以前ご紹介した水野直樹著『創氏改名』(岩波書店,2008→リンク①,②)が韓国で翻訳されたようです。次は,朝鮮日報にでた書評(→リンク)からの抜粋。
(前略)
日本の京都大で教授を務める著者は、まさにこの点から「創氏改名」の隠された意図がうかがわれる、と語る。単純に朝鮮人の名前を日本式に変えるにとどまらず、姓という「宗族」の単位を氏という「家」の単位に解体し、婦人や婿養子も同じ氏で呼ぶようにするなど、朝鮮の家族制度そのものを日本式に改変しようとしたのが、創氏改名だった。
結局、すべての朝鮮人を宗族単位の先祖崇拝から引き離し、「天皇」の支配下に置くことを意図していた、というわけだ。
このために各種の公権力が強制的に動員されたが、「内地人(日本人)」と朝鮮人の間には、決して同一ではない「差異の政治学」も微妙に作用していた、と同書は主張する。朝鮮人の反応も、一様ではなかった。例えば、朝鮮人高級官僚だった全羅北道知事ソン・ヨンモク、忠清北道知事ユ・マンギョムは、創氏を拒否した。「創氏改名」は、考えているよりはるかに複雑な問題だった、というわけだ。
と,まあ,同書の内容をコンパクトにまとめています。
ところで日本の新しい首相,麻生太郎についての記事がこちら(→リンク)。
麻生氏は2003年、同党政調会長時代に「(植民地時代の)創氏改名は、朝鮮の人たちが『苗字をくれ』と言ったのがそもそもの始まり」という問題発言を行った人物として韓国でも広く知られている。
今は金融危機で大騒ぎですが,少し落ち着いてきたら,「創氏改名発言」が日韓の火種になりそうな,嫌な予感がします。
麻生首相の発言,「創氏改名は、朝鮮の人たちが『苗字をくれ』と言ったのがそもそもの始まり」の根拠は何か。
前のブログでも触れましたが,私が調べたところ,次の資料だと思われます。
「内地在住の朝鮮人及び在外朝鮮人にして,内地式の氏名を仮称する者を始めとし,半島在住の朝鮮人に於いて,法律上内地人式の氏を認められんことを熾烈に要望」(大野文書「昭和14年制令第19号朝鮮民事令中改正の件及び昭和14年制令第20号朝鮮人の氏名に関する件に関する第75議会擬問擬答」)
そして,朝鮮においても「年に10通位は必ず法務局に投書」があったらしい。「熾烈に要望」と「年に10通位」の間に大きな落差を感じます。
「内地在住の朝鮮人」とは,日本国内に居住していた朝鮮出身者のこと。彼らは差別を避けるため,あるいは日常生活における便宜のために,創氏改名が行われる以前より通名を使っていました。これは,たとえば当時を舞台にした『生きることの意味』(→リンク)のような作品からも窺えます。
そして,「在外朝鮮人」というのは,「満州国」成立以後,満州に移住した朝鮮半島出身者が,名前が朝鮮式だと商売上不利であるため,日本式の氏名を名乗って日本人のふりをしていたもののようです。
ただ,彼らは本土の2千数百万の朝鮮人に比べれば少数派。彼らのためを考えて「創氏改名」という大きな政策を行ったとは考えにくい。実際,さまざまな理由があるのですが,「創氏」の届け出率は,朝鮮が8割に達したのに対し,内地は14.3%,満州は18.8%。
麻生首相の「創氏改名は、朝鮮の人たちが『苗字をくれ』と言ったのがそもそもの始まり」というのは,あたかも半島在住の朝鮮人がみな日本式氏名を望んでいたかのようで,誤解を招きます。半島の人々は,日本式氏名があったところで何の利益もないわけですから,望むわけがありません。
じゃ,なんのために日本は創氏改名を行ったのか。
これはズバリ,戦争に動員するためだと思います。創氏改名が企画された1939年という時期を考えれば,戦争というのは,「対英米戦争」ではなく,「対中戦争」のことです。
日本は日中戦争に突入する前夜の37年,朝鮮人の徴兵の可能性について朝鮮軍の意見を求めました。回答は「徴兵方針は当然であるが,その実現は数十年後だろう」。朝鮮の状況と朝鮮人の意識は「徴兵」とはほど遠いものだったのです。
日本の支配に対する反抗,日本と天皇に対する忠誠心の欠如,日本語力の不足…。
しかし,次第に深刻化する戦争と兵員不足の展望から,このような朝鮮の状況を変えるべく,さまざまな政策が打ち出されます。すなわち,「皇民化政策」です。
創氏改名は,そのような皇民化政策の一環だったわけです。
これは,朝鮮よりも前から植民地になっていた台湾と比較すれば,はっきりします。
台湾でも「創氏改名」と同様の施策が実施されましたが,いろいろな面で違いがあった。まず,台湾では「創氏」ではなく,「改姓名」だったこと。そして朝鮮では「創氏」が義務であったのに,台湾での「改姓名」は許可制だったこと。条件は,日本語常用,神棚があること,日本的生活をしていることなど,相当に厳しく,結果的に「許可」されたのは全戸数の2%にすぎませんでした。
要するに,台湾は,朝鮮でもやるので平等の観点から実施するものの,まるでやる気がなかったようです。
この違いは何から来るのか。
それは,「台湾人は中国人なので,中国との戦争に動員できるわけがない」という意識があったからだと思われます。その証拠に,米英との戦争に突入したあとは,台湾でも特別志願兵制度が施行されました(1942年)。これは,朝鮮(1938年)に遅れること,4年です。
〈関連記事〉
創氏改名①
創氏改名②
(前略)
日本の京都大で教授を務める著者は、まさにこの点から「創氏改名」の隠された意図がうかがわれる、と語る。単純に朝鮮人の名前を日本式に変えるにとどまらず、姓という「宗族」の単位を氏という「家」の単位に解体し、婦人や婿養子も同じ氏で呼ぶようにするなど、朝鮮の家族制度そのものを日本式に改変しようとしたのが、創氏改名だった。
結局、すべての朝鮮人を宗族単位の先祖崇拝から引き離し、「天皇」の支配下に置くことを意図していた、というわけだ。
このために各種の公権力が強制的に動員されたが、「内地人(日本人)」と朝鮮人の間には、決して同一ではない「差異の政治学」も微妙に作用していた、と同書は主張する。朝鮮人の反応も、一様ではなかった。例えば、朝鮮人高級官僚だった全羅北道知事ソン・ヨンモク、忠清北道知事ユ・マンギョムは、創氏を拒否した。「創氏改名」は、考えているよりはるかに複雑な問題だった、というわけだ。
と,まあ,同書の内容をコンパクトにまとめています。
ところで日本の新しい首相,麻生太郎についての記事がこちら(→リンク)。
麻生氏は2003年、同党政調会長時代に「(植民地時代の)創氏改名は、朝鮮の人たちが『苗字をくれ』と言ったのがそもそもの始まり」という問題発言を行った人物として韓国でも広く知られている。
今は金融危機で大騒ぎですが,少し落ち着いてきたら,「創氏改名発言」が日韓の火種になりそうな,嫌な予感がします。
麻生首相の発言,「創氏改名は、朝鮮の人たちが『苗字をくれ』と言ったのがそもそもの始まり」の根拠は何か。
前のブログでも触れましたが,私が調べたところ,次の資料だと思われます。
「内地在住の朝鮮人及び在外朝鮮人にして,内地式の氏名を仮称する者を始めとし,半島在住の朝鮮人に於いて,法律上内地人式の氏を認められんことを熾烈に要望」(大野文書「昭和14年制令第19号朝鮮民事令中改正の件及び昭和14年制令第20号朝鮮人の氏名に関する件に関する第75議会擬問擬答」)
そして,朝鮮においても「年に10通位は必ず法務局に投書」があったらしい。「熾烈に要望」と「年に10通位」の間に大きな落差を感じます。
「内地在住の朝鮮人」とは,日本国内に居住していた朝鮮出身者のこと。彼らは差別を避けるため,あるいは日常生活における便宜のために,創氏改名が行われる以前より通名を使っていました。これは,たとえば当時を舞台にした『生きることの意味』(→リンク)のような作品からも窺えます。
そして,「在外朝鮮人」というのは,「満州国」成立以後,満州に移住した朝鮮半島出身者が,名前が朝鮮式だと商売上不利であるため,日本式の氏名を名乗って日本人のふりをしていたもののようです。
ただ,彼らは本土の2千数百万の朝鮮人に比べれば少数派。彼らのためを考えて「創氏改名」という大きな政策を行ったとは考えにくい。実際,さまざまな理由があるのですが,「創氏」の届け出率は,朝鮮が8割に達したのに対し,内地は14.3%,満州は18.8%。
麻生首相の「創氏改名は、朝鮮の人たちが『苗字をくれ』と言ったのがそもそもの始まり」というのは,あたかも半島在住の朝鮮人がみな日本式氏名を望んでいたかのようで,誤解を招きます。半島の人々は,日本式氏名があったところで何の利益もないわけですから,望むわけがありません。
じゃ,なんのために日本は創氏改名を行ったのか。
これはズバリ,戦争に動員するためだと思います。創氏改名が企画された1939年という時期を考えれば,戦争というのは,「対英米戦争」ではなく,「対中戦争」のことです。
日本は日中戦争に突入する前夜の37年,朝鮮人の徴兵の可能性について朝鮮軍の意見を求めました。回答は「徴兵方針は当然であるが,その実現は数十年後だろう」。朝鮮の状況と朝鮮人の意識は「徴兵」とはほど遠いものだったのです。
日本の支配に対する反抗,日本と天皇に対する忠誠心の欠如,日本語力の不足…。
しかし,次第に深刻化する戦争と兵員不足の展望から,このような朝鮮の状況を変えるべく,さまざまな政策が打ち出されます。すなわち,「皇民化政策」です。
創氏改名は,そのような皇民化政策の一環だったわけです。
これは,朝鮮よりも前から植民地になっていた台湾と比較すれば,はっきりします。
台湾でも「創氏改名」と同様の施策が実施されましたが,いろいろな面で違いがあった。まず,台湾では「創氏」ではなく,「改姓名」だったこと。そして朝鮮では「創氏」が義務であったのに,台湾での「改姓名」は許可制だったこと。条件は,日本語常用,神棚があること,日本的生活をしていることなど,相当に厳しく,結果的に「許可」されたのは全戸数の2%にすぎませんでした。
要するに,台湾は,朝鮮でもやるので平等の観点から実施するものの,まるでやる気がなかったようです。
この違いは何から来るのか。
それは,「台湾人は中国人なので,中国との戦争に動員できるわけがない」という意識があったからだと思われます。その証拠に,米英との戦争に突入したあとは,台湾でも特別志願兵制度が施行されました(1942年)。これは,朝鮮(1938年)に遅れること,4年です。
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