GW
世間では行楽の季節
今年は義父の四十九日で来週新潟へ。
僧侶としていろいろ活躍していた義父のために、ある団体が追悼法要をしてくださるとのこと。
お誘いをうけていたが失礼させていただいた。
義父と最期に言葉を交わしたのが、正月。
思ったより元気にされていた。
京都へ帰る日、家族との連絡ミスから義父と二人だけで話をする時間がもてた。
私にとっては、仏法の師でもあり、カウンセリングの師でもある。
余命ということを聞いていた私は、教えていただきたいこと、聞いておきたいことが山ほどあった。
しかし義父は、幾つか話題をふると、ほとんど私に話をさせ、静かに聞いていた。
言葉ではなく態度でカウンセリングマインドを示すように静かに暖かく、心地のいい場を作って。
その頃の私にとって大きな抱えものを受け取ってもらっていた。
他の誰にも示さず抱えている物を、義父にだけは預けられた。
話題自身は話さずとも、何かしら抱えているということを受け止める…まさにカウンセリングの姿だった。
家族が戻ってきて二人だけの時間が終わる直前、少しだけ憂いを話された。
追悼法要に参加すると、その憂いを伝えたくなる。
最後の生の言葉だから。
しかし、それを言葉にするのは差し障りがある。
そうすると、生の言葉を秘めたまま、差し障りのない言葉で追悼に参加するべきか…
それは精神的に辛いことだ。
都合のいいことに子どもの用事が同じ日程にかさなった。
不参加のいい理由ができるとしめたものである。
会にとっての先生として、追悼法要で皆さんに偲んでいただけるのはありがたいこととして、みなさんにお任せしよう。
そんな複雑な思いも抱えながら、来週新潟へ法事に向かう。
どんな自分と向き合うこととなるか。