生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

本日の機構!

2013年05月26日 12時48分20秒 | 大学評価・学位授与機構


遠くに見える機構・・・



どんどん近くに!


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小平カフェテリア

2013年05月26日 12時42分21秒 | 小平
ここは一橋大学の「小平カフェテリア」でした。

過去形になっているのは、2010年に閉店となってしまったからです。残念ですね・・
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投票の帰りに・・・

2013年05月26日 12時41分03秒 | 放送大学
散歩がてら、放送大学多摩学習センターに行ってきました。
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住民投票へ!

2013年05月26日 12時09分34秒 | 小平
「東京都の小平都市計画道路3.2.8号府中所沢線計画について住民の意思を問う住民投票」に行ってきました。

投票資格者の総数の2分の1以上に達しない限り、開票すらされないという厳しい投票。選挙会場の小学校に行ったところ、ちょっとした行列ができていました。

帰り道、選挙事務所の前を通ったのですが、そこでスタッフの方が、「微妙な状況なので、投票に必ず行ってくださいね」と言っておられました。

テレビでは、条例に基づく住民投票は「東京で初」という報道がされていました。全国的に住民参加の行政が推進されるためにも、小平市が将来の先例となるべく、市民の投票参加を求めたいものです。
コメント (2)
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『死を迎える前に』

2013年05月26日 08時39分09秒 | ちょっと立ち止まって・・・
昨日の日経新聞夕刊5面にあった記事。

京都大学の「カール・ベッカーさんに聞く」という副題がついています。ベッカー教授曰く「戦前までの日本は死を自然の摂理、次の世への出発であると受け入れ、死を怖がらない社会でした。しかし私が来日したころから死の迎え方が大きく変わります。それまでは8割が自宅、2割が病院で亡くなっていたのが、70~80年代に逆転し、今や病院死が8割以上。長寿にもなって、身近に死をみとる経験が減り、死が怖がらないものになりました。死を覆い隠す社会が死への恐怖と無知を生み、残虐な殺人や自殺につながる面もあると思います」とのこと。

また、「死を恐れるのは、まだやるべきことを十分やっていないというほかに、死がすべての終わりと思うからです。臨死体験者はみな、この世だけで説明できない意味が絶対にあると言います。この人生が小学校のような段階であり、魂や意識がこの体を卒業しても、また別の段階での試練や勉強がある。あの世の存在は証明できませんが、体験者が口をそろえて言うのです」とも言っています。

武蔵野大学大学院では、修了するための履修が必須の科目の一つとして「死生学特講」があります。この講義の中で、死が身近な存在で亡くなることを学んでいます。

私が書いた死生学特講の単位認定レポートの第2章で書いた文章を以下に記しておきます。

>2.現代社会に生きる日本人が死生学を学ぶことの意義
> 私の人生を振り返って思うのは、人の死について学習した経験がほとんどないことである。
>唯一、道徳の時間に死というものに触れたことがあるくらいだろうか。それほど、日本人は
>死について学習する機会が乏しいといえる。
>死について考えることができる「宗教」についても、学校で取り上げられることはまずない。
>公立の学校では、特定の宗教に偏って学習することがタブーだからである。
> 死について、その本質を学ぶ機会が皆無であるにもかかわらず、死はすべての人に平等に
>訪れる。例外なく、すべての人のすぐ隣に死は構えているのだ。1週間先も、自分は絶対に
>生きていると言い切れる人はいない。事故や病気等で、すべての人が明日死ぬかもしれない
>のだ。
> そのように、身近である死について、我々日本人は無関心すぎる。自分自身、あるいは、
>愛する人や家族が死に直面したとき、一体、どのように対処すればよいか、もしくは、どの
>ような態度、心持ちで立ち向かえばいいのか、わかっている人はほとんどいない。何故なら、
>死についての教育を受けていないからである。
> 死生学を学ぶことで、死とは何かということを理解することができる。そして、死に対して、
>どのように接すればよいかがわかる。そのことは、いかに「生」を全うするかに繋がる。
>よく生きるためにこそ、死というものを学習することが重要となる。
> すなわち、死生学を学ぶことで、人生をよりよく生きることができるのだ。

やはり、我々は「死」という言葉を使うのを忌み嫌い、意識的、あるいは無意識的に、その言葉を使うことを避けてしまいます。そういう意味では、立て続けにセキセイインコが死んだことは子ども達にとって、死を考えるきっかけになったかもしれません。

「死」を忌み嫌う我々日本人も、毎日のように、動物の肉、魚等を食べています。いわば、他者の命を喰らって、自分の命をつなげている。そう、他者の「死」により、自分の「生」を継続しているのです。そんな罪深い立場が「悪人」であり、悪人であっても南無阿弥陀仏と唱えることで救われるとしたのが「悪人正機説」。他者を殺さなければ、自分が生きていけないという立場の人々に、救いを与えたといえます。

「死」とは、「死」として単独で成立しているのではなく、「生」の最後に鎮座している重要な事象といえます。どんなに頑張っても、100年ちょっと生きるのが精一杯であり、それが人間に与えられた時間というものの限界。あるいは、もっと短い時間で、人生を終了させなければいけない。だからこそ、今を無為に過ごすことなく、自分の夢や目標に向かって努力する。今の自分には、命の使い方について、それぐらいしか思いつかないのだから。
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