昨日はユギオ(6・25)。
1950年のこの日,突如,北朝鮮軍が韓国に侵入し,その後3年間にわたり韓半島に戦乱をもたらしました。
日本では朝鮮戦争と呼びますが,韓国ではそうは言わない。
ユギオ事変,ユギオ動乱,あるいはたんにユギオと言われます。教科書などでは「韓国戦争」という言葉も使われます。
騒乱を表す言葉に,「サテ」というのもあります。漢字では「事態」。日本語と同じように「重大な事態」というふうにも使いますが,光州事態,天安門事態のように、数百人規模の死傷者を出した事件について,よく使うようです。
1980年,光州での住民デモを軍隊を動員して鎮圧した光州事態は,政府発表で死者189人。市民団体は2000人以上が死んだと主張していますが、誇張でしょう。
いっぽう,自然災害にも「サテ」が使われる。
山サテといえば土砂崩れのこと,ヌン(雪)サテといえば雪崩のこと。この場合もサテも,私は長らく「事態」だと思っていましたが,調べたら「沙汰」だった。サンサテ(山沙汰),ヌンサテ(ゆき沙汰)。
では洪水や鉄砲水はムルサテ(みず沙汰)かというと,そうではない。この場合はナッリ(乱離)を使います。日本人には発音が難しいですがムルラルリと読みます。
ところで,ユギオについて,北朝鮮に好意をもつ勢力(朝日新聞とか,岩波の『世界』とか)の人々は,「北が仕掛けたわけではない」と主張し,「38度線で戦闘状態に入った」のように,あいまいに記述していました。
しかし,現在,朝鮮戦争は北の侵略だったことがはっきりしています。トルクノフ著『朝鮮戦争の謎と真実-金日成、スターリン、毛沢東の機密電報による』には,金日成がどのように起案し,スターリンと毛沢東の事前承認をとりつけたかが赤裸々に描かれている。
朝鮮戦争の記録としては,白善著『若き将軍の朝鮮戦争-白善将軍回顧録』(草思社,2000年)が白眉です。
これは,韓国を滅亡から救った白善将軍の自伝。日本軍人として育った自らの生い立ちに始まり,突如北朝鮮が進撃し,あっけなくソウルが陥落する初戦。後退を続ける韓国軍と北朝鮮の快進撃,釜山をめぐる死闘。そして米国の支援を受けた韓国軍の反撃。38度線を突破して平壌占領。中国の参戦と「人海戦術」。一転して米韓軍の潰走。スターリンの死と休戦交渉の進展。戦後の韓国軍の復興…。
たんなる朝鮮戦争の詳細な記録というより,戦争とは何か,人間とは何か,戦場という極限的な状況で人間の信頼がいかに重要な役割を果たすかが,いきいきとした筆致で描かれている。白将軍は同書を日本語で書きました。戦争論,人間論としても第一級の本です。
巻末の小川彰氏の解説によれば,日本が共産化されなかったのは,白将軍のおかげかもしれないとのこと。以下に引用します。
〔6.日本を救った多富洞の激戦〕
白将軍に、韓国が救われたのが1950年8月21日の多富洞の戦闘である。この日、布陣していた韓国軍の部隊が陣地を放棄、敵の追尾を受け、肩を並べて戦っていた米軍も「わが連隊は撤収するほかはない」と判断したほとであった。もし、この戦いで北朝鮮軍が多富洞を抜けば、あとはプサンへは一息である。もし、開戦2ヶ月のこの時点で、北朝鮮軍がプサンを占領していたら、米軍の本格的来援は間に合わず、今日の朝鮮半島は全部北朝鮮になっていただろう。そういう地図を読者は想像できるだろうか。戦争がそのような形で終結していたら、日本はひとたまりもなかっただろう。日本には自衛隊(54年7月設立)はおろか、その前身の軽武装で国内治安の維持にあたる警察予備隊(50年8月設立)ができたばかりで、それは、朝鮮半島に出動した在日米占領軍の空白を埋めるためのもので、奇襲を受けて総崩れになった韓国軍以下の存在だった。それに、韓国同様共産主義のシンパは多かっただろうから、ソ連による日本赤化は成功したかもしれない。それとも、東京に大韓民国亡命政府が樹立され、日本は自衛隊などという曖昧な形の軍隊ではなく、国民が立ち上がって国軍を持ち、ソ連の思想的浸透によって日本で内戦が起こり、京都と東京を首都とする分断国家になっていたかも知れない。もしかすると、日本は独立という日を待たずに分断国家になっていたかもしれない。西日本は旧東欧のようになって、京都や奈良の仏教寺院や神社が半世紀にわたり封鎖されていたかもしれない。日本がそうならずに済んだのが白将軍のお陰だったとも言えるのは次の通りである。…
以下は,下のリンクをお読みください。
「若き将軍の朝鮮戦争:白善ヨプ将軍回顧録」(草思社)に寄せた解説文
1950年のこの日,突如,北朝鮮軍が韓国に侵入し,その後3年間にわたり韓半島に戦乱をもたらしました。
日本では朝鮮戦争と呼びますが,韓国ではそうは言わない。
ユギオ事変,ユギオ動乱,あるいはたんにユギオと言われます。教科書などでは「韓国戦争」という言葉も使われます。
騒乱を表す言葉に,「サテ」というのもあります。漢字では「事態」。日本語と同じように「重大な事態」というふうにも使いますが,光州事態,天安門事態のように、数百人規模の死傷者を出した事件について,よく使うようです。
1980年,光州での住民デモを軍隊を動員して鎮圧した光州事態は,政府発表で死者189人。市民団体は2000人以上が死んだと主張していますが、誇張でしょう。
いっぽう,自然災害にも「サテ」が使われる。
山サテといえば土砂崩れのこと,ヌン(雪)サテといえば雪崩のこと。この場合もサテも,私は長らく「事態」だと思っていましたが,調べたら「沙汰」だった。サンサテ(山沙汰),ヌンサテ(ゆき沙汰)。
では洪水や鉄砲水はムルサテ(みず沙汰)かというと,そうではない。この場合はナッリ(乱離)を使います。日本人には発音が難しいですがムルラルリと読みます。
ところで,ユギオについて,北朝鮮に好意をもつ勢力(朝日新聞とか,岩波の『世界』とか)の人々は,「北が仕掛けたわけではない」と主張し,「38度線で戦闘状態に入った」のように,あいまいに記述していました。
しかし,現在,朝鮮戦争は北の侵略だったことがはっきりしています。トルクノフ著『朝鮮戦争の謎と真実-金日成、スターリン、毛沢東の機密電報による』には,金日成がどのように起案し,スターリンと毛沢東の事前承認をとりつけたかが赤裸々に描かれている。
朝鮮戦争の記録としては,白善著『若き将軍の朝鮮戦争-白善将軍回顧録』(草思社,2000年)が白眉です。
これは,韓国を滅亡から救った白善将軍の自伝。日本軍人として育った自らの生い立ちに始まり,突如北朝鮮が進撃し,あっけなくソウルが陥落する初戦。後退を続ける韓国軍と北朝鮮の快進撃,釜山をめぐる死闘。そして米国の支援を受けた韓国軍の反撃。38度線を突破して平壌占領。中国の参戦と「人海戦術」。一転して米韓軍の潰走。スターリンの死と休戦交渉の進展。戦後の韓国軍の復興…。
たんなる朝鮮戦争の詳細な記録というより,戦争とは何か,人間とは何か,戦場という極限的な状況で人間の信頼がいかに重要な役割を果たすかが,いきいきとした筆致で描かれている。白将軍は同書を日本語で書きました。戦争論,人間論としても第一級の本です。
巻末の小川彰氏の解説によれば,日本が共産化されなかったのは,白将軍のおかげかもしれないとのこと。以下に引用します。
〔6.日本を救った多富洞の激戦〕
白将軍に、韓国が救われたのが1950年8月21日の多富洞の戦闘である。この日、布陣していた韓国軍の部隊が陣地を放棄、敵の追尾を受け、肩を並べて戦っていた米軍も「わが連隊は撤収するほかはない」と判断したほとであった。もし、この戦いで北朝鮮軍が多富洞を抜けば、あとはプサンへは一息である。もし、開戦2ヶ月のこの時点で、北朝鮮軍がプサンを占領していたら、米軍の本格的来援は間に合わず、今日の朝鮮半島は全部北朝鮮になっていただろう。そういう地図を読者は想像できるだろうか。戦争がそのような形で終結していたら、日本はひとたまりもなかっただろう。日本には自衛隊(54年7月設立)はおろか、その前身の軽武装で国内治安の維持にあたる警察予備隊(50年8月設立)ができたばかりで、それは、朝鮮半島に出動した在日米占領軍の空白を埋めるためのもので、奇襲を受けて総崩れになった韓国軍以下の存在だった。それに、韓国同様共産主義のシンパは多かっただろうから、ソ連による日本赤化は成功したかもしれない。それとも、東京に大韓民国亡命政府が樹立され、日本は自衛隊などという曖昧な形の軍隊ではなく、国民が立ち上がって国軍を持ち、ソ連の思想的浸透によって日本で内戦が起こり、京都と東京を首都とする分断国家になっていたかも知れない。もしかすると、日本は独立という日を待たずに分断国家になっていたかもしれない。西日本は旧東欧のようになって、京都や奈良の仏教寺院や神社が半世紀にわたり封鎖されていたかもしれない。日本がそうならずに済んだのが白将軍のお陰だったとも言えるのは次の通りである。…
以下は,下のリンクをお読みください。
「若き将軍の朝鮮戦争:白善ヨプ将軍回顧録」(草思社)に寄せた解説文
このあたり、日本の植民地支配と似てる
日本が韓国を植民地化し(その結果韓国が近代化し)たのは、別に韓国のためではありませんので…
>韓国が赤化していたら、日本は即座に再軍備、私も兵役に駆り出されていたかもしれず、戦後の高度成長もなかった
私もそう思います。半島に防衛する価値がないならマッカーサーが、米国があそこまでの犠牲を出した意味がありません。
しかし韓国が南半分を守り抜いたのは別に日本のためではありませんので、感謝しろと言われる筋合いはないでしょう。
ん?もし日本が朝鮮戦争に兵を送っていたなら、今の日韓関係は大きく違っていたかも。
私には「叱正」する資格も能力もありません。
コメントを拝読して、李庭植『戦後日韓関係史』を書棚から取り出してめくっています。
瀬島とか、大平とか、金大中とかなつかしい名前が出てきます。
借款要求の正当性はともかく、韓国が赤化していたら、日本は即座に再軍備、私も兵役に駆り出されていたかもしれず、戦後の高度成長もなかったのではないでしょうか。
そういう意味で、韓国の軍事独裁政権は、日本にとってありがたい存在だったと思います。
防波堤VS補給基地は、80年代初めの借款交渉の論争点でしたね。
私は防波堤がなければ9条の維持も、沖縄返還もなかっただろうと思います。
全ナントカ元南朝鮮大統領が、振り翳した【共産主義の防波堤】論に関する愚見について叱正を乞い願うものであります。
愚見その1
南朝鮮が日本の盾となり共産主義浸透を防いでいるのだという議論は、アチソンラインを変形歪曲したものでありますが、要は【産業復興資金のタカリ】に詭弁を弄したものであり、それに日本の政治屋が悪乗りしたものであります。
その発信源は日本の政財界にあったのであります。
朴正煕クーデター政権の賠償請求は、政治資金源として宝の山であった訳です。
大義名分が【共産主義の防波堤・南朝鮮援助】です。
理屈と膏薬は後でイクラでも付く典型でありました。
今は、当時の政治屋・政商・ブローカーどもの私利私欲・思惑は忘れられ、スローガンが残ったわけです。
愚見その2
昭和25年夏の日本の本土防衛能力についてであります。
小川彰氏は「警察予備隊は・・・韓国軍以下」としていますが、聊か乱暴であります。
第一・第二復員省が把握していた実戦経験を持ち、再度戦場に向かえる復員兵は、数十万人の規模でありました。当時の就職難の状況をみれば、北九州・山陰方面へ20~30万人の配備は十分可能だったのであります。
更に、北朝鮮軍・中共軍・ソ連軍の渡海能力は空・海ともに略零でありました。
従って日本本土侵攻なぞありえなかったわけであります。
この頃、忘れてはならないことに【石炭鉄鋼傾斜生産】があります。敗戦後の急速な復興の柱になった政策であります。
戦争に鉄は不可欠な物資でありますが、日本は本土防衛戦の耐えられる生産能力を既に持っていたのであります。
愚見その3
小川彰氏の「共産主義のシンパが多かっただろうから・・・ソ連の思想的浸透により日本で内戦が起こり云々」にはあきれるばかりである。
講釈師見てきたようなとはこのことであります。
当時の日共内部では路線対立が激化、一部がトラック部隊など盗賊化し、国民から遊離、見放されておりました。
従って、東西分断国家なぞありえなかったのであります。
蛇足ですが、「日清戦争以後の日本の行動は全否定されてしまう」というご意見について。
朝鮮半島は既に金正日首領様が完全に統治されていると思います。
これは、朝鮮人の選択したものであり、今更、日本が全否定云々ではないと思います。
従って、日本が金正日様と「安保上持ちつもたれつ」
は無いのではと思います。
年寄りの冷や水で、下手糞なワープロ叩いている己が姿は将に駑馬であります。
日清戦争以後の日本の行動は全否定されてしまいますが…。
半島はやはり日本の生命線だったと思いますね。
今はどうなのか、と言われればわかりませんけど。
その反面、日本という補給基地がなければ
今の韓国もなかったわけですから
安保上は持ちつ持たれつなのでしょう。
コメントありがとうございます。
そのような見方もあるのですね。
私は朝鮮戦争後の生まれなので、当時の状況は直接には知りません。
ただ全大統領が日本の借款を取り付けるために持ち出した、共産主義に対する防波堤という論理には、一面の真実があると思います。
これからもいろいろなご指摘をお待ちしています。