コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

お盆に心を寄せて

2011-08-16 20:03:55 | 真宗

祖母の初盆でした。

 

祖母が一人で住んでいた家はすべて片付け、いくらかの品々は私の家に来ていますが、まだ整理できてません。

ずっと祖母の家にあって、子どもの頃祖母が拝む後姿を見ていたお仏壇も、その大きさのため誰も引き取ることが出来ず、どうしたものかと。

その後、祖母の死によって一旦立ち消えていた母の引越しをすることになり、新居にあわせてお仏壇を新調することに。

まぁ、引越しするしないに関わらず、大きなお仏壇は無理なので小さいものにするつもりだったので、それにあわせて祖母の位牌は小さいものにし、同時に祖祖母や祖父らのお位牌も一つにまとめてました。

 

で、引越しも終わり、お仏壇も納入され、この初盆のお参りにあわせて仏さまの魂入れも行なわれます。

 

と、以前のエントリーにも書いてたと思いますが、祖母の宗旨は臨済宗。

なので、お仏壇の中央には仏様が居られます。

これは前のお仏壇から引き継いだもの。

じつはお仏壇は一番小さいサイズにするつもりだったのが、この仏さまが大きすぎて入らないということで少し大きいサイズのものに(ほとけさまも新調すると高くつきますしね)

 

で、無事、お仏壇のお披露目とお参りが終了しました。

 

 

 

お盆といえば、ご先祖などの霊がこの世に帰ってくるのでそれをお迎えしたり送ったり。

(京都では、今日五山の送り火-通称大文字焼きが行なわれます)

しかし、真宗でお話しを聞かせていただいている身としては、そういう先祖を供養したりはしません。

先祖の皆様は、それぞれ仏になっておられたのなら、子孫のために戻ってくることなどなく、お浄土で自分の子孫かどうかなど分け隔てなく、仏としての仕事をされているでしょうし、もし成仏せずに地獄へ落ちておられたとしたら、子孫のことどころじゃなく自分の業を受けておられることでしょう。

なので、お盆だからと先祖を供養する必要はないんです。

逆におろそかにするからといって祟ってこられることもないですしね。

(そういう感情を刺激して、高額のツボなんか売りつけるのは宗教じゃありません)

 

じゃあ、お盆参りはいらないのかというとそうは言いません。

今の自分を省みて、そういう血縁的な流れがないと今の自分がないんだということを思わされ、そういう意味でご先祖に感謝するというのはとても大事なことです。

子どもらにそういう”感謝”を感じてもらうためにも大事なイベントになるでしょう。

 

本当の感謝は、わざわざお盆に限定せずに、常日頃行なっていくべしなんですが、なかなかそうは思いが至らない。

なので、せめてお盆というイベントを通じて、そこに帰らせてもらう。

感謝ということと、忘れっぱなしのダメダメな自分だということと…。

そして、そんな愚かしいものしか持ち合わせていない自分自身は、どう転んだって成仏なんか出来ない身なんだと。

自分の犯し続ける罪というものは、無かったことには出来ないんですし(自覚できるできないはありますが)その報いは受けていかねばならない。

それは親の因果を受けるのでもなく、子どもらが報いていくものではなく、自分自身が引き受けていかねばならない。

自分自身じゃ「そんなに悪いことなの?」って思うようなことでも、しっかり種になっている。

(後生だけじゃなく、今生の事でも、自分で認識してる以上に問題の種になってることはありますもんね)

 

そんな愚かしい身だということを、見抜いて、そんな私を仏の身にするためにはるか昔に立ち上がってくださってる方が居ることを、お盆というイベントを通じて振り返るのは、とても意味がありますよね。

 

まぁ、そういうお話をしてくださる僧侶が中々居られなくて、分刻みでお参りをこなすのが精一杯なのは寂しいことですが…

 

さて、五山の送り火が始まったようです。

 

南無阿弥陀仏