当ブログの過去記事にいただいたコメントで、朝鮮日報日本語版のリンクを紹介してもらいました(→リンク)。
数日後にリンクをたどると、すでにリンクは無効になっていたので、韓国人のブログに引用されていた韓国語記事から訳し直してみました。
安秉直教授、日本軍が組織的に慰安婦を動員したことを証明
「慰安所管理人の日記」公開
日本軍の完全統制下で運営
特定の部隊に慰安所を配属させ、収入報告書、営業日報を出させる
「1942年7月、『4次慰安団』出発」
日帝治下の韓半島で、すでに数次に渡って組織されていたことの明確な証拠
慰安婦をやめた人も、再び連れて行かれた
「慰安婦であったが、出て行ったヒロコ、兵站の命令で再び来たそうだ」
安秉直ソウル大名誉教授(韓国経済史)が6日に公開した日本軍慰安所の朝鮮人管理人の日記は、これまで実体がはっきりしなかった日本軍慰安婦の動員と慰安所運営の実態の相当部分を見せてくれる。
日記の筆者(1905〜1979)は、1940年代に入って統制経済が強化され、経済的困難に陥ると、1942年7月に日本軍慰安婦を募集して、ビルマに向かう義兄に合流した。
彼がビルマとシンガポールで記した日記には、日本軍慰安所の経営の実態と、日本軍慰安婦の生活の様子が描かれている。ただ、1942年度の日記が紛失し、日本軍慰安婦の募集過程に関する記述が抜けている点は惜しまれる。
日記は主にハングルと漢文で記され、日本語も混ざっている。文章は韓国語だが漢文として読まなければ意味が通じないところも多く、現代語訳が必要だ。
日記を通じて明らかになった重要な事実は、日本軍が日本軍慰安婦を複数回、組織的に動員したという点だ。1942年5月、日本軍南方派遣軍司令部は、朝鮮軍司令部に対し慰安婦募集への協力を要請した。朝鮮軍司令部が選定した慰安所業者たちは、お金をたくさん稼げるという甘言と、まとまったお金を前以って与える前借金(賃金を担保にした借金)を餌に、慰安婦を募集した。
彼らが募集した慰安婦たちは、7月10日、業者、管理人とともに釜山港を出発した。「一昨年、慰安隊が釜山を出発したとき、第4次慰安団長として来た津村氏」(1944年4月6日)という日記の内容から、日本軍が朝鮮でこれ以外にも慰安団を数回組織したという事実がわかる。
日本軍慰安婦の一部は、前借金数百円を受けとった。そのお金は、軍から出たというのが研究者たちの分析だ。日記には、これを裏付ける内容が出てくる。日本軍慰安所の業者たちは、慰安所をたやすく譲り、新しい業者は、たいした負担なしにこれを引き継いだ。日記の筆者も、義兄が事故で死んだ後、彼が運営していた日本軍慰安所に対する縁故権を主張しなかった。これは、日本軍慰安所が事実上、軍の所有であり、業者は経営だけを担当していたからだ。
日記はまた、日本軍慰安所が日本軍の完全統制下で運営されたということも教えてくれる。日記に登場する日本軍慰安所は、ビルマに27カ所、シンガポールに10カ所だ。日本軍慰安所は、「航空隊慰安所」「兵站管理慰安所」のように、特定の部隊に所属しており、収入報告書、営業日報などの報告書を定期的に所属部隊に出した。「(ラングーン)のインセンにいる高(たか)部隊、つまり航空隊所属の慰安所2か所が、兵站管理に移譲されたそうだ」(1943年7月19日)、「村山氏が経営する慰安所、イチフジ楼が、兵站管理になった」(7月20日)という日記の内容のように、所属部隊が変更されることもあった。
また、日本軍慰安所は軍の命令に従って移動した。「慰安所を55師団からマンダレーの近くのイエウという所に移転しろという命令があった」(1943年3月10日)「ペクの慰安所、乙女亭、文楽館、将校クラブなど、三、四カ所の慰安所は、今回アカーブ地方に移動したが」(4月15日)、「神奈川氏は、慰安所移動説があるらしいと言って軍司令部で調べるのだそうだ」(8月6日)という日記の内容がこれを立証している。
日本軍慰安婦生活をした人が、再び連れてこられたこともあった。「以前、村山氏の慰安所で慰安婦をしていたが、結婚するといって出て行った春代と弘子は、今回、兵站の命令でまた慰安婦としてキムチョン館で働くようになったそうだ」(1943年7月29日)という日記の内容がこれを物語っている。
日記の内容から見た、日本軍の慰安婦組織的動員の証拠
日記を通じて明らかになったこれらの事実は、日本軍慰安婦を民間業者が募集し、慰安所業者が営業のために日本軍部隊について回ったという、一部の日本人の主張が事実でないことを示している。
安秉直教授は「日本軍慰安婦は徴用、徴兵、勤労挺身隊と同様に、日本が、戦争の本格化とともに戦時動員体制の一つとして国家的次元で強行したもの」であり、「そのうえ慰安婦たちは、募集時に彼らがすることになる仕事をきちんと説明しておらず、人身売買に近いやり方が使われたという点で、「広義の強制動員」と見てさしつかえない」と述べた。
同じニュースは、日本の毎日新聞にもありました。(→リンク)
慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる
毎日新聞 2013年08月07日
【ソウル澤田克己、大貫智子】第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、その様子をつづった朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。男性は、1942年に釜山港を出発した「第4次慰安団」に参加し、44年末に朝鮮へ戻った。慰安所従業員の日記の発見は、日韓で初めて。旧日本軍による従軍慰安婦問題では、数十年たってからの証言が多いが、現場にいた第三者による記録は、冷静な議論をする上で貴重な資料と言える。
朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授が見つけた。約10年前にソウル近郊の博物館が古書店で日記などの資料を入手。これを安名誉教授が最近精査し分かった。堀和生京大教授と木村幹神戸大教授が、日本語訳の作成を進めている。
日記は、朝鮮半島南東部・慶尚南道(キョンサンナムド)出身の男性が、ビルマとシンガポールの慰安所で働いた43、44年に記した。漢字やカタカナ、ハングルで書かれている。
男性は05年生まれで79年に死去。22年から57年までの日記が残る。ただ、朝鮮で慰安婦募集に携わった可能性のある42年を含む8年分は、見つからなかった。
男性は、43年7月10日に「昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。44年4月6日には「一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が(市場で)働いていた」と書いた。
ビルマで捕らえた慰安所経営者を米軍人が尋問し45年11月に作成した調査報告書には、42年7月10日に慰安婦703人と業者約90人が釜山港を出港したとの記録がある。釜山出港の日付が一致し、日記の正確性を裏付ける。
安名誉教授は「米軍の記録が第4次慰安団を指すのは確実だ。慰安団の存在は、組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められたことを示している」と指摘する。ただ、安名誉教授は、韓国で一般的な「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」との見方を示した。
安教授が発見した日記は、まもなく韓国で刊行されるようです。韓国の別の記事には、本の表紙の写真がありましたので、すでに刷り上がっているようです。そしてその日本語訳もいずれ出るのでしょう。
朝鮮日報の記事では、記者の分析として
日記を通じて明らかになったこれらの事実は、日本軍慰安婦を民間業者が募集し、慰安所業者が営業のために日本軍部隊について回ったという、一部の日本人の主張が事実でないことを示している。
と書かれていますが、毎日新聞では、
安名誉教授は、韓国で一般的な「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」との見方を示した。
と紹介されています。
どちらが正しいかは、本が刊行されてから読者が判断すればいいと思います。
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「追悼 小野田寛郎さん」では、当分、議論に参加する気はないのですが、是非ともこの記事も、議論の中に含めて欲しいもんですね。私が是非やりたかったので。
「アホか」さんが、毎日と朝鮮日報の記事に共通する認識が知りたいってのなら、私が提供します。
ただ、すぐには反応できませんが。
あんまりチェックできないですけど、私に構わず、どうぞご遠慮なく。武者修行して帰ってきます(^^ゞ。