犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

日帝時代の人口⑦~食糧増産

2008-02-06 06:52:09 | 近現代史
 人口問題の続きです。

 マルサスの人口論によれば


「人口は常に増加する傾向をもつが,人間の生存にとって不可欠な食料の増加はそれより緩慢であるため,人口増加につれて必然的に生活水準は低下し貧困に陥らざるをえない。生存するための最低限の水準に至ると,それを超えて人口が増え続けることはできない。すると貧困が疾病,飢餓,捨て子,嬰児殺し,堕胎,犯罪,あるいは戦争を招き,死亡率を高めて人口増加を無理やり押しとどめることになる。こうして,長期的に最低生存費水準に均衡する出生率と死亡率の組み合わせが達成され,人口は増えも減りもしない状態になる。」

 これが「マルサスの罠」といわれる均衡状態です。日帝時代を通じて,朝鮮の人口は増え続けました。人口増加と裏腹にある「貧困」も進行したと思われますが,「マルサスの罠」に至ることはなかった。つまり,この時代に相当の食料増産が達成されたことになります。

 ところが,韓国の国定史観では,日帝時代,食料(特に米)が「収奪」され,朝鮮人の栄養状態が悪化されたとされています。たとえば,教科書では次のように記述されています。

食糧の収奪
 第一次世界大戦に参戦し、資本主義の基礎固めをした日帝は、高度成長のために韓国に対する経済的収奪を一層強化した。
 彼らは工業化の推進にともない生産が不足するようになった食糧を、韓半島より収奪する、いわゆる産米増殖計画を立て、これをわが国の農村に強制した。一九二年からの一五年計画によって推進された食糧増産計画には無埋があり、結果的には計画した増産量を達成できず中断するはめとなった。
 しかし日帝の米穀収奪は目標どおりに遂行され、この計画が中断された一九三三年でも、増産量をはるかに超過した量を収奪していったのである。そのためにわが農民の大多数は飢餓線上であえぎ、満州に新しい生存基盤を探し求めての流浪の旅に出るか、火田民に転落するほかはなかった。当時農民は米を収奪されただけでなく、増産に投入された水利組合費、肥料代金、穀物運搬費なども負担させられ、二重の苦痛にあえいだのである。

 これが「収奪」ではなかったことについては,韓国人の論考を紹介しました(→リンク)。自作農が作った米は,自家消費分を除いて米市場で売られた。小作人の場合は,地租として地主に納められ,地主が米市場で売却,大きな利益を得た。その米は朝鮮半島の都市で販売されたり,日本に移出(国家間の取引ではないので輸出という言葉は使わない)されました。

 産米増殖計画については,ネットで論文があったので詳しくはそちらを参照ください(→リンク)。

 簡単にまとめると,米騒動(1918)を経験した日本は,長期的に食糧増産を計画。日本でも増産計画を立てたが日本より収量が半分の朝鮮半島のほうが増産余地が高いと考え,朝鮮での増産に力を入れた。朝鮮半島では,日本の品種を導入したり,肥料を持ち込んだりしたが,降雨に依存する天然水田が大半だったため,収量があがらなかった。そのため,産米増殖計画では,新田開発(開墾・干拓)とともに,灌漑施設の整備に力が入れられた。それにより米の収量が増え,日本への移出量も増えた。一方,日本国内では,豊作に加えて,安い朝鮮米で米価が低迷。昭和不況の中で,朝鮮米の移入に対する反対論が大きくなった。1930年代の第二次計画が途中で中止された(1934年)のは,日本国内の反対が原因です。

 J・プズー・マサビュオー『新朝鮮事情』(1985,クセジュ文庫)によれば,

「増産は,新しい農地の開拓よりは,農業技術の進歩に基づく生産性の向上という形をとって行われた。冬の気候の許すところでは二毛作によって収穫の倍増が図られた。合理的灌漑システムの拡大,種子の改良,寄生虫や害虫の駆除にも重点がおかれた。化学肥料(国内で生産される)が教えられた。
 米を日本に送りだす政策によって,朝鮮における米の消費は減少を余儀なくされ,満州や朝鮮北部で生産された粟,トウモロコシ等の雑穀や,ジャガイモにより代用されることとなった」

「収奪」を裏付ける資料として引き合いに出されるのが,次の統計です。

    朝鮮      朝鮮          日本
    一人当り    一人当り    米と粟 一人当り
 年 /米消費高/指数/粟消費高/指数/合計 /米消費高/指数
   (石)     (石)         (石)
1915
19 0.7071 100  0.3034 100  100  1.107  100
1920
24 0.6379 90  0.3432 113  98  1.129  
101
1925
29 0.5124 72  0.3664 121  88  1.117  
101
1930
36 0.4256 60  0.3023 100  72  1.092  
99

 上を見ると,日本人の米消費が横這いなのに比べ,朝鮮人の米の消費が減り,粟消費は増えたが米と合わせた全体の消費は減っていることがわかります。


 ただ,これは「マルサスの人口論」にあったように,「人口急増」にともなう貧困化でしょう。

 現在,日本人も韓国人も「われわれの主食は米」というのが常識ですが,昔はそうではなかった。

「米が実質的に日本国民の主食になったのは、それほど古いことではない。第二次世界大戦中、米の配給制がとられたことにより、それまでは自分が生産したものでありながらこれを口にすることができなかった小作農にもこれが消費されるようになった。1879年の食物混合割合は、米53、麦27、雑穀14、さつまいも5、その他1。」(平凡社世界大百科事典)

 この事情は朝鮮半島でも似たようなものでしょう。

 鄭大均『在日の耐えられない軽さ』(中公新書2006年)に次のような記述がありました。岩波の「世界」編集長だった安江良介氏が平壌で金日成首相にインタビューした記事。

「その日は美しい秋晴れの日であったが,貯水池を眺めながら農業建設の成功が話題になった。すると首相は「李飯(イパプ)という言葉を知っていますか」と訊ねた。私が知りませんと答えると,首相は「そうでしょう」と楽しそうに大笑して説明した。「李飯というのは白米のことです。なぜ李飯というのかといえば,昔は,白米を食べられたのは李王朝の王家の人たちだけで,地主でさえいつもは食べられなかったからです。日本植民地時代には,一生に一度でよいから腹一杯に白米を食べたいというのが,民衆の希(ねが)いであった。(中略)だが,いまはすべての国民が白米をたべられる。だから李飯という言葉はもうなくなったのです」(『世界』1972年12月号/鄭大均『在日の耐えられない軽さ』より引用)

 1972年時点で,白米を食べられた人が北朝鮮にどのぐらいいたのでしょうか。現在はほとんどいないはず。飼料用のとうもろこしが主食という噂もあります。白米は「金飯」と呼ばれていたりして。

 それはともかく,日帝時代に市場経済が活性化されたとき,唯一商品価値のあった米を売り,そのお金で安い雑穀を買って食べるというのは,しごく当然の経済活動だと思います。


〈関連記事〉
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