昨日の日経新聞夕刊5面にあった記事。
京都大学の「カール・ベッカーさんに聞く」という副題がついています。ベッカー教授曰く「戦前までの日本は死を自然の摂理、次の世への出発であると受け入れ、死を怖がらない社会でした。しかし私が来日したころから死の迎え方が大きく変わります。それまでは8割が自宅、2割が病院で亡くなっていたのが、70~80年代に逆転し、今や病院死が8割以上。長寿にもなって、身近に死をみとる経験が減り、死が怖がらないものになりました。死を覆い隠す社会が死への恐怖と無知を生み、残虐な殺人や自殺につながる面もあると思います」とのこと。
また、「死を恐れるのは、まだやるべきことを十分やっていないというほかに、死がすべての終わりと思うからです。臨死体験者はみな、この世だけで説明できない意味が絶対にあると言います。この人生が小学校のような段階であり、魂や意識がこの体を卒業しても、また別の段階での試練や勉強がある。あの世の存在は証明できませんが、体験者が口をそろえて言うのです」とも言っています。
武蔵野大学大学院では、修了するための履修が必須の科目の一つとして「死生学特講」があります。この講義の中で、死が身近な存在で亡くなることを学んでいます。
私が書いた死生学特講の単位認定レポートの第2章で書いた文章を以下に記しておきます。
>2.現代社会に生きる日本人が死生学を学ぶことの意義
> 私の人生を振り返って思うのは、人の死について学習した経験がほとんどないことである。
>唯一、道徳の時間に死というものに触れたことがあるくらいだろうか。それほど、日本人は
>死について学習する機会が乏しいといえる。
>死について考えることができる「宗教」についても、学校で取り上げられることはまずない。
>公立の学校では、特定の宗教に偏って学習することがタブーだからである。
> 死について、その本質を学ぶ機会が皆無であるにもかかわらず、死はすべての人に平等に
>訪れる。例外なく、すべての人のすぐ隣に死は構えているのだ。1週間先も、自分は絶対に
>生きていると言い切れる人はいない。事故や病気等で、すべての人が明日死ぬかもしれない
>のだ。
> そのように、身近である死について、我々日本人は無関心すぎる。自分自身、あるいは、
>愛する人や家族が死に直面したとき、一体、どのように対処すればよいか、もしくは、どの
>ような態度、心持ちで立ち向かえばいいのか、わかっている人はほとんどいない。何故なら、
>死についての教育を受けていないからである。
> 死生学を学ぶことで、死とは何かということを理解することができる。そして、死に対して、
>どのように接すればよいかがわかる。そのことは、いかに「生」を全うするかに繋がる。
>よく生きるためにこそ、死というものを学習することが重要となる。
> すなわち、死生学を学ぶことで、人生をよりよく生きることができるのだ。
やはり、我々は「死」という言葉を使うのを忌み嫌い、意識的、あるいは無意識的に、その言葉を使うことを避けてしまいます。そういう意味では、立て続けにセキセイインコが死んだことは子ども達にとって、死を考えるきっかけになったかもしれません。
「死」を忌み嫌う我々日本人も、毎日のように、動物の肉、魚等を食べています。いわば、他者の命を喰らって、自分の命をつなげている。そう、他者の「死」により、自分の「生」を継続しているのです。そんな罪深い立場が「悪人」であり、悪人であっても南無阿弥陀仏と唱えることで救われるとしたのが「悪人正機説」。他者を殺さなければ、自分が生きていけないという立場の人々に、救いを与えたといえます。
「死」とは、「死」として単独で成立しているのではなく、「生」の最後に鎮座している重要な事象といえます。どんなに頑張っても、100年ちょっと生きるのが精一杯であり、それが人間に与えられた時間というものの限界。あるいは、もっと短い時間で、人生を終了させなければいけない。だからこそ、今を無為に過ごすことなく、自分の夢や目標に向かって努力する。今の自分には、命の使い方について、それぐらいしか思いつかないのだから。