火曜日に保育園行事のひとつ、サッカー大会を応援に行ってきました。
京都府立体育館で市内から多くの園が参加しての大会です。
各チームに、おとうさんおかあさんたちもいろんな応援をしていましたね。
親は観客席からの応援ですが、コートの脇では保育園の先生がコーチをしながら声をかけています。
自分の子どものときは応援に集中しますからわかりませんでしたが、他の園の試合の時に眺めているといろいろ気づくことがあります。
コーチングということもあるので、先生はいろいろ指示をされています。
「前に蹴って」とか「広がって」とかいう指示型が多いのですが、中には「なにやってんの!」「それじゃダメでしょ!」という罵倒・ダメだし型もありました。
保育園の活動の中にはいろいろありますから、園によってはこのサッカー大会に大きな期待をして、早くから指導・特訓しているところもあるんでしょうね。
そういう思いが「これだけできるはず」という理想と、目の前の状態のギャップに「過度な期待」を持ってしまうのかもしれません。
普段そんなにきつくないだろう先生でも、ついつい興奮してしまうんでしょうね。
観客席の親のほうでもいろいろ居られます。
やっぱり基本は「がんばれ」でしょうか。
以前も書いたかもしれませんが、「がんばれ」にもいろんな意味が取れますね。
(16-今ある状態を認めてあげる)
「がんばって欲しい」ということでしたらこちらの思いですね。
「がんばりなさい」となると命令・押し付けに近くなりますか。
本人がもう精一杯やっているときの「がんばれ」はプレッシャーになるかもしれませんね。
まだ子どもだと純粋に「応援してくれている」と励みに受け取るのでしょうけど、どれだけやってもそれ以上に「がんばれ」といわれるのは、子ども心に傷が残るかもしれま
せん。
それに対して、終わってからの「がんばったね」は、自分がやったことを受け止めてもらうことですから、子どもにとってもうれしい言葉でしょうね。
ギューと抱きしめてやって「がんばったね」って言ってやれる自分でありたいと思います。
そういう親のほうからのアプローチとは別に、子どもが自分から「がんばる」というのはうれしいことですね。
今回、私の子どもはゴールキーパー。
最初の試合はずっと攻められていたけれど、なんとか0点に抑えました。
2試合目は、結構攻めていたのですが、相手のワンチャンスにいいシュートを決められ、負けてしまいました。
試合後、席に戻ってきたとき、顔を合わせようとしない息子がいました。
近づいて「がんばったてたな」と声をかけてやると、小さい声で「くやしい」と。
「そうか、くやしいんやな」とだけ返して、抱きしめてやりました。
こちらから「こうしたら」ということを言わなくても、自分から「もっと練習して、みんなとがんばって、次は勝ちたい」と意思表示。
「みんなとやるわ。だってぼくキャプテンやから」
私は驚きました。
私はどういう結果でも「それでいいよ」と言うほうでしたから、息子もどちらかというと「まぁしゃあないな」とするタイプです。
(ただ、あとからグチグチと思い返して、いつまでもこだわり続けはしますが)
それが、悔しいという思いとともに、次はがんばろうという気持ちを持つようになっている。
親のほうから追い込まなくても、子どもなりに思うところはあるんですね。
そして、それを自分だけのことじゃなくて「みんなで」という考え方をするようになったこと。
ここ1ヶ月で、運動会の鼓隊・組体操・チームリレーやこのサッカー大会など、グループで目標を目指す行事が続いたことで、個人だけでなく協調ということを学んでくれたのかなと(親ばか要素もかなりあるとは思いますが)
私自身、今、ニートということや、それに対するプログラムを学んでいます。
多くは「社会になじめない」つまり協調ということが出来ないところに悩みを持っているんですね。
そしてその原因は「期待に応えられない」という挫折から始まる場合もあります。
そして彼らは、怠けていたり、逃げているんじゃなく、自分なりに精一杯「がんばっている」ということを知る必要があります。
その頑張りが、周りには「もっとできるはず」という幻想に沿っていないから、周りが認めてくれない。
振り返ってみて、自分自身もそういうことはありませんでしたか?
今、やっていることを、そのまま「がんばっている」と受け止めてあげることは、簡単なようで難しいことかもしれません。
ただ、甘えさせるということとの違いが伝わればいいのですが…
このことは、ずっと考え続けて、伝え続けていく、私のテーマのひとつかもしれませんね。
「がんばれ」と「がんばる」と「がんばったね」の違い…大事なことだと思います。
31-話を最後までちゃんと聞く
30-21~29のまとめ
20-11~19のまとめ
10-1~9のまとめ