コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

厄・災い

2009-02-07 00:05:00 | 真宗
先日、ある人と話していたら「前厄だから…」と気にされていた。
今年になってからお子さんが入院したり、体調が悪かったりしているらしい。
「やっぱり前厄だからかなぁ」と。

以前、因果応報で書いたけど、その年齢だから災いが起こるというところには、何の因果関係も成立していない。
つまり迷信である。

たとえば今年日本で新成人となる人は133万人だと言われて言われています。
仮のこのうちの何人かがこれから20年間で死亡するとしても100万人からの人が厄年を同時に迎えるという…

これだけの人数がいれば、”嫌なこと”がその前後3年間に一度でも起こる人もいるでしょう。
そういう人の話を聴いて「やっぱり厄年だから」と気にしてしまう。
起こることは「自分に因がある」ということを受け止めるのは辛いので、外に原因を持っていきたくなる。
「厄年だから」というのはそういう言い訳にうってつけなんですね。

たまたま何も起こらなかった人は「厄払いをしたから」と安心する。
いや、たまたま自分の業縁がその3年間に花開かなかっただけなんですけどね。

では「厄払い」をした人に”嫌なこと”が起こったときはどう思うのか…
「やっぱり厄なんて迷信だし、厄払いも関係ない」などとは思わないで「お払いが足りない」あるいは「お払いをしたからこれくらいで済んだ。○○さんはもっとひどい厄が降ってきた」などと、決して役に立たない厄払いしてくれた神仏を恨んだりしません。

まぁ、こういうのも気の持ちようで、「厄払い」ということを通じてポジティブに考えられるのならそういう効果はあるでしょうね。
でも、体調に不安が出てきたりするのは、その3年間の厄のせいではなく、年齢を重ねるに伴って衰えてくる自然のことです。
30を過ぎた頃、20代のときように無理が利かなくなってきますし、仕事と責任がのしかかってくる40代前半は一番辛い時期なんじゃないでしょうかね。
そういう統計的なものと、心理操作で「厄」と言って祈祷やお守りなどの商売につなげる…
いや、元々は真剣にその人の不安を解消するために方便で使われていたのかもしれませんがね。

おなじように、先日の節分でどちらかの方角を向いて巻き寿司を食べると一年間健康でいられるという…まったく、その方角や巻き寿司と、私の健康にどういう因果関係があるのか…
しかも、聞くところによるとこれは関西だけで言っていたそうな。
住むところで災いが変わるというのも…ねぇ。

しかし、こういうことをただ迷信だからと切り捨てるのではなく、そういうことにすら頼ってしまいたくなる「私の気持ち」の問題を見つめる必要がありますね。

元気でいたい、健康でいたい、幸せでいたい…
裏返せば、良い状態のままで居続けられない私の悲しみ。
無常ですよね。
苦ですよね。

そういうことを遠ざけるのじゃなく、わが身に引き寄せて「事実」として見つめていく。
仏教の基本は釈迦族の王子が四つの門を訪ねたときに出会った「苦しみの姿」を見つめて受け止めるところからは始まっています。
祈祷やお守りで誤魔化さず、無常を無常と知らせてもらうことから…

南無阿弥陀仏