台湾における八田与一と同じように,朝鮮半島にも同時期,水利工事に身を捧げた技術者がいました。
松尾茂さん(1910~)です。その経験は,『私が朝鮮半島でしたこと』(草思社,2002)にまとめられ,その内容がこちらに紹介されています(→リンク)。私も発刊後まもなく読みました。
内容を簡単にご紹介すると…
不況に見舞われていた1928年,18歳のときに朝鮮半島の親戚に養子に出され,養父にしたがって中村組という小さな土木会社に就職。
忠清南道公州での潅漑工事が初仕事で,その後,発注に応じて朝鮮半島のあちこちで水利事業にあたります。最初は仕事の割り振りや会計を担当していましたが,夜学で京城の工科学校を卒業すると、氏は架橋工事の現場代人(現場責任者)を任される。金をかけずに,安全に,いろいろな職人さんとのチームワークを第一にして,仕事を進めていきます。
工事が住民の反対に合うことはまずありませんでした。橋にしても,貯水池にしても,それが人々の生活に利益をもたらすことは明らかだったからです。
厳寒の地で,当時は珍しいコンクリート工法を行う苦労などが,結婚や子供の誕生という個人史と織りまぜて,職人らしい淡々とした語り口で描かれています。
ある架橋工事ではトロッコに足を轢かれ,それが幸いしたか兵役にひっぱられることがなかったというのは,塞翁が馬の故事を思い出させます。
注目すべきは,氏が使っていた朝鮮人の人夫との間に摩擦がほとんどなかったこと。日本人と公平に扱ったことも理由だったのでしょう,優秀な若い人の将来を考えて,自分の母校の工科学校に4人入学させることまでしたそうです。
最後の大仕事は平安北道の大干拓工事。しかし,戦争の進行とともに物資は不足し,結局干拓工事は全体の3割しか進まない時点で,日本は敗戦を迎える。敗戦を迎えた場所が北だったのが不運でした。ソ連軍進駐,財産没収,強制使役,女性供出の強制,収容所,脱走と南への逃避行…。命からがら博多に上陸したのは1946年11月。
「三十余年かかって半島に金と手を加えてきた成果が、ようやく実を結びはじめていた。……これからいよいよ花開くというときに、終戦になってしまった。もしあのまま工事がつづいていたら、北朝鮮の食糧事情はずいぶん違うものになっていたのではなかろうか。これからというときに残念なことをした、そういう思いが私のなかにある」「彼らは飢えることなく、飯をちゃんと食べているのだろうか。鴨緑江のほうでも食べるものがないという話を聞くと、やはり心が波立つ」
台湾の八田与一とは違い,松尾さんは一介の土木会社社員。
ただ,工事の規模に差こそあれ,日本の職人らしいきちんとした仕事の数々が,その土地の人々の生活向上に貢献したことは間違いないでしょう。
それまで付き合いのあった安州の人々から,
「あなたたちはこの土地のために尽くしているのだから,日本に帰ることはないでしょう」
と言われたそうですが,とても居続けられる状態ではなかったそうです。いまは北朝鮮の領土である安州に銅像が立つこともなく,その功績が語り継がれることもないでしょう。
参考
消された日本人の功績(リンク)
『認識台湾』①
『認識台湾』②
『認識台湾』③
松尾茂さん(1910~)です。その経験は,『私が朝鮮半島でしたこと』(草思社,2002)にまとめられ,その内容がこちらに紹介されています(→リンク)。私も発刊後まもなく読みました。
内容を簡単にご紹介すると…
不況に見舞われていた1928年,18歳のときに朝鮮半島の親戚に養子に出され,養父にしたがって中村組という小さな土木会社に就職。
忠清南道公州での潅漑工事が初仕事で,その後,発注に応じて朝鮮半島のあちこちで水利事業にあたります。最初は仕事の割り振りや会計を担当していましたが,夜学で京城の工科学校を卒業すると、氏は架橋工事の現場代人(現場責任者)を任される。金をかけずに,安全に,いろいろな職人さんとのチームワークを第一にして,仕事を進めていきます。
工事が住民の反対に合うことはまずありませんでした。橋にしても,貯水池にしても,それが人々の生活に利益をもたらすことは明らかだったからです。
厳寒の地で,当時は珍しいコンクリート工法を行う苦労などが,結婚や子供の誕生という個人史と織りまぜて,職人らしい淡々とした語り口で描かれています。
ある架橋工事ではトロッコに足を轢かれ,それが幸いしたか兵役にひっぱられることがなかったというのは,塞翁が馬の故事を思い出させます。
注目すべきは,氏が使っていた朝鮮人の人夫との間に摩擦がほとんどなかったこと。日本人と公平に扱ったことも理由だったのでしょう,優秀な若い人の将来を考えて,自分の母校の工科学校に4人入学させることまでしたそうです。
最後の大仕事は平安北道の大干拓工事。しかし,戦争の進行とともに物資は不足し,結局干拓工事は全体の3割しか進まない時点で,日本は敗戦を迎える。敗戦を迎えた場所が北だったのが不運でした。ソ連軍進駐,財産没収,強制使役,女性供出の強制,収容所,脱走と南への逃避行…。命からがら博多に上陸したのは1946年11月。
「三十余年かかって半島に金と手を加えてきた成果が、ようやく実を結びはじめていた。……これからいよいよ花開くというときに、終戦になってしまった。もしあのまま工事がつづいていたら、北朝鮮の食糧事情はずいぶん違うものになっていたのではなかろうか。これからというときに残念なことをした、そういう思いが私のなかにある」「彼らは飢えることなく、飯をちゃんと食べているのだろうか。鴨緑江のほうでも食べるものがないという話を聞くと、やはり心が波立つ」
台湾の八田与一とは違い,松尾さんは一介の土木会社社員。
ただ,工事の規模に差こそあれ,日本の職人らしいきちんとした仕事の数々が,その土地の人々の生活向上に貢献したことは間違いないでしょう。
それまで付き合いのあった安州の人々から,
「あなたたちはこの土地のために尽くしているのだから,日本に帰ることはないでしょう」
と言われたそうですが,とても居続けられる状態ではなかったそうです。いまは北朝鮮の領土である安州に銅像が立つこともなく,その功績が語り継がれることもないでしょう。
参考
消された日本人の功績(リンク)
『認識台湾』①
『認識台湾』②
『認識台湾』③
高木正雄です。私もこの書籍を拝見いたしました。
犬鍋先輩も以前紹介されていました「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」と同様、当時、半島を目指し、生活の基盤を置いた人々がどのような気持ちで、態度で暮らしてきたか?
その実情(そりゃ本人が虚偽を話していると言われりゃそれまでですが、)を示す非常によい資料であると感じました。
すこし舞台は異なってしまいますが、「石光真清の手記」と言う書籍があります。
この書籍は満州を舞台として、日露戦争直前に、露、清、日、満がしのぎを削る話ですが、そこかしこで小国人と呼ばれる半島出身者が登場しますが、その時代にその人々がどのように見られていたか、同じ時代に、日本人は世界からどのようにみられていたか、非常に興味深い書籍です。
もし機会がありましたら、是非ごらんになってください。
この書籍も、上記の2冊と同様に、当時の雰囲気を知るよい書籍と思います。
そうそう、先日、ソウル市内にある。
京城神社跡と朝鮮神宮跡を見てまいりました。
それぞれ、幼稚園の園庭と大学の構内のあちこちに、石ころとして放置されているさまざまな石材に、当時の寄贈者名が刻まれておりました。
文化と言うものは守る努力をしなければ、積極的に破壊すれば、ここまで徹底的に破壊できるものかと、同時に(矛盾しますが)、文化と言うものは、どれだけ意図的に消し去ろうとしても、こうやって残るものなのだなぁという、相反する気持ちが起こりました。
今日はこれから、復元工事に先立ち公開されているソウル駅にいってきます。
内装がところどころはがれ、基礎部分がむき出しになっているところがあるとのこと、当時の痕跡をのこした竣工当時の部分が見られるのではないかと期待しています。
何か目新しいものがありましたら、また報告させていただきます。
失礼いたしました。
今度,捜してみようと思います。
満州におけると同様,台湾でも韓国出身者は威張っていたようで,台湾で今でも韓国人が嫌われている原因になっているようです。
>京城神社跡と朝鮮神宮跡
そんなものが残っていたのですか。
駐在時代最後の2年間は南山のそばに住んでいたので,散歩コースだったのですが,不覚にも訪れそびれました。
京城神社跡は今は大学になっているのですね。
寝食忘れて没頭する、、、とは、まさにこの本です。
4部作となっています。日本の若者たちに是非に読んで欲しいものです。日本人として誇りを持ちます。
失礼いたしました。
かなり誤記があり、今読み直していて気が付きました。謹んで訂正させていただきます。
朝鮮神宮跡:こちらは、例の安重根記念館からみて、植物園(昔温室があったそうですね。)のさらにおく、更地があり、その両脇に石灯籠や何かの基礎と思しき石材が、バラバラにされて放置されております。
京城神社跡:こちらは、リラ???学園?といか教育機関があり、初等学校、中学校その一番奥に幼稚部があります。そこの園庭にひっそりと、手水鉢がそっくりそのまま手付かずで放置されています。
もし御希望でしたら、連絡をとる手段があれば差し上げます。
追記
「石光真清の手記」は中公文庫から出版されていましたがいまざ絶版です。アマゾンなどで中古本がかなり流通しております。
私はこの時代の本として、
ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書
ロシアにおける広瀬武夫
などを読んでいましたが、それぞれが面識があり、浅からぬ縁があったとは本書を読んで創めて知りました。
もしお時間がありましたら、是非ご覧になってください。
誤)
>もし御希望でしたら、連絡をとる手段があれば差し上げます。
↓
正)
>もし御希望でしたら、連絡をとる手段があれば写真など差し上げたいと思います。なにか手段はありますでしょうか?
石光真清の手記は,みなさまのコメントからいよいよ読みたくなりました。中古を探してみます。
高木様
写真送付には及びません。
いずれ実際に行ける機会があるでしょう。
ありがとうございました。