コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 2月

2009-02-19 18:43:31 | 真宗カウンセリング
1月の世話人会をはさんで、2ヶ月ぶりの輪読会。
この一年進めてきた「いかにして援助的人間関係をつくるか」の中の「ガイダンスの核心」最終回。
この論文を通じて、ロジャース氏の示してきた「仮説・実証・結論」の流れを振り返らせてもらい、当時は画期的だった「クライエント中心」の考え方をあらためて感じさせてもらえた。

私の場合、先に「関わり」ということを大事にし、実践し、導いてくれる先達の姿を追うことからはじめていたのだが、そのことで理屈や学習と言うものに後から触れてきた。
まず、そういう人たちが作ってくれる「関係」に心地よさを感じて、それを求めていたのだ。
次にカウンセリングを学ぼうと思ったときも、ミニカウンセリングの実践・体感を通じて「聞いてもらう」ことを身体で感じていった。

今回の輪読を通して、大事なことはカウンセラーの態度であり、それはカウンセラーの「頭」から生まれるものではなく、「クライエントの反応」をカウンセラー自身が「触れて」生み出されてくるものだということを感じた。
もちろん、そういう「クライエントの反応」を知覚すための経験も必要だし、そういう反応に対応していく経験も必要だろう。
しかし、それらは机上で作り出されるものでも、理論で想像されるものでもない。

すでに実践されている「態度」に触れること。

そういう意味で、私はもっとも正しい「進み方」をさせていただいている。
(道が正しいからといって、私の身に正しく染み込んでいるとは限らないが)

逆に、ロージャース氏がしっかり検証されているもんだから、それを消化したつもりになって先に進もうとしてしまう動きもある。
だからこそ、こうしてロジャース氏の元に返って、根本を見直すことも大事だろう。


今回、他の方と話し合いながら振り返っていくうちに、この流れと仏法を求める流れに非常に近いものを感じた。

すでに出来上がっている先達の姿に、ついついその手法や立ち居振る舞いを模倣しようとしてしまう。
手っ取り早く、結果だけを取り込もうとするのだ。
しかし、経験すべきはそういう外側でなく、そういう態度であらしめる「根本」のほうである。

カウンセリングの場合だと、クライエントを大事にしょうとする「人間観」、仏法の場合だと、なぜ救おうと願われたかの「生起本末」。
それらを抜かして、小手先に走っても得るものはない。

さてさて、そういう私はどのあたりにいるのか…
それはほっといても、私自身からにじみ出てくるもので周りの人が判断してくれるだろう。
「どう見られるか」を磨くのではなく、「根本」を磨いていくだけだ。