フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」。
私が小学生だったとき,国語の教科書に載っていて,学芸会で演劇までやらされました。
これはフランスのアルザス地方を舞台にした話です。フランスがドイツ(プロシア)との戦争に負けた結果,アルザスとロレーヌ地方はドイツに割譲され,学校ではフランス語の授業が禁止される。
フランス語教師,アメル先生は最後の授業で
「フランス語は世界じゅうでいちばん美しい,いちばんはっきりした,いちばん力強いことばである」
と述べ,最後に
フランス万歳!
と黒板に書いて,教室を去る。感動的なお話です。
かつて「国語愛」を教える目的で,日本の国語教科書に盛んに採用されました。
この作品には次のような一節があります。アメル先生の言葉です。
「ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ。『君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできないではないか』と」
母語であっても教育を受けなければ,「書くことができない」ことはありうる。しかし,「話すこともできない」とはどういうことか。そんなことはありえない。実は,この一節は,アルザス地方の住民の母語がフランス語ではなかったことを示しているのです。
アルザス地方は,この小説の舞台となった時代(1871年)にドイツに編入され,ベルサイユ条約(1919年)で再びフランス領になります。
それから約10年後,ある程度フランス語教育が実施されたあとの統計によれば,1931年のアルザス地方の人々の言語状況は,フランス語をしゃべる人が50.2%,ドイツ語をしゃべる人が82・4%,ドイツ語の方言であるアルザス語をしゃべる人が86.1%だった(重複あり)。
ここからも類推できるように,1871年当時のアルザスは完全なドイツ語圏であり,学生たちの母語はドイツ語(の方言)だった。学生たちは学校で習わなければ,国語(国家の言葉)であるフランス語を「話すことも書くことも」できなかったのです。
アメル先生は,1945年当時韓半島で教鞭をとっていた日本人教師と同じ立場だったと言えるでしょう。
帝国主義的作家ドーデは,それを「国語愛」の作品に仕立て上げました。1980年代に入り,日本の社会言語学者,田中克彦によってこの作品の欺瞞性が暴露されると,日本の国語教科書からこの作品は姿を消していきました。
「最後の授業」はもともと,パリの新聞に連載された小説で,毎週月曜日に掲載されたことから,それらの作品はのちに「月曜物語」として刊行されました。「月曜物語」の中には,アルザスに関する話がいくつかあり,かつてドーデがアルザス地方を旅行したときの紀行文もあります。ドーデが実際にアルザス地方に足を運んでいたのなら,そこでどのような言語が話されているかを知らないわけがない。
じゃあなんでドーデはこのような欺瞞的な作品を書いたのか。
それを理解するためには,当時の状況を知らなければなりません。「最後の授業」が書かれたのは1872年5月でしたが,当時フランス,およびパリは歴史の激動のさなかにありました。
1870年に勃発したプロシアとフランスの戦争は,数年前から戦争準備を進めていたプロシアが圧倒的に優勢で,たちまちフランス皇帝ナポレオン3世を捕虜にしました。
しかし,パリ市民は降伏しなかった。
共和主義革命を起こし,臨時政府を樹立し,パリに籠城。パリの市民は4カ月間の抗戦ののち,鎮圧されます。
このときに従軍し愛国心を大いに刺激されたドーデは,戦争が終わった約1年後,「最後の授業」をパリの新聞に発表します。読者対象は,普仏戦争によって愛国心を鼓舞され,その敗戦によって屈辱にまみれた,パリ市民です。講和条約は,フランスに50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌ地方のドイツへの割譲という厳しいものでした。アルザス・ロレーヌ地方は,パリ市民にとって,それまで必ずしも関心のある土地ではありませんでしたが,ドイツへの割譲によって,にわかに脚光を浴びました。そして,この失われた土地は,パリ市民の想像世界の中で,美化され,ドイツ敗戦の屈辱を象徴する土地になったのです。
ドーデは,ドイツへの敵愾心と祖国フランスへの愛国心を煽るために,「最後の授業」を書きました。それは,けっしてアルザス地方の人々に向けたものではなく,パリ市民に向けたものでした。ドーデは,パリの人々の愛国心を鼓舞するために,象徴的な土地,そしてたまたま自分が数年前に旅行したアルザスを選んだのです。
さて,ドーデの出身は,南仏です。
フランスが当時多言語国家であったことは,1793年に行われた言語調査からもわかります。それによれば当時のフランス人口の2300万人のうち,600万人はフランス語をまったく理解できず,他の600万人はなめらかに話すことができなかった,という。
すなわち,全人口の半分以上の人々にとって,パリで話されているフランス語は,自らの母語でなかったのでした。
今日のフランス語は,当時,書き言葉としてはフランスの公用語の地位を獲得していましたが,話し言葉としては,パリを中心とした北半部でのみ使われており,地方においては別の言語,または強い方言が使われていました。ドーデの生まれ故郷,南仏は,「オック語」というフランス語系方言が通用しており,ドーデの母語もまたオック語でした。
「最後の授業」には,非常に有名な一節があります。
ある民族が奴隷になっても,その国語を保っているかぎりは,その牢獄の鍵を握っているようなものだから,私たちの間でフランス語をよく守って,決して忘れてはいけない。
というアメル先生の言葉です。
実は,この一節は,ドーデの独創ではありません。これは,当時,南仏の言葉によって文学活動を行おうという「南仏語文学運動」の中心人物でもあり,ドーデの親友でもあったF・ミストラルの言葉です。
「自分の言葉をしっかりと手にしているものは,自分の鎖を解く鍵を手にしているのに等しい」(F・ミストラル)
ここでいう「自分の言葉」とは,ミストラルの,そしてドーデの母語であるオック語でした。
フランス革命は,人類普遍の理念を標榜していましたが,その中核には強固な民族国家主義(ナショナリズム)が息づいていた,といわれます。その言語政策においては,それぞれの地方の言語を尊重する方向にはなく,一つの言語,すなわちフランス語の上からの押しつけを強力に押し進めたのです。
ラテン語の世界から脱し,国民国家を結束させるための,国家語としてのフランス語の確立,普及は,フランスにとって,至急の課題でした。
そして,カタロニア語,ブルトン語などの完全な別言語はもちろんのこと,南部フランス方言,すなわちオック語に対しても,「言語帝国主義的な」圧迫を加えていったのです。
これに対する文学者の対応はさまざまでした。
ミストラルは,あくまで自分の母語を大切にし,オック語による文学活動を繰り広げようとしました。
一方,ドーデは,個人的にミストラルを尊敬しつつ,文学的姿勢においては正反対の立場をとった。ドーデは自らの母語,オック語ではなく,北部フランス語をフランスの正式な国家語として受け止め,積極的にそれを使って文学活動を行ったのです。
後年,ドーデは,南仏から来た太鼓叩きを扱ったエッセイの中で,この同郷人に憐憫の情を示しながら,フランス語をウグイスの美しい声にたとえ,オック語をセミのやかましい声にたとえています。
これは,韓国近代文学の祖とされながら,日本の植民地支配に協力し,創氏改名を国民に勧め,日帝時代末期はもっぱら日本語でのみ作品を発表した李光洙にたとえられるかもしれません。
それに対し,ミストラルは,「フランス国家語」の強圧に対抗し,カタロニア語,ブルトン語などとの連帯を意識しつつ,オック語を擁護する意図で,
「自分の言葉をしっかりと手にしているものは,自分の鎖を解く鍵を手にしているのに等しい」
という言葉を使ったのです。
このミストラルの意図をじゅうぶん承知しながら,それをフランスの愛国心を鼓舞するために自分の小説に流用し,
ある民族が奴隷になっても,その国語を保っているかぎりは,その牢獄の鍵を握っているようなものだから,私たちの間でフランス語をよく守って,決して忘れてはいけない。
と書き換えたドーデ。
ドーデは今なお,フランスの国民作家としてフランス国民から敬愛されています。
一方,李光洙は光復後,親日派の巨頭として糾弾され,失意の日々を過ごすうちに朝鮮戦争が勃発。北へ渡ったまま行方不明になりました(一説に拉致されたともいわれています)。
今日,韓国の教科書では,文学史の年表にわずかに出るのみ。韓国近代文学史上,夏目漱石に匹敵する業績をあげながら,晩節を汚したという理由で正当に評価されない。
かわいそうなことです。
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狭いヨーロッパでは、滅ぼされる言語・文字があっても不思議じゃないでしょう。
ある言語・文字が消滅するとすれば、それは、それを常用する民の寿命なのでしょう。
アジアでは、こんなこともありました。
異国人開山の寺である唐招提寺が、1200年余も廃寺にもならず今に存続するは、吾が邦の歴史上の奇蹟と言うべきなのでしょう。
創建当時の同寺では、多分、呉音がベースだったと思われます。
鑑真→法進→如宝
と唐招提寺3代のリーダーはシナ呉音が母語。
すると
(平城京西端の唐招提寺はシナ人租界?)
唐招提寺は如宝が完成したといわれています。
如宝は俗姓{安}氏。
通説に従えば、ソグディアナの都市国家{安国・ブハラ}からシナ・大唐に帰化したソグド商人の子であるそうです。
だとすれば、如宝は、少年期までは、多分家庭ではソグド語を常用していたのでしょう。
ソグディアナは、751年、唐軍・朝鮮人傭兵高仙芝がタラス河の戦いでイスラム軍に大敗しため、ソグド人は殲滅され、ソグド語も消えました。
754年、鑑真・法進・如宝が来日しています。
如宝はソグド語の消滅を確実に認識していたのでしょう。
東京国立博物館・法隆寺宝物館には、ソグド文字の焼印した栴檀・白檀の香木が展示されています。
此れを如宝は目にしているか判りませんが、全く同時代のものです。
ソグド文字はその後、ウイグル文字→モンゴル文字→ハングル→満州文字と転化したそうです。
妙なカタカナ語が氾濫する今の日本語を悲しむ人はあまり居ませんね。日本語も外部進出してるわけですから、意思疎通さえすれば、言語・文字はどうでもいいような気がしますが・・・・・。
雲南から揚子江河口へ,そして米文化とともに海沿いに北上し,山東半島から遼東半島を経て朝鮮半島南部へ。
そこで北方系と混血し,しかし言語は維持しつつ,縄文末期から弥生時代にかけて波状的に数万人の移住があった。
倭の時代には,朝鮮半島南部と日本は言語的には共通だった。
しかし,その語の半島の動乱で,半島南部の人々はすべて日本に移住したか,半島の地で殲滅された。
したがって,今日,半島南部にも中国沿海にも,日本語の祖語は跡形もなくなった。
かくして日本語は孤立語になった。
記憶が曖昧ですが、昭和30年頃のベストセラー{安田徳太郎「万葉集の謎」}を思い起こしました。
レプチャ語なんてこともありました。
学界は完全無視だったと思います。
水野祐先生も、生前、北九州・南韓の住民を倭韓人と呼んでおりました。勿論、彼らは倭韓語を使っていたとのことでした。
犬鍋さんの御説と水野先生説は、相通ずるものがあります。
然し、犬鍋さんの卓見たる所以は、倭韓人は「すべて日本に移住したか、半島の地で殲滅された」と踏み込んだことであります。
素晴しいご返事有難うございます。
レプチャ語のドシャ(雨)は日本の土砂降りと関係があるとか,そんなやつでしたね。
米が半島南部経由で来たらしいこと。
弥生人の形質が北方系であったこと。
にもかかわらず,韓国語と日本語の基礎語彙にほとんど共通性がないこと。
これをどう説明するか。
米の文化と航海術をもった南方系の人々と,北方の形質をもった人々が混交し,形質的には北方系になったが,言語は南方系を維持した。
かなり無理のある説ではありますが,大野晋教授のように南インドからはるばる渡ってきた(タミル語説)よりは現実可能性があるのではないかと。