とありました。
このような形でコメントをいただくことができ,ただただ感激しております。
「推測」が正しかったこともうれしいです。是非,御著書の内部を再度博捜し,まだ見つけていない「言葉遊び」の深奥に到達したいと思います。
また,御方の出自に関するご発表をわざわざ長文紹介していただき,ありがとうございました。すべてを理解することはできませんが,たいへん興味深く読ませていただきました(実は,古事記も日本書紀も,現代語訳さえ読み通してはおりません!!)。
>韓国側の参加者は古代韓国語の研究者でした。
>私は歴史学者よりも韓国語研究者の冷静な分析に期待して、韓国語研究者に書紀研究を呼びかけたのです。
韓国の漢字教育の後退で,最も影響を受けているのが国史研究だと聞いたことがあります。研究者が漢文で書かれた一次史料を読めないと…。
優秀な古代韓国語の研究者がどんどん育ってくれるといいですね。
いつもコメントありがとうございます。
おっしゃるとおり,日本がらみの記事の非論理性は,大目にみる傾向があるようです。
以前ブログでも紹介しましたが,「いくら自由民主国家といえども、国と民族を抑圧した日本の植民地支配を美化する自由まで保障することはできない」と主張する愛国者がいる国ですから。
http://www.chosunonline.com/article/20050306000048
韓国の言論の問題は,誤報や捏造が明らかになっても,訂正記事が出ることが滅多にないことだと思います。
私もとても興味深く読ませていただきました。